くーちゃんママシリーズ
第一章 懐妊編 8
目の前に停まった高級国産車。次々と車の中から下りてきた男達の中にいた綾辻は、立っていた倉橋を見て苦笑しながら近
付いてきた。
「綾辻さん」
「覚悟していてね」
「え?」
それがどういう意味なのか分からないでいると、二台目の車の後部座席を1人の男が開けた。
まず出てきたのは、洒落たスーツ姿の前開成会会長であり、海藤の母親の兄でもある、菱沼辰雄(ひしぬま たつお)だ。
既に60を過ぎているとは思えないほどに若々しくお洒落な菱沼は、いつも穏やかで優しい空気を纏っている。
今日も、車から出て直ぐに倉橋の顔を確認した菱沼は、困ったような・・・・・それでも優しい顔をして笑い掛けてくれた。
「御前・・・・・」
「やあ、くーちゃん、今回は驚いたよ」
「・・・・・」
「まさか、君とユウがねえ」
「も、申し訳ありませ・・・・・」
何と言われても仕方が無いと、倉橋は深く頭を下げようとした。しかし、
「お前が頭を下げることはないわよ」
「・・・・・涼子さん」
続いて車から下りてきた涼子は、なんと黒の留袖姿だった。
隣で倉橋が驚いている気配がする。
(そりゃ、びっくりするわよねえ)
朝早く菱沼を迎えに行った時、出迎えてくれた涼子のこの姿には綾辻も驚いた。
菱沼と同様、涼子も本来の歳よりもかなり若く見え、何時もは華やかな洋装姿だった。それが、今回は綺麗に髪を結い上げ、
鶴の模様が入った上品な留袖の着物を着ていて、その姿を見た時、綾辻は素直に嬉しいと思ってしまった。
(なんだかくすぐったいわね、祝ってもらうのって)
「あ、あの」
「・・・・・」
「・・・・・」
普段冷静沈着な倉橋が、珍しく口ごもっている。それも仕方が無いだろう、男の身で妊娠ということを簡単に口に出せるはずが
ない。
「・・・・・」
そんな倉橋の目の前まで歩み寄った涼子は、一瞬眉を顰めた後・・・・・そのままその身体を抱きしめた。
「!」
「あっ」
「何も心配することは無いわ」
全てを含んだようなその言葉に、倉橋の表情が泣きそうに歪んだのか分かった。人前で泣くのを良しとしない倉橋が実際に涙を
流すことはなかったが、それでも綾辻にはその頬に伝う嬉し涙が見えるような気がする。
(良かった・・・・・やっぱり御前達にはちゃんと報告するべきだったわ)
どうやら今回のことを許してくれたらしい菱沼夫婦に、綾辻は感謝の眼差しを向けたのだが・・・・・。
「倉橋はいいけど・・・・・綾辻」
「はい?」
「惚けた喋り方は私の前では止めなさい」
厳しくそう言い切って自分に向ける涼子の顔は、どうやら怒っているようだった。
(・・・・・あれ?)
「こんな公道でする話じゃないわね」
そう言って、涼子は倉橋の手を握ったまま事務所ビルの中に入っていく。
その後ろ姿を苦笑しながら見た菱沼は、今まで黙っていた海藤に向かって言った。
「彼女、怒っているみたいだね。さっきまでは私にもあんな表情はみせなかったけれど」
「・・・・・ええ。でも、倉橋に対してというわけじゃないようですが・・・・・」
「え〜?それじゃあ、私?」
不満そうに声を上げた綾辻は、海藤と菱沼を交互に見つめながらどうしてと連発している。そんな綾辻に、菱沼は笑いながら口
を開いた。
「涼子さんは、く〜ちゃんがお気に入りだから」
「それは、分かっていますけど〜」
「娘を嫁に出す気分じゃないかなあ」
私は、綺麗な嫁が来てくれる気分なんだけどと暢気に笑う菱沼に、さすがの綾辻も何と言っていいのか分からないらしい。
(確かに、涼子さんの性格だったら倉橋の方を好むかもしれないが・・・・・)
見掛けの奔放さとは一線をひいて、涼子の性格は一本気で、固い。昔ながらの礼儀やしきたりを重んじるし、組の姐として長い
間暮らしていたこともあり、姉御肌な面も多分にある。
そんな涼子は、以前から真面目でストイックで、素直な倉橋を気に入っていた。
反面、一見気が合いそうな綾辻のことは、その手腕や頭の回転の速さを認めてはいたものの、いい加減な性格はどうしても引っ
掛かるようだった。
「社長〜」
「・・・・・まあ、仕方ないな」
(涼子さんの気に入りの人間に手を出したことになるし、な)
全ての人間が手放しで祝福するばかりではないと、倉橋はともかく綾辻は知っておいた方がいいだろう。
芝居のような情けなさそうな声を出す綾辻に行くぞと促し、海藤も菱沼と共に事務所の中に入っていった。
一同が集まったのは来客を迎える応接間だ。
柔らかなクッションの2人掛けのソファには倉橋と涼子が並んで座り、その向かいには海藤と菱沼が座って、綾辻は1人だけ、その
場に・・・・・立っていた。
「・・・・・」
海藤は何も口を挟む気はないようで。
「・・・・・」
菱沼はなんだか楽しそうに笑みを浮かべたまま、出されたコーヒーを口に含んでいる。
「・・・・・」
倉橋は居たたまれないように俯いたまま。
「・・・・・」
涼子は背筋を伸ばして、厳しい眼差しを自分に向けていた。
「・・・・・」
(この雰囲気をどうしろって・・・・・)
綾辻は溜め息をつきたくなったが、そこでそんな事をしてしまえば更なる攻撃の材料にされかねない。
「涼子さん」
先程注意されたことに気をつけ、綾辻は改まった口調で話を切り出した。
「電話でも伝えたことですが・・・・・」
「綾辻」
「はい」
「ここに来なさい」
「・・・・・」
いったい、涼子は何をするつもりなのかと思いながらも、綾辻は迷うことなくその前に歩み寄った。ここで躊躇っていては、何時ま
でも倉橋とのことを認めてもらえないような気がしたからだ。
綾辻が自分の目の前に来ると、涼子はすっと立ち上がった。
女性にしては身長が高い方の涼子だが、綾辻位の身長になれば見下ろす形になる。
(それでも、威圧感はビンビンに感じるんだけど・・・・・)
下っ端の組員ならば足が震えそうになるだろうその眼差しを真っ直ぐに受け止めていた綾辻の頬に、
バシッ
と、小気味よい音と共に、熱い痛みが襲ってきた。
(痛・・・・・、手加減、まるで無し)
その場から動くことはなかったが、それでも相当な衝撃に、さすがに綾辻は頬を押さえて片眉を下げてしまった。
「・・・・・っ」
出迎えた当初から、自分に対しては大きな愛情を向けてくれていた涼子。
その気持ちが嬉しくて、ありがたくて、倉橋は言葉を出すことも出来なかったが、今のこの光景を見ると、涼子の感情が祝福だけ
に向けられているわけではないと覚った。
(どうして・・・・・っ)
自分には向けられない憤り。それを綾辻だけに向けられるのは嫌だった。
「申し訳ありませんっ」
「克己っ」
慌てたような綾辻の声を背中に聞きながら、倉橋はソファから立ち上がって床に膝を付いた。自分のような人間の土下座など価
値は無いかもしれないが、これ以上綾辻1人だけに責任を被せることは出来なかった。
「組の規律を乱してしまったことは、本当に申し訳ないと思っています」
「克己っ、いいから!」
「ですが、ですが、私は・・・・・どうしても・・・・・」
倉橋は床に付いた手を強く握り締める。
「どうしても・・・・・この男が欲しいと思ったんです。涼子さん、どうか、どうか、制裁は同等に受けさせてください。私も、綾辻と同
じ男です」
「・・・・・倉橋」
少しして、柔らかな声が自分の名を呼び、視界の中に黒い着物が見えた。
「制裁のつもりなんてないわ」
「涼子さん・・・・・」
「これは、ケジメ」
「ケ・・・・・ジメ?」
「綾辻だけにって言われてもしかたないわ。私はお前の方が気に入っているし、大事なお前を奪っていく綾辻の方が憎らしいん
ですもの」
倉橋には可愛いお嫁さんを捜してやるつもりだったのに、先にお前が手を出すのが悪いのよと、綾辻に向かって言う涼子の口調
の中には、先程まで男に向けられた厳しさは消えていた。
「・・・・・」
(じゃ、じゃあ、さっきのことは、組の為ってわけじゃ、なく、て?)
自分のことを思っての言葉だったのだとようやく気付いた倉橋は、張り詰めた緊張感が途端に緩んでしまい、フラッと身体が揺れ
てしまう。
「克己っ」
しかし、その身体は床に崩れ落ちることなく、逞しい腕がしっかりと抱きとめてくれた。
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綾辻さんに続く受難(苦笑)。
戒律に厳しい姐さんは、真面目な倉橋さんがお気に入りなので。