Love Song
第 2 節 Modulation
9
押し殺したような笑い声が聞こえ、初音はムッと口を尖らせたまま顔を上げる。
(人の失敗を笑うなんて〜っ)
いったいどんな奴だと思えば、目の前にあるのは大好きな人の顔。いや、大好きだが、ここにいるはずも無い人の顔を見て、初音
は目を見張った後、満面の笑みを浮かべてしまった。
「タカ!」
「え?」
戸惑ったような声を返されてしまい、初音はパチパチと瞬きを激しくして・・・・・やがて、パッと今の状況を思い出した。
「ご、ごめんなさいっ」
隆之と食事をしていたことをこの一瞬で忘れてしまい、突然目の前に現れたのだと思って思わずその名前を叫んでしまったが、本
来なら【GAZEL】の隆之がここにいることを隠さなければならない立場なのだ。
焦って謝ると、隆之は顔を上げてくれと言った。
「何に謝ってるのか分からないし」
「え、えっと、名前、呼び捨てに・・・・・」
「そうして欲しいって言ったよな?」
「・・・・・でも、俺なんかが・・・・・」
「初音」
自分などが隆之を呼び捨てにするなんておこがまし過ぎると俯けば、伸びてきた手が軽く耳に触れる。
ビクッと身体を揺らして再び隆之を見れば、少しだけ怒ったように眉を顰める顔がそこにあった。
何度言っても、初音は自分のことを一歩引いて見てしまう。
隆之自身はもっと初音に近付きたいと思うのに、いや、もっと言えば1人の男として見て欲しいのに、どこまでいっても初音の中で
は自分は【GAZEL】の広瀬隆之で、それ以上でも以下でもない。
(こんなことじゃ、何時まで経っても先に進めない)
隆之にとって、初音はただの雑誌記者ではない。前の見えなかった自分を前に進むように後押しをしてくれた大切な初期のファ
ンであり、もっと知りたいと思わせる人間性を持った人物だ。
そして、今ではそれ以上に意味のある相手で、それが何なのか自分でもはっきりとさせたいのに、当の初音が逃げ腰では伸ばし
た手が空振りしてしまう。
中学生の頃から歌い続け、そのまま早い時期にデビューした隆之は、実は誰かと深く係わりあったことがない。
もちろん、バンドのメンバーやスタッフ達とは、一つのものを作り上げる同じ仲間として深い信頼を持っているが、初音はその言葉
の括りだけではなくて・・・・・。
そんな気持ちを持ったことが初めてで、隆之もどう行動すればいいのか戸惑うことが多く、だからこそ裕人に笑われることもあった
が、これでも自分にとっては精一杯の出来ること、なのだ。
(このまま、逃げるなんて許さないからな)
自分の心をこんなにもかき乱したまま、ただのスタッフとでしか接しないなんて許さない。
仕事中は仕方が無いが、こうしてプライベートで会った時は、初音には自分の本質を見てもらいたかった。
「初音」
名前を呼べば、おずおずとした眼差しが向けられてくる。可愛いのに、じれったい。隆之は自然に眉を顰めてしまった。
「初音にとって、俺は【GAZEL】の隆之ってだけ?」
「え・・・・・だ、だって・・・・・」
「ただの広瀬隆之には興味ない?」
「そんなことないです!」
思った以上に早く、初音は隆之に否定の言葉を叫んだ。
「・・・・・本当に?」
「本当、です。俺にとって、【GAZEL】のタカは特別で、こうして同じ空間に一緒にいるだけでも嬉しいし、緊張しますけど、俺は
それまで表に出ている姿しか知らなくて・・・・・」
「・・・・・」
「でも、こうして一緒に仕事が出来るようになって、音楽が係わらない姿も見ることが出来て、人間的な姿を見れるようになったっ
て言うか・・・・・あれ?俺、何言ってるんだろ?」
「初音・・・・・」
「でもっ、俺、本当に、タカ・・・・・っと、隆之さんのこと、ちゃんと1人の男の人として見てますからっ」
これだけは言っておかなければならないというように、初音はドンッとテーブルの上を叩いた。
(俺、何こんなに必死になってるんだろ・・・・・)
初音はそう言ってしまってからジワジワと頬が熱くなるのが分かった。しかし、これはけして酔いからではないと思う。
(言葉、間違ってない、よな)
「でもっ、俺、本当に、タカ・・・・・っと、隆之さんのこと、ちゃんと1人の男の人として見てますからっ」
あれは、男というより、人間といった方がいいのではないだろうか?
しかし、言い返そうと再びチラッと隆之を見ても、隆之の表情は何だか嬉しそうで、初音は言いかけた口を閉じてしまった。
「・・・・・そっか」
「そ、そうですよ」
「じゃあ、仕事を離れたらもう少し砕けて話してくれる?」
「え・・・・そ、それは」
それも何だか違う気がする。確かに仕事を離れたら隆之個人として見るというのは約束出来るものの、言葉遣いまでは簡単には
変えることは出来ない。
ただ、ここでまた否定してしまえば、隆之はさらに要求を大きくしてしまいかねないような気もするので、初音は何とか許容範囲
内で頷くしかないと思った。
「・・・・・」
「で、出来る限り、ですけど・・・・・わ、分かりました」
「・・・・・」
「・・・・・わ、分かった」
初音の頷きに、隆之はにっこりと笑ってくれる。とても魅力的な笑顔に思わず見惚れてしまった初音は、自分の頬も緩んでいるこ
とに気づかなかった。
それからは、初音は何とか意識をして。
隆之は、初音に慣らさせるようにわざと。
2人は食事中会話を途切れさせることなく、少しだけ張り詰めた、しかし、2人にとっては十分楽しい時間を過ごした。
「あっ」
せっかく美味しいお店を案内してくれて嬉しかったことと、ここは自分の方が接待する側だと思っていた初音は、隆之がカードを
出す前に自分がと訴え出たが、
「ここは俺持ち」
「でもっ」
「今度は初音が奢ってくれたらいいだろう?」
「・・・・・分かった」
(とても、このレベルのお店は案内出来ないと思うけど・・・・・)
メニューには値段など書いていなかったので、今日の合計金額は全く分からない。ただ、酒も入って、何万円か・・・・・。
(そ、想像するだけで怖い)
店に出た初音は、直ぐに隆之に頭を下げた。
「今日はご馳走様でしたっ」
「・・・・・また」
初音の言葉がまた敬語に戻ったと隆之は不満そうだったが、ご馳走してもらった礼はちゃんと言いたい。
「それは、それ。とっても美味しかった、ありがとう」
「初音」
どうやら初音の気持ちは分かってもらえたようで、隆之の表情も見る間に柔らかくなった。
その表情を見てから、初音は時計を見下ろす。時刻はまだ9時にもなっていなかった。もう随分と時間が経ったように思うのに、二
時間も経っていないようだ。
「時間・・・・・早く帰った方がいい?」
「俺は、もう少し一緒にいたいけど」
それは、初音も一緒だ。
本当ならば早めに帰すのが正しいと思うが、せっかく近付いたと思う隆之と、もう少し一緒にいたかった。
「・・・・・じゃあ、どこか・・・・・」
酒でも飲める場所がいいのかと考えながら訊ねると、隆之は、
「俺、行きたい所があるんだけど」
そう、笑いながら言ってきた。
「え?どこ?」
こうして口に出して言うくらいだ、初音が知っている所なら連れて行きたいし、軍資金は何とかなると・・・・・思う。
(最悪、編集長を呼び出したらいいし)
「どこに・・・・・」
「初音の家」
「・・・・・は?」
「だから、初音の家。まだそんなに遅い時間じゃないからいいだろう?」
「えぇっ?」
(お、俺の家にっ?)
【GAZEL】の隆之が自分の家に来る。隆之を1人の男として見ると言ったばかりというのに、初音の中では憧れの人が自分の家
に来るということに頭の中がパニックになってしまう。
「いい?」
嫌と、言えるはずがないが、それでも直ぐに頷けるはずも無く。
初音は手を上げてタクシーを呼び止めようとする隆之の姿を、呆然と見つめることしか出来なかった。
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