くーちゃんママシリーズ





第四章  子育て編   7







 一年後─────




 「フン フン〜♪」
 綾辻は鼻歌を歌いながらフライパンを動かしている。
もう、日常になってしまったこの光景を、幸せだと思うのは毎回だ。こんな風に大切な者達と穏やかな日々を過ごせる自分を果報
者だと思う綾辻は、完璧に整ったテーブルの上を見て頷きながら、明るい朝日が差し込むリビングへと視線を向けた。
 「準備出来たわよ〜」
 「はい」
 その声に、何時もと変わらない口調の声が返ってくる。
 「ゆうちゃん、起きた?」
 「なんとか。この年頃の子供に規則正しい生活を強いるのは可哀想ですが、仕事上どうしてもそうしなければなりませんから」
申し訳なさそうな声に、綾辻は当然よと笑った。
 「親の世話になっている間は親に合わせるのが当然。克己は悪いなんて思うこと自体無いのよ」
 「ですが・・・・・」
 「それに、ゆうちゃんだって嫌がってないはずだもの。何時でもママといられて嬉しいわよね〜?」
 「・・・・・その、ママというのは止めて下さい」
 嫌そうな響きだったが、その白い頬が赤くなっているのが分かる。
抱きしめたいなと瞬間的に思った綾辻が手を伸ばし掛けたが、
 「まー!」
 まるで、それを阻止するかのように高い声が響いた。
 「優希?」
直ぐに綾辻からリビングのソファの向こう、ラグの上に直に座っている我が子に視線を向けた倉橋が、愛おしそうに目を細めて伸
ばしてきた手を握っている。
 久し振りの甘やかな時間を邪魔されたという思いはあるものの、こんな倉橋の表情を引きだせるのは優希しかおらず、綾辻は
諦めたように溜め息をつくと、ほらほらと2人を急かした。
 「本当に急がないと遅くなっちゃうわよ〜」



 倉橋が優希を出産してから1年半が過ぎた。
普通ならばそろそろ歩き始めてもおかしくは無いし、言葉数も多くなってくる頃だが、男の母親を持つ優希の成長は少し遅くて、
未だハイハイをするのがやっとだった。
 身体も小さくて、食も細くて、綾辻も倉橋もどうすればいいのか迷い、悩み続けたが、直ぐ傍に最高の先輩がいたことでその不
安もかなり解消されていた。

 自分達の会派の長である海藤と、その恋人の真琴。
彼らも男同士という関係ながら愛をはぐくみ、貴央という子供が誕生した。貴央も、かなり小さく生まれ、成長も遅かったが、今で
は元気に走り回っているし、少しの不安要素もない。
 真琴が妊娠した時からずっと傍で見てきた2人は、彼らの背中を追い掛けるようにして子育てをしていた。もちろん、1人1人性
格の違う子供を同列には見れないが、大丈夫という確信を持つには最高の先例だった。



 「ほら、こぼさない」
 スプーンで口もとにスクランブルエッグを運んでやる。子供用に油を使わない、味も薄いものだ。
ようやく、一か月ほど前からミルクから離乳食に変えた。
始めの頃は嫌がって吐き出すことも多かったが、今ではそれもほとんどなくなった。
 離乳食になり、ミルクをやる回数がかなり減らされて助かったものの、大人と同じような物を食べさせるようになればそれなりに
増える仕事も多く、我が子でなければ耐えられないかもと倉橋は何時も思っていた。
 「あー」
 「・・・・・」
 「美味しい?」
 「・・・・・」
 まだ、美味しいとか、不味いとかの味覚がはっきり分からないのか、優希は首を傾げている。それでも自然に浮かべている笑顔
で分かり、倉橋は安心した。
(心許無いが・・・・・かなり人間らしくなったな)
 自分には似ていない、柔らかな明るい髪はくせ毛で。
同じような瞳の色も、きっと綾辻に似たのだと思う。
そう言えば、

 「あら、可愛い口は克己に似てるわよ?少し薄めで色っぽい」

と、綾辻はいきなりキスをしてきながら言ってきた。
もちろん、一発頭を叩いて馬鹿なことを言わないでくれと言った。この歳で色っぽさなど関係ないし、大体優希は男だ。
 それでも、似ていると言われたら気になって、つい唇に触れてしまうことが多くなった。そうすると優希も喜んで、まるで哺乳瓶と
勘違いしたかのように指を吸ってくる。
 可愛い。
自分の中で大きくなる感情。義務や責任感というものを超越した、本当に何の見返りも望まない愛情を注げる存在に、倉橋の
人生は本当に豊かに変化していた。



 「おはようございます!」
 いっせいに頭を下げられ、倉橋は静かに答えた。
 「おはよう」
始めから野太い男達の大声にも泣くことは無かった優希は、綾辻の腕の中から相変わらず愛らしい表情で周りを見回している。
その表情に嫌な思いを抱く者などおらず、デレっと目元が緩んだ男達の顔はとてもヤクザと呼ばれる者達には見えなかった。
 「今日の当番はだ〜れ?」
 「自分です!」
 綾辻の声に前に出てきたのは、まだ22歳の若い組員だ。
 「コウちゃんか。今日1日、ゆうちゃんをよろしくね〜」
 「はいっ」
張り切ったように答える組員に優希を手渡すと、倉橋はその手を軽く握ってまた後でと言っている。
(そんな可愛い行動しないでよ〜)
いったい、何人の組員がそんな倉橋にデレデレしているのか、綾辻は苦笑しながら自分も自室へと向かった。

 子連れ出勤。
それを男がすることはほぼ無いと言ってもいいだろうが、自分達の場合は父親も母親も男で、責任のある仕事を持っているので
仕方が無い。
 幸い、海藤は自身の事情からもそれを容認してくれているし、組員達も受け入れてくれていた。
ただ、以前はベビーベッドに寝かせていればよかった優希も、這うということを覚えてからはかなり行動範囲が広がり、ベビーベッ
ドから落ちそうになったことが何回もあった。そのため、当番制で組員に面倒を見てもらうことになったのだが・・・・・。
(それもまた、問題なのよねえ)

 綾辻個人としては自分が毎日面倒を見てやりたいくらいなのだが、周りの状況がそれを許してくれない。
ヤクザといえども、長である海藤の影響で誰かれ構わずに暴力をふるう者などはおらず、最近は優希のために禁煙する者も多く
なって、それはそれでいいのだが・・・・・。
 「いつもすまないな」
 「い、いいえっ、気にしないでくださいっ、倉橋幹部!」
 「優希」
 「まー」
 「何度言ったら分かる?私はママではないぞ。本当に・・・・・困ったものだな」
 そう言いながらも、倉橋の顔には笑みが浮かんでいて、その笑みをぽうっと見惚れている組員達・・・・・。
綾辻が困っているのはまさにそこで、無表情で厳しいと言われている倉橋の甘いやかな顔を皆に見れれてしまうのが、何だか自
分だけの宝物が触られまくっているようで面白くないのだ。
 もちろん、自分のものだと綾辻が公言し、優希という子供までいるので手を出して来る者などいるはずが無いが、それでも視線
が向くだけでも嫌だ。
誰かにこんな強い独占欲を抱くのは倉橋が初めてなので、綾辻は自分のその感情を持て余すことも多かった。



 「失礼します」
 ノックをして部屋に入ると、海藤がパソコンから視線を離した。
 「目を通して頂きたい書類があるのですが」
 「ああ」
デスクに歩み寄り、手にした書類を海藤に手渡す。それを受け取った海藤は倉橋を見上げた。
 「優希はどうだ?」
 「おかげさまで元気です。あの」
 「・・・・・」
 「何時までもここに連れてくるのは甘えだと分かっているんですが・・・・・」
 さすがに自分が厚遇を受けているのは自覚している。本来、そんな特別扱いを許さないはずだった自分がと思えばどうにかしな
ければと思うのだが、まだ2歳にもなっていない優希を保育園に入れるのはどうしても早いと思っていた。
 「構わない」
 「社長」
 「事情があるのならともかく、こちらがいいと言ってる限りはそれに甘えていればいいだろう。いずれ、子供は巣立っていく。それ
まで傍にいて十分甘やかしてやればいい」
 「・・・・・」
 自分も、そしてきっと海藤も、生まれた家はそれなりに財力もあったが、家庭的には恵まれていない幼少時代を過ごした。
だからこそ、ではないが、自分の子供には目一杯の愛情を注ぎたい。
どんなふうにすればいいのかはまだよく分からないが、それでもちゃんと考えなければいけないだろう。
 「俺も、まだよく分からない」
 海藤の頬に苦笑が浮かんだ。
 「真琴と貴央が教えてくれているんだ。お前も、あの2人からゆっくりと学べばいい」
 「・・・・・はい」
静かで重い言葉に、倉橋は頷いた。海藤ほどの人が分からないことを、自分がこんなにも早く分かるはずが無い。
多くの人の助けを借りながら成長していかなければ・・・・・生真面目な倉橋はそう強く心に誓った。



 昼になり、事務所へと下りて優希の様子を見た。
 「あ、倉橋幹部っ」
 「ありがとう」
【すまない】と、言うよりは、【ありがとう】と伝えた方がいい。
綾辻の言葉を実践していると、相手の顔がより嬉しそうに変化することも分かった。
 若い組員はどうやら子供好きなようで、今も優希を膝に抱いた格好で笑わせている。なんだか、倉橋も微笑ましい気持ちにな
り、口元を緩めてしまった。
 「昼は私が見るから、食事に行ってきなさい」
 「はいっ」
 優希を抱きしめると、首に回ってくる小さな手が温かい。
 「お腹は空いたか?」
 「あー」
 「・・・・・ごはん、は?」
 「ごーあ」
 「・・・・・まだ、もう少し先だな」
定期健診で病院に行けば、同年代の子供の成長が優希よりも早いことはよく分かる。人並みがいいとは言わないが、それでも
自分が産んだからなのかという不安は何時もつきまとっていた。

 「大丈夫ですよ、倉橋さん。子供はゆっくりでもちゃんと成長してくれます」

 「・・・・・そう、ですよね」
 子育ての先輩である真琴の言葉を思い出し、倉橋は自分の視線にまで抱き上げた優希をじっと見つめた後、その頬に頬ずり
をする。
愛しい愛しい存在を、これ以上どう愛せばいいのか、教えてくれるのもまた、この温かな存在ではないかと思っていた。





                                   





6話から一年後。
まだハイハイがやっとです。