Love Song
第 2 節 Modulation
16
そして、ツアー後半戦初日。
最終リハーサルを終えた裕人は、周りにいるメンバーやスタッフを前に声を上げた。
「みんな、後10ケ所、気を抜かずに頑張ろうね」
「はいっ」
「おう!」
高揚するスタッフ達の中で、初音も今にも飛び出しそうなほどに大きく鼓動する左胸をそっと押さえた。
(後もう少しなんだ・・・・・)
東京ドーム、幕張メッセ、横浜アリーナのそれぞれ三日間連続公演を含めて計15公演、これからは関東周辺のライブが続く。
一回の収容人数もぐんと増えるし、前半戦の構成とも変わる初めてのライブの今日は、ピリピリしたムード以上にやってやろうとい
う情熱の方が大きくて、初音もそれに負けないようにしなければと唇を噛み締めた。
「初音ちゃん」
「・・・・・っ、臼井さんっ」
「なんだ、そんなに緊張しているとシャッター切れないぞ?」
からかうような彼の言葉に、初音はなんとか強張った頬を笑みの形にした。
チーフカメラマンとして、【GAZEL】のメンバー達からも絶対的な信頼感を得ている彼から、僅か十数分とはいえ仕事場を奪ってし
まうのだ。
絶対に失敗してはならないというプレッシャーが、初音の背中にズシンと覆いかぶさっていた。
「あのなあ」
「は、はいっ」
「それ、雑誌に載せるとか思うなよ」
「・・・・・え?」
「わざわざ金を払って買ってくれる読者に、素人の撮った写真を載せるなんてするはずないだろ」
厳しい言葉だが、それがごく当たり前のことだと思い、初音はホッと息をつく。
すると、臼井はそんな初音の肩をポンと叩いて笑った。
「だから、初音ちゃんのプライベート写真を撮るつもりでいたらいい。今回の面白い企画は、初音ちゃんの発言からだし、これくら
いの褒美は貰ったっておかしくないぞ」
「臼井さん・・・・・」
その言葉が、自分の緊張感をやわらげてくれるためだということが分かり、初音は感謝の意を込めて頭を下げる。
本当に、自分は恵まれた中で仕事をさせてもらっているのだとしみじみと感じてしまった。
「・・・・・」
肌を滑る手に、隆之はじっと目を閉じていた。
本番の衣装に着替え、こうしてメイクをしてもらっていると、だんだんと自分が広瀬隆之ではなく、【GAZEL】のタカに変わっていくの
が分かる。
普段は人見知りをして、口数も多くない自分が、歌という媒体を通して多くのファン達と気持ちを交換できる。この2つの人格
への変化が隆之には必要であり、どこか楽しみでもあった。
「今日から構成が変わるのよね」
メイクをしているスタッフが声を掛けてくる。
「ああ」
「実は私も楽しみなの」
「楽しみ?」
「今の【GAZEL】の曲ももちろん好きだけど、初期の頃のどこかアンバランスっていうか・・・・・初々しい感じも好きなのよ」
意外な言葉を聞いた気がして、隆之はパチンと目を開いた。
「アンバランスに聞こえる?」
「今と比べればってこと。ヒロも今の余裕たっぷりな感じがないし」
内緒にしててねと笑うスタッフの言葉にどう答えようかと思った時、メイク室に噂の当人がやってきた。
既に先に仕度を済ませていた裕人は、鏡越しに隆之と視線を合わせてにっこりと笑う。
「なに?僕の悪口でも言ってた?」
「あ・・・・・」
「やだあ、そんなことあるはずないじゃない!・・・・・ちょっとだけよ」
もう、数年前からずっとスタッフに加わっている彼女とは気心も知れていて、裕人もそう言われても気分を害することもなくわざと
らしい溜め息をついてみせる。
「顔が笑ってるよ」
「ホント?」
どちらかといえば、今の裕人の言葉に笑っているように見えるが、2人はそれ以上その件に関して話題を膨らませず、裕人は隆
之の隣の椅子に腰を下ろした。
久し振りのライブに緊張感が漲っているのか、隆之の横顔はとてもストイックに感じる。
それでいて、身の内から滲み出してくる情熱のようなものはリハーサルの時の数倍になっているようだ。
(やっぱり、タカはライブが好きなんだな)
それは、裕人にもいえることだ。
デビュー当初、メディアの露出を控えていたのは、ボーカルである隆之の性格を考慮したこともあるが、3人とも生でファンと会話
が出来るライブの方が好きだからだ。
今ではトップを走っていると自負している自分達が、こうして毎年、何らかのライブを開催しているのはそんな気持ちからだった。
そして、今回はまた特別な思いがある。久し振りの隆之のギターを聞くことが出来るのだ。
「ギターのことばかり考えて、歌詞を間違えないでよ」
「馬鹿」
そんなことがないのは分かっている。どんなものでも完璧を目指す隆之は、自分の最大の表現方法である歌を蔑ろにすること
は絶対に無い。
「ねえ、タカ」
「・・・・・」
「あれ、誰のために歌う?」
「・・・・・」
「・・・・・」
(たった1人のためだけにって・・・・・言う?)
初音の提案。彼が、一番好きだと言った曲。
確かに、今自分たちの耳には初音の声が届くが、あの曲を好きだと言う者はきっと他にも大勢いるはずだ。その彼らの思いを全て
押し退け、初音のためだけに歌うと言うだろうか?
「・・・・・ヒロ」
「何?」
「俺は間違えない」
誰にとは言わず、ただそう言い切る隆之に、裕人はそうと頷いた。隆之がそう言うのなら、きっとあの歌は最高の状態で会場に
響き渡るはずだ。
「僕も楽しみにしていよっと」
あの頃と、今の隆之がどれ程変化しているか、それとも変わっていないのか。特等席でじっくり聞かせてもらおうと思う。
「お前だって演奏しなきゃいけないんだけど」
「うん、任せて」
あまりにも軽い口調で言ったせいか、隆之が信用ならないというような眼差しを向けてくる。
それに向かってヒラヒラと手を振った裕人は、部屋の中の掛け時計を見上げた。
(後、30分)
「後15分か・・・・・」
既に会場の中には満員のファンが座っていて、それぞれに手にしたパンフレットを見たり、隣同士で話をしたりしている。
(なんか、新鮮かも)
何時もは会場の二階席やステージ袖から見ることが多いので、機材が置かれているステージほぼ中央のスタッフ席にいることが居
心地が悪かった。
初音が写真を任せてもらえる場面は、構成の中の後半だ。それまで定位置にいて、シミュレーションをしていろと臼井に言われ
たのだ。
「楽しみにしてるね」
さっき会った裕人にも、今回自分がすることへの許可は貰って、そう激励されてしまった。嫌な顔をされるよりはよっぽどいいもの
の、それでも過度に期待されるようなことを言われると緊張に指が震えてしまう。
「・・・・・落ち着けって」
初音は小さな声で自分自身を叱咤する。
(何のためにここにいるのか、ちゃんと自覚しなきゃっ)
今日来ているファンは、隆之がギターを弾くことを知らない。
『恋が降る日』を歌うことを知らない。
どんな反応が返ってくるのか、初音も心配だった。今の【GAZEL】が好きなファンには、この曲は少し地味過ぎるかもしれない。
それでも、もしも知らなかったファンに、聞いてみたいと思ってもらえたら・・・・・多分、涙が出るほど嬉しいと思う。
今の声よりも若い隆之が歌う『恋が降る日』を聞いてくれたら、今の彼らをもっと好きになるはずだ。
「あ」
会場内に流れていた音楽が止まり、証明が落とされた。
ざわついていた声が一瞬で静まり、広い会場内が無音になる。
「・・・・・っ」
この静寂が、彼らが出てきた瞬間に爆発するのだと思うと・・・・・。
「初音ちゃん」
「は、はいっ」
臼井に声を掛けられて返事をしたが、思ったよりも響いてしまった気がして慌てて口を噤む。
「感動してシャッターを押すのを忘れたなんていうなよ」
「・・・・・はい」
(絶対に、ちゃんと撮るっ)
自分が描く『恋が降る日』の世界を切り取りたい。そんな強い感情に突き動かされながら、初音は自分の手には少し重いカメラ
を構えた。
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