Love Song
第 2 節 Modulation
10
タクシーが止まったのは、ごく普通のワンルームマンションの前だ。
実家暮らしだと思っていたが、今回自分達のツアー同行をすることを期に、独立して一人暮らしをしているらしい。
雑誌記者という不規則な生活が家族に迷惑を掛けてしまうからという初音らしい理由に、隆之は感心したように頷いた。
「あ、あのっ、あんまり帰ってないから、部屋、凄く汚いし!狭いし、あの、本当に来てもらうのが申し訳ないくらいなんですけど」
タクシーの中で何度も言い訳のように言っていたが、隆之は余所行きの姿が見たいわけではなかったし、初音がどんな所でどん
な風に生活をしているのか少し覗いてみたいだけだった。
もちろん、遅くまでいない・・・・・つもりだ。
「ちょ、ちょっとだけっ、ご、5分だけ待ってください!」
玄関まで来れば、そう言って先に部屋の中に入ってしまった。バタバタと慌しい気配が外にまで聞こえ、一瞬近所迷惑かなとも
思ったが、そんな風に自分を気遣ってくれる初音の気持ちが嬉しかった。
そもそも、突然に自宅に行きたいと言い出してしまい、駄目だと断られるのも覚悟していたが・・・・・いや、隆之は心のどこかで初
音が絶対にNOと言わないのを知っていたのかもしれない。
「ど、どうぞ」
多分、5分を少し過ぎて、初音が顔を出した。既に酔いは醒めている顔色だ。
「お邪魔します」
メンバーやスタッフの部屋には行ったことがあったが、この仕事をしてから身内以外の家をこうして訪ねるのは初めてかもしれない。
隆之は何だか自分の方までドキドキと緊張してしまった。
何の変哲も無いワンルームマンション。
壁際に追いやったソファベッドに、小さなテーブル。後はテレビとビデオデッキと、MDコンポを置いているだけの、男の部屋としても
かなりシンプルな部屋だと思う。
仕事が忙しく、どうせ帰っても寝るだけだと思ったので、出来るだけ職場に近い場所を選んだのだが、実家を出てからはあまりま
ともな食事をとっていないのが悩みの種だった。
「・・・・・」
「せ、狭いでしょ?」
「一人暮らしならこんなもんじゃないかな」
「き、汚いし」
「綺麗だよ、俺の部屋よりも」
隆之は笑いながらそう言ってくれるが、多分それがお世辞だとちゃんと分かっているつもりだ。
(・・・・・まだ、酔ってるのかな)
大好きな【GAZEL】の隆之が、自分の部屋にいるということがとても不思議だった。嬉しさと、困惑と、モヤモヤした思いが胸の中
に渦巻いているが、これはけして酔いのせいではない。
「あ、お茶、お茶、あの、何かっ」
とにかくお茶か何かを出さなければと冷蔵庫を覗いたが、中に入っているのは水とリンゴジュースのみ。
(グラス、何かあったっけっ?)
何も手がつかないような気分のまま、初音はキッチンの中で右往左往していた。
初音が焦っている間、隆之はぐるりと部屋の中を見渡していた。
ワンルームなので直ぐに全容は把握出来たが、何を見ても珍しく、新鮮な気分だ。
(あ・・・・・)
そんな隆之の目に映ったのは、MDコンポの前に積まれた自分達のCD。見れば同じタイトルの物もある。
(どうして同じもの・・・・・)
「・・・・・」
部屋の中にはポスターなどは貼られていないが、部屋の片隅にあるダンボールから覗いている物に見覚えがあった。
近付いて手にしてみるとそれはツアーグッズで、かなりの量があるのが分かった。年代も、ごく最近のものからデビュー間もなくの
ものまである。
初音が言葉だけではなく、実際にライブを見に足を運んでくれていたことがそれだけでも分かった。まだ学生の初音が、小遣い
をはたいて来てくれたのだろうと思うと嬉しくて仕方が無い。
「あぁ!」
「え?」
「そ、それっ!」
ジュースが入っているらしいコップを手にした初音が、顔を真っ赤にしてこちらを見ていた。
「これ」
「あ、あのっ」
「ちゃんとライブに来てくれてたんだ」
「・・・・・っ」
立ちすくむ初音の手からグラスを取り、隆之はありがとうと礼を言った。
飲み物の礼ももちろん、他の意味も込めて言ったつもりだったが、初音は顔を赤くしたまま俯いて・・・・・やがて隆之からは少し
離れた床にペタンと座る。
隆之はその隣に、膝を突き合わせるように座った。目の前の初音の手が、少し震えているのが見えた。
「これも、一緒に持って引っ越してきたってことか」
「だ、だって」
「ん?」
「置いて来て、何かあったらやだしっ」
「・・・・・そっか」
隆之は思わず笑う。こんな少しの会話だけでも、初音が自分の、【GAZEL】のことをとても大切に思ってくれていることが分かっ
た。
(もしかして、さっきこれを片付けてたのかもな)
その様子が目に浮かんで気恥ずかしく思っていた隆之に、初音の小さな声が聞こえた。
「俺・・・・・今でも信じられなくて」
「え?」
「こうして、タカ・・・・・隆之さんと話していることが。この世界に飛び込んだのも、大好きな【GAZEL】の応援をもっと目に見える
形でしたいって思ってて・・・・・こんな風に、本当に一緒に仕事が出来るのも信じられないけど、仕事以外でも会えて、なんだか
その・・・・・」
距離が分からないと初音は言った。
仕事相手としての【GAZEL】の広瀬隆之と、今まで応援していたタカと。
そのどちらとも違う隆之とどう接していいのか分からない、と。
「初音」
「・・・・・」
多分、初音はまだ酔っている。だからこんな風に、迷っているのだという事実を隆之本人に伝えてきているのだろうと思った。
「・・・・・」
「あっ」
隆之はそのまま初音の腕を引き、自分の胸に抱き寄せる。そのせいでグラスが倒れ、フローリングの床にジュースが零れてしまっ
たが・・・・・2人共それを気にすることは無かった。
(・・・・・ドキドキ、いってる)
耳を当てている隆之の心臓の鼓動が、かなり早いと思った。
【GAZEL】の中でもクールな隆之がこんな風に緊張しているなんてありえないと思うのに、初音が知っている隆之ならば・・・・・な
んだかこんな感じかなと思えた。
「もっと、近付いてくれないか」
「え?」
「記者としてじゃなくって」
記者じゃなく。それならば、どう思ったらいいのだろう。
「俺も、結構戸惑ってる。こんな風に誰かを知りたいって思うの、初音が初めてだし・・・・・」
「・・・・・」
隆之の低く響く声が心地良く耳に届いた。
ここは自分の住まいで、今朝も【GAZEL】の音楽で目覚めてと、初音にとってここは誰に遠慮もなく【GAZEL】の世界に浸れる
空間だ。
そんな場所に、現実の隆之がいて、こうして初音を抱きしめてくれている。
意味が分からなくても構わなかった。二次元の存在が、こうして目の前にいて、自分だけを見てくれていると思うだけで嬉しくてた
まらなくて・・・・・。
(あ・・・・・れ?)
耳に聞こえてくる音に、初音はなぜか意識がぼやけてきた気がした。
「それがどういった意味からなのかもはっきり言葉に出来ないけど、でも・・・・・初音?」
急に、もたれてきた身体が重くなった気がして、隆之は腕の中の顔を見下ろした。すると・・・・・。
「・・・・・眠ってるのか?」
つい今しがたまで会話をして、初音の酔いも醒めたと思っていた。しかし、どうやらそれは緊張感から一時酔いを忘れていただけの
ようで、多少落ち着いた今再びそれが回って・・・・・。
「こんな時に寝るか?」
せっかく、自分の今の正直な思いを伝えようと思っていたのにと思うものの、口もとには笑みが浮かんでいた。確か、前も都筑の
家で、酔って眠ったと言っていた。
学生時代からの知り合いで、心を許した都筑の前で眠ったという初音。
それならば、今目の前で眠った初音は、多少は自分に心を許してくれたと・・・・・そういうことではないだろうか。
「・・・・・」
隆之は、腕の中で眠りに落ちている初音の頬をゆっくりと指先で辿る。
起きている時以上に子供っぽいその笑顔に笑い、隆之はそのまま・・・・・軽く開かれた唇に触れるだけのキスを落とした。
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