くーちゃんママシリーズ





第一章  懐妊編   5







 綾辻がどうしてこんなことを言うのか、倉橋は頭の中が真っ白になっていて何を言っていいのかも分からず、俯いたまま顔を上げ
ることも出来なかった。
 「倉橋」
 やがて、低い声が倉橋を呼んだ。始めの驚きの表情からは想像出来ない落ち着いた海藤の声。それだけでは、海藤が自分
の妊娠と綾辻の言葉をどう思っているのかは窺い知れなかった。
 「・・・・・は、い」
 「今、綾辻が言ったことは本当か?」
 「・・・・・」
 ここで違うと言えたらどんなに気が楽かとは思ったが、例え嘘でもそんなことを言ったら腹の中にいる子供に悪いような気がして、
倉橋は微かに頷いて海藤の言葉を肯定した。
 「わぁ・・・・・凄い!」
 緊迫した空気の中、そう歓声を上げたのは真琴だった。直ぐに倉橋の側にやってきて腰を下ろすと、そのまま貴央から手を離し
て倉橋に抱きつく。
その行動に面食らった倉橋は、どうしたらいいのか分からずに固まってしまった。



 「おめでとうございます!」
 「・・・・・真琴さん」
 「凄い、凄い!赤ちゃんが出来たなんて!もしかしたら綾辻さんと恋人同士なのかなって思ってたけど、見ている雰囲気じゃよく
分からなくて・・・・・でもっ、赤ちゃんのパパなんですよねっ?」
 真っ直ぐな視線を向けられ、綾辻はしっかりと頷いた。もう、とっくに自分達の関係は真琴も知っていると思っていたが、まだちゃ
んと認識されていなかったとは自分のマーキングもまだまだ甘いなと思う。
 「そうよ、マコちゃん。私、パパになっちゃった」
 綾辻は苦笑したが、真琴の言葉は本当に嬉しかった。何の利害も無く、口だけというわけでもなく、心の底から祝ってくれている
事がよく分かるからだ。
 なにより、真琴は男性体で子供を生んだ先輩になる。これから先の様々な出来事に関して、誰よりも倉橋のよい先輩になって
くれるだろう。
(こればかりは、経験者が一番強いだろうし)
 「倉橋さんっ、楽しみですね、赤ちゃん生まれるの!」
 「・・・・・」
 「たかちゃんも、お友達が出来て嬉しいねっ?」
 「ね?」
 笑っている真琴を見て嬉しいのか、貴央も笑いながら首を傾げた。
可愛いその仕草を見て、倉橋は何を思っているのか・・・・・綾辻は俯いたままの倉橋の肩に手を置く。
 「克己、顔を上げて」
 「・・・・・」
 「そんなに、恥ずかしいこと?」
 「・・・・・」
 それでも、倉橋は顔を上げない。
(頑固者)



 海藤にとってこの2人の報告は、いずれ聞くだろうと想像していたものでは無かった。
2人が付き合っていることは暗黙の了解で知ってはいたが、男性体の妊娠の確率は今だに稀であるし、倉橋を見ていると、セッ
クスという生々しい現実はあまりに似合わなくて、彼が妊娠したという事実を面前で突きつけられても、真琴のように直ぐには受け
入れられなかった。
(倉橋が・・・・・妊娠)
 ただの部下というだけでなく、学生時代の先輩でもある倉橋。昔の彼から考えれば、さらに今回の事は驚くことだったが、もちろ
ん海藤は反対する気持ちは無かった。
 人を愛する事を知らなかった自分が真琴と出会って変わったように、人間不信・・・・・いや、自己否定の強い倉橋が綾辻と出
会って変わったということはありえる話だろう。
 「倉橋、本当の事なんだな?」
 もう一度、念を押すように訊ねると、僅かに頷くのが分かった。
事実が確認出来れば、海藤の決断は早かった。
 「分かった。もう無理だと思うまで出てきてもいいが、絶対に無理はするな」
 「海藤さんっ」
 「会長っ?」
海藤の言葉に、真琴と綾辻は思わず声を上げた。
 「休むように言ってください。もちろん、除籍は俺も望んでいませんが、このまま激務に就かせるのは・・・・・」
 「激務にするかどうかは、お前の働き次第じゃないか、綾辻」
 「・・・・・」
 「今まで全て事務的なことや面倒なことを倉橋に任せてきたお前のツケだ。甘んじて受ける覚悟はあるんだろう?」
 「・・・・・もちろんです」
 「倉橋」
 倉橋が第一線から退く痛手は大きい。しかし、海藤自身、真琴が無事出産し、その後2人ともちゃんと生きているというのを自
分の目で確認するまで気が気ではなかったのだ、最低限の安全策はとっておかなければと思った。
 「・・・・・私は、これでも開成会の幹部をやらしてもらっています。自分の都合で業務に支障をきたすくらいなら、このまま役を辞
させてください」
 「俺は、お前から居場所を奪うつもりは無いぞ」
 「会長・・・・・」
海藤はソファから立ち上がると、倉橋の目の前で膝を折った。
 「俺達で作り上げてきた開成会だ。倉橋、俺を見捨てるなよ」
 真面目な顔で除籍を言い出したくらい、倉橋にとって今回の自身の妊娠は大きな出来事だったのだろう。
一方で、あれほど今の自分の居場所を大切にしてきた倉橋が、それを捨て去ろうと思うくらい今回の妊娠を大事に考えているの
だと思えて、海藤は不謹慎だが嬉しくなった。
人間としての感情を置き忘れたと言われていた自分達が、揃って愛する対象を見つけられたことが、とても・・・・・嬉しかった。



 海藤の一言一言が胸に響いた。
数年前まで、確かに生きていると言えなかった自分が今こうしていられるのは海藤と共に開成会を大きくしていこうという目的が出
来たからだ。
倉橋にとって開成会は、世間が言うようなヤクザの組というものではなく、自分が生きていく上での一番大きな指針になっていた。
 だからこそ、離れたくない。生きていく意味を失いたくないと思ったが、今自分の腹の中にいる子のことを考えれば、今までのよう
な激務はとても無理だ。危険な目にも遭わせたくは無い。
無事に生むことが出来るかどうかも不安なくせに、生まれた後のことまで考えてしまう自分が滑稽だったが、倉橋の中では既に自
分は1人ではなくなっていた。
 「男の子連れなど・・・・・開成会が・・・・・あなたが、笑われてしまいます」
 「気にすることはないだろう。それぐらいでお前の能力が落ちるわけじゃない」
 「・・・・・いざという時、あなたを守れない・・・・・」
 「俺の代わりに生まれた子を守ってやれ」
 「私は・・・・・怖いんです。本当に・・・・・この子を愛せるのか、どうか・・・・・」
 「真琴の生んだ貴央をここまで愛してくれているお前だ。自分の子ならもっと可愛くなるだろう。倉橋、お前は自分が思っている
以上に豊かな感情があるんだぞ」
ゆっくりと言い聞かせるような海藤の言葉を聞いているうちに、倉橋の目から涙が零れてしまった。人前でこんな風に泣くのなど何
年ぶりか・・・・・いや、幼い、物心ついていない時以来のような気がする。
 「あ・・・・・り・・・・・」
 ありがとうございますと言葉には出来なくて、倉橋はそのままゆっくりと頭を下げた。



(いいとこ持っていかれたな)
 自分の言葉には常に反抗し、疑念を抱くくせに、海藤の言葉はこんなにも素直に受け止める倉橋。そんな2人の関係が綾辻
は羨ましくて少し妬ましいが、それ以上の関係を今から作っていけばいいのだと思い直した。
とにかく、倉橋の気持ちが前向きになってくれたらそれでいい。
 「克己、除籍は無しでいいわね?」
 「・・・・・」
 もう一度念を押すように言うと、倉橋は微かに頷いた。
 「じゃあ、私との所帯の件も許してもらった事だし・・・・・」
 「待て、綾辻」
 「はい?」
 「その件については、俺は許可をしていないぞ」
 「・・・・・は?」
綾辻は思わず海藤の顔を見返した。その頬には笑みが浮かんでいる。
(え?今のって、当然その話も込みなんじゃ・・・・・)
倉橋の残留も、子供の事も、全て受け入れると言った海藤の言葉の中には、当然倉橋の相手であり、子供の父親である自分
との関係も許可を受けたと思っていた。
 「か、会長?」
 「俺は、倉橋と子供の側だ。お前には付いていないぞ」
 「ちょ、ちょっと、何ですか、それはっ」
 「倉橋がうんと言わない限り、所帯を持つのを許すわけにはいかんな」
 「・・・・・」
(おいおい・・・・・)
 もちろん、組員達の結婚に対して組長が許可を与えなければならないという古臭い体制の開成会ではないが、倉橋と海藤の
繋がりを考えれば、海藤が頷かない限り倉橋は絶対にうんとは言わないだろう。
 「かいちょ〜」
 「まあ、同居は仕方ないだろうな。万が一の時には直ぐに動ける人間が側にいた方が安心だ。そうしろ、倉橋」
 「はい」
 「・・・・・」
(はいって、そこで直ぐに頷くわけ〜?)
 同居はもちろん嬉しいことに変わりないが、それが海藤の言葉からというのが引っ掛かる。しかし、一歩始まりが遅かった自分に
は、それもハンデというのだろうか。
(も〜・・・・・っ、組員達には絶対に姐さんて言わせちゃおっと!)
せめてもの意趣返しにそう思うが、きっとそれも倉橋の猛烈な拒否を受けるだろう。それもそれで、綾辻は複雑な思いがした。





                                   





何とか倉橋さんも開成会に残る気になり、綾辻さんとの同居も始まりそうです。

あ、その前に組員達への報告も待っています。