くーちゃんママシリーズ
第四章 子育て編 9
目を離した隙に、優希が這ってリビングから出て行こうとする。
そのスピードはかなり遅く、何時もなら容易に捕まえることが出来るのだが、倉橋は米粒の付いてしまった両手を舌打ちをして見
下ろすと、綾辻さんと大きな声で呼んだ。
「すみませんっ、優希を捕まえて下さい!」
「ゆうちゃん?どこに・・・・・あら」
玄関先にいたらしい綾辻は直ぐに優希の姿を見付け、笑いながら抱き上げると自分の目線にまで持ち上げてメッと形ばかりの
説教を始めた。
「克己を困らしちゃ駄目じゃない。ここでは克己が一番偉いんだから、怒らせちゃったりしたらご飯抜きかもよ〜」
「・・・・・何を言っているんですか」
このマンションの持ち主は綾辻だし、家族の中で一番大切にしなければならないのは優希だ。
(・・・・家族、か)
ごく自然にこの言葉が浮かんでくるのに2年も掛かってしまった。それは倉橋にとっては必要な時間だったし、思った以上に早い
認知でもある。
「可哀想ですけど、今日は遊んでやる時間は無いですよ。もう一時間もしないうちにお客様が来られるんですから」
「分かってるわよ。ゆうちゃんのために来てくれるんですものね〜、ちゃんとお迎えしないといけないんだから、あんたも協力する
のよ?分かった?」
「・・・・・」
(2歳児相手に何を言っているんだか・・・・・)
そう、今日は8月25日。
優希の2歳の誕生日だった。
(2年なんてあっという間ね〜)
綾辻は腕の中の優希を見つめながら思った。
倉橋を好きになって、強引に身体を奪って、恋人同士になって・・・・・その倉橋が自分の子を妊娠するなんて、本当に綾辻の七
不思議の一つだが、それでももちろん嬉しかったし、これで倉橋が自分から離れて行かないと確信も出来た。
冷たい家族関係だった倉橋にとって、人の親になるというのはとても恐ろしいものだったと思うが、自分のために、そして腹の子
のためにその恐怖を克服し、大変な思いで出産をしてくれた倉橋は本当に凄い。
あの時泣いてしまった自分の中にあった思いは、感動と、歓喜と、孤独からの卒業。どんなに周りに人がいても、その相手のた
めならば笑って死ねるほどの最愛の者を本当に改めて目の当たりにして、自分はこの日のために生きてきたのだと思った。
それから2年。
もちろん、何も無く平和だったとは言わない。
真面目な倉橋は優希を育てることにも頑ななほど一生懸命で、なかなか他人の手を頼ろうとはしなかったし、男の腹から生まれ
たせいなのか、優希の成長が他の子供達よりも遅いことを自分のせいにして泣いていたのも一度ではなかった。
それでも、今、優希は這うことも出来るし、『まんまー』や、『たーちゃ』(貴央のことがとても好きらしい)など、幾つかの単語も話
すことが出来るようになった。
スピードが遅くともちゃんと成長していることを、倉橋も自身の目で見て納得しているのではないか。
そして、今日は優希の2歳の誕生日。
御前と言われる菱沼達を呼んでのパーティーは今度の土曜日にすることになったが、誕生日当日の今日は、海藤達親子だけを
呼んで内輪のパーティーをする。
貴央が優希のためにプレゼントを用意してくれているらしいし、真琴の、
「誕生日当日って大事ですよ」
と、いう言葉も参考にして、本当にささやかながら祝いをしてやろうと倉橋とも相談したのだ。
「あ、出来てる」
優希を抱き上げたままキッチンに立つ倉橋の後ろから覗き込むと、
「ま、まだ途中ですっ」
耳まで赤くした倉橋が焦ったように手元を隠した。
何時もは優希の離乳食以外あまりキッチンに立たない倉橋が、今日はパーティー用の巻き寿司を作っている。あれだけ仕事で
は有能で、細かい所に気付く倉橋だが、料理に関してはどうも不器用だ。
それでも、もてなすために一生懸命している姿は、見ていてとても可愛らしい。
(私がやった方が早いんだけど・・・・・)
多少不格好でも、倉橋がすることに意味があるのだと、綾辻は自分も別のことをしようと優希を抱いたままキッチンから出て行っ
た。
歪な巻き寿司を皿に並べているとやり直したくなってしまうが、今からでは材料が足りないし、時間もない。
これが相手が綾辻だけならば、
「腹に入れてしまえば同じでしょう」
と、言い返すことも出来るが、相手が海藤と真琴ならばある程度のものにはしたいが・・・・・料理に関してはこれが自分の精一杯
だということは自覚していたので、倉橋は無理矢理に視線を離した。
オカズに関しては先に綾辻がしてくれている。真琴と貴央用に唐揚げやハンバーグ、スパゲティ、海藤用に煮物や天麩羅など、
この狭いキッチンでよくこれだけのものが同時に出来たと思うほどに手際良く、美味しそうなそれを見て、劣等感も感じ無いことは
ないが、
「共同作業ね」
そう言った綾辻の言葉で、全て帳消しに出来る。
「・・・・・よし」
時計を見上げれば、もう直ぐ午後6時だ。
(優希も着替えさせておこうか)
子供は部屋着でもいいのだろうが、せっかくだから着替えさせてやろう。そう思った倉橋は手を洗うと、今は優希のお守りをしてい
る綾辻の姿を捜し始めた。
「ゆーちゃん!」
「たーちゃ!」
玄関先で、自分の腕の中から優希が身を乗り出す様子を見て、綾辻は笑いながら廊下に下してやった。
「ぎゅーっ」
「ぎゅー」
小さな子供達が抱き合っている姿は微笑ましい。
「ほら、たかちゃん、ご挨拶は?」
「こんばんわ!」
「いらっしゃい、貴央君」
「いらっしゃ〜い」
真琴に促されてペコっと挨拶をする貴央は随分とお兄ちゃんらしくなっている。幼稚園に通い初めて5カ月あまり、優希の成長
以上に貴央の成長はめざましい。
(ゆうちゃんも幼稚園に行ったらこんなふうになるのかしら)
早くその姿が見たいが、一方ではまだこの腕の中にいて欲しいと思う気持ちがある。海藤はどうなのだろうかと視線を向けると、
目を細めて貴央の姿を見下ろしていて・・・・・さすが上に立つ人間は違うなと思った。
「今日は邪魔をするな」
「いいえ〜、夫婦そろっての早引けも許してもらっちゃったし、大歓迎ですよ」
「綾辻さんっ」
夫婦というのが引っ掛かったらしい倉橋が眉を顰めて睨んできたが、綾辻はにっこりと笑って誤魔化すとどうぞと来客を中に招い
た。
「あ、可愛い」
リビングに並べられたご馳走の数々。
その真ん中に陣取っている巻き寿司は何やら顔のようで、店で売っているものとは妙に違うが、何だか胸が温かくなる気がした。
(倉橋さん、頑張ってるな)
「ゆーちゃん、はい!」
その時、貴央の声がして真琴が振り向くと、今日優希のために持ってきたプレゼントを渡しているのが見えた。
真琴と一緒に、優希のために作ったプレゼント。2歳の優希がどんなものを喜んでくれるのか分からないが、一生懸命作っていた
貴央の気持ちが通じればいいなと思う。
「あら、ゆうちゃん、良かったわね〜」
綾辻が貴央の差し出した大きな包みを開いた。
「似顔絵?」
「うん!たかちゃんと、ゆーちゃん!」
「2人ともカッコいいじゃない。ねえ?」
画用紙に描いた絵。ようやく人の形になり始めたそれを見せられた優希は、鮮やかな色遣いが気に入ってくれたのか喜んで声を
上げている。
オモチャとか、お菓子とか。真琴も色々考えていたのだが、貴央はさっさと自分がしたいことを伝えてきて、真琴は材料を用意し
てやったくらいで、ほとんどが自分で作っていたのだ。
(根気強いとこは海藤さんに似たのかも)
「それと・・・・・これは?」
「おーじさまだよ!」
「王子様・・・・・ああ、王冠かしら?」
「あ、見えないでしょう?これ、折ってあるから、こうして・・・・・」
綾辻の手からそれを取って真琴は形を整えた。厚紙で形を作り、金の折り紙を貼り付けたそれを優希の頭に被せて見ると、
「あ」
「あ」
真琴と綾辻の声の後に、貴央の驚いた声が上がった。
「あれ?」
かなり小さめに作ったと思ったのだが、被せると思った以上に小さかった頭をすり抜け、鼻の辺りにまでずり落ちてしまう。
だが、優希は怒るというよりも声を上げて喜んで、それを見た真琴達もなんだかおかしくなって笑ってしまった。
「ゆーちゃん、うれし?」
「うん!」
手足をバタバタさせて喜んでいる優希を見て、貴央もホッと安心したようだ。
どうやら貴央からのプレゼントは成功だったなと思いながら、真琴は海藤と一緒に選んだ服と帽子の入った紙袋をそっとイスの
後ろに置いてしまった。
少し手直し(セロハンテープで小さくした)された王冠を頭に被った優希を中心に、一同はリビングのラグの上に直接座った。
「マコ、いーの?」
貴央は倉橋が差し出したジュースのコップを見ながら真琴に問い掛けていたが、いいよと真琴が言うと嬉しそうな顔をしてそれを
受け取った。きちんと教育をしているなと思いながら、倉橋は自分も座わる。
「じゃあ、ケーキの登場で〜す!」
綾辻がケーキを運んでくると、優希と貴央の歓声が上がった。手の平サイズのバースディケーキに立っているロウソクは2本。
(2歳、か)
何だか、とても時間の流れが速い。毎日毎日、優希の成長に一喜一憂し、子育てに悩み・・・・・自分の過去など振り返る暇
が無いほどで、無駄な時間というものが全くなかった。
それに、1歳の時と今回とでは、優希の反応もまるで違う。本当に嬉しいと、楽しいと全身で示してくれるので、何だか倉橋も
嬉しくなるのだ。
「・・・・・」
誕生日は、ただ単に歳が一つ重なるだけの日だったのに、それが子供のものになると意味は全然違う。生きてくれて良かった
という時間が重なって行くものなのだなと、倉橋は綾辻がロウソクに火をつける様子を見ながらしみじみと感じていた。
「たかちゃん、始めはゆうちゃんが食べるんだからね?」
「たかちゃん、あと?」
「そうだよ。五月のたかちゃんの誕生日の時は、たかちゃんが最初に食べたでしょ?今日はゆうちゃんの誕生日なんだから、ゆ
うちゃんが先、分かった?」
「わかった。ゆーちゃん、はやくたべてっ」
「あのねえ」
真琴は急かしたら駄目だと言っているが、貴央にそんな配慮が出来ないのは仕方が無い。
ここは貴央のためにも少しでも早く進めてやらなければと、倉橋は自分も立ちあがって部屋の電気に手をやった。
「消しますよ」
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ゆうちゃん、2歳の誕生会。
次回でこの章も完結のはず?