Love Song





第 1 節  Lentissimo



15






 「初音、これも食べたら?」
 「初音、何飲む?」
 「初音、明日は早いのか?」

 隆之の唇から零れ出る自分の名前。
確かに、友人からはそう呼ばれることは多いし、仕事相手であっても響きがいいからと苗字と名前は半々で呼ばれてもいた。
しかし、隆之のあの声で名前を呼ばれるのはやっぱり慣れない。大好きな少し甘めの低い声で名前を呼ばれると、何だか背中
がゾクゾクとしてしまうのだ。
 「ん?」
 「あ、いえ」
 チラチラと視線を向けると、どうしたと問うような眼差しが向けられる。見慣れない優しいそれに、初音はますます顔が赤くなって
いくのが分かった。
(お、お願いだから、あんまり名前を呼ばないで・・・・・っ)
だが、そう言うことさえも、今の初音には出来なかった。



 初音の途惑いを肌で感じる。
それでも隆之はその名を呼ぶことを止めようとは思わなかったし、戸惑う初音の表情を楽しむ余裕も出てきた。
(・・・・・開き直ったら、案外簡単なものなのかもしれないな)
それまで、なぜ自分が初音の事を気になるのか分からなくて、初音に対して必要以上に邪険な態度を取ってしまった。
そうかと思えば、初音に近付く誰も彼もが、それがたとえ自分の信頼するスタッフでも談笑するのが面白くなくて、余計に気持ちが
ささくれ立った。
 どんなに華奢な容姿をしていても、初音が男だということは分かっている。
男に対して、自分がどんな種類の思いを抱いているのか、隆之はもう分かりかけていた。
 「今度ツアーがあるんだけど」
 「あ、はい、アリーナとドームの・・・・・」
 「付いてくる?」
 「え?」
 「ツアーの密着で、一緒に来ないか?」
 「い、一緒に?」
 もちろん、ツアーの写真集や、記事を書く者は決まっているものの、隆之は初音の目で自分達の今を見てもらいたかった。
デビュー間もなくからファンでいてくれた初音。あそこまで盲目的に好かれるというのも恥ずかしいが、曇りの無い目で見た時、今の
自分達は変わって見えないだろうかと思う。
(傲慢に、なってないか・・・・・)
 何時の間にかバンドとしての名前が売れてしまい、【GAZEL】の名前だけが一人歩きしているような気がしていた隆之は、もう一
度新たな気持ちになりたかった。
それには・・・・・。
 「初音に、見てもらいたい」
 「ひ、広瀬さん」
 「隆之」
 「た、隆之さん、そんな大事な事を突然言われても・・・・・きっと駄目だって言われますよ」
 「誰に?」
 「だ、誰にって・・・・・」
 「悪いけど、俺の頼みが却下される事は多分、無い」
傲慢かもしれないが、それくらい自分に自信を持っていなければこの世界で先頭を走っていられない。
(初心に戻りたいとか言って・・・・・結局こんなに我が儘になってるんだな)



 美味しい料理も、初音はろくに味わう事が出来なかった。
隆之の言ったことが頭の中から離れないからだ。
(ツアーに付いて回るなんて・・・・・本気で言ってるのかな・・・・・)
 もちろん、雑誌記者として、いや、【GAZEL】のファンとして、彼らの歌を間近で聞くのはとても魅力的だと思うし、この上も無く幸
運に思える。
それでも、直ぐにうんと頷くことが出来ないのは、それを言い出したのが裕人ではなく、隆之だからだ。
 あれだけ自分に対して警戒し、冷たい態度を取ってきた隆之の態度の変化に付いていけず、本当に素直にそれに頷いていい
のかさえも分からなかった。
 「今日はごめん、急に誘って」
 「い、いえ、こちらこそご馳走さまでした」
 帰りも、初音は遅くなったら悪いと思い、送ってくれようとする隆之を一度は断わったのだが・・・・・。

 「家を教えるのが嫌とか?」

思い掛けない言葉に、初音は一瞬声が出なかった。
全くそんな事を考えていなかったが、ますます何も言えなくなり、初音は、結局押し切られる形で隆之の運転で家まで送って貰っ
た。
都心から少し離れた住宅地の一軒家、隆之は車の中から家の灯りを見つめながら言う。
 「実家?」
 「はい。一人暮らしは許してもらえなくて・・・・・」
 「・・・・・挨拶、しなくていいかな」
 「だ、駄目ですっ、広、隆之さんが来ちゃったら、うちの親びっくりして貧血起こしますからっ」
 初音の両親は、もちろん初音が【GAZEL】のファンである事は知っている。その彼がいきなり目の前に現れたりしたらそれこそ大
変だ。
 「ありがとうございました、家まで送ってもらって」
 「いや・・・・・初音」
 「は、はい」
 「・・・・・」
 「ひ・・・・・隆之さん?」



 律儀に自分の名前を言い直す初音に笑った。慣れないのは仕方ないので、怒るつもりなど無いのに・・・・・。
でも、やはり少しだけ意地悪をしたい気分になった。
 「明日、ヒロから初音の会社に電話をさせる」
 「え?」
 「さっき言ったこと、本気だから」
 「さっきって・・・・・」
 「俺達のツアーに付いてもらう事。特集についても何とか話すから。初音は何も考えなくて、今の【GAZEL】の姿をそのまま見て
欲しい」
 「隆之さん・・・・・」
 「おやすみ」
 隆之は車を発進させた。
本当ならこのまま自分のマンションに帰りたいところだが、まだ仕事が残っているのでレコーディングスタジオに戻らなくてはならない。
隆之自身が酒を飲まなかったのも、車の運転もあるがそちらの方が主な理由でもあった。
(ヒロに直ぐに言わないとな)
スタジオには裕人がいるはずで、直ぐに今日、初音に話したことを相談しなければならない。
ツアーに同行させるという事は先程隆之が突然思い立った事で、まだ裕人に言ってさえもないのだ。面白い事が好きな裕人は先
ず賛成はしてくれるだろうが、その代わりというような見返りは要求されるかもしれない。
(変なことじゃなければいいけど・・・・・)
そう考えながらも、隆之はどんな要求も呑む覚悟でいた。