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秋月の胸にしなだれかかってきた女の姿に、日和は思わず後ずさってしまった。
(き、綺麗、だけど・・・・・)
秋月の視界に入らないだろうが、チラリと日和に視線を向けてきた女の眼差しは冷たい。初対面の、それも綺麗だと思える女性
にそんな視線を向けられて、日和は戸惑うというよりも申し訳なく思ってしまった。
(お、俺みたいな子供がこんな場所にいるのがおかしいのかも・・・・・)
「お座敷には呼んでいただけるのに、他の時間は全然取ってくださらなくて・・・・・最後に2人でお会いしてから半年以上も経つ
んですよ?」
赤い唇が、まるで誘うように蠱惑的に動いた。
彩香の仕草が全て計算ずくなのは分かっていた。
遊び慣れ、セックスの技巧も悪くなかった女だが、何度か相手をして勘違いをしているようだ。
(俺の女とでも思っているのか?)
秋月が彩香を気に入っていたのは、着物を小粋に着こなせる女だったからだ。
母親が何時も着物の生活だったせいか、秋月にとっては着物はとても身近なもので、それだけでも視線を惹かれるものだった。
その中で、たまたま宴席に呼んだ彩香が目に留まって幾度か抱いたが、それでも秋月は彩香を自分の情婦だと思ったことは無
く、日和と出会い、その身体を手にしてからは、他の人間を抱きたいとは思わなくなった。
その没交渉をなじっているのだろうが、場所柄を考えないその行動には呆れるしかない。今秋月は連れがいるし、彩香も座敷
に出ている最中のはずだった。
「彩香さん、お連れ様に失礼でしょう」
さすがに女将は彩香の行動をたしなめたが、ようやく捕まえた秋月(彩香からの連絡には一切応じていなかった)を放そうとは思
わないらしい。
「この座敷の後、お会いしてくれません?」
「・・・・・」
「お子様とは出来ないお話をしましょうよ」
彩香は秋月の不機嫌を感じ取っている。その上でこう言うのだ。
この手を振り払うのは簡単だが、日和を侮辱されたままというのは面白くない。
(お前よりももっと、日和は艶やかになれるのに・・・・・)
そう思った秋月は、じっと日和を見てから・・・・・再び彩香を見下ろした。
「座敷が終わったら来い」
「本当っ?」
「秋月様」
「女将、もう一部屋空いているか?」
諌めるような女将の声も無視してそう言うと、秋月はようやく彩香の手を振り払った。
(秋月さん、あの人と・・・・・)
当初、食事をする為に用意されていた座敷に通された日和は、全く食欲が湧かないまま俯いていた。
既にあれから三十分以上経っているが、日和の、いや、秋月の前の膳の料理もほとんど減っていない。秋月はまだ酒を飲んでい
るという理由があるが、日和はとにかく物が喉を通らなかった。
(・・・・・気まずい・・・・・)
今秋月は自分の向かいに座っているが、もう少ししてあの女性が来れば連れ立っていなくなるのだろう。いや、もう一部屋取った
ところをみると、どこかに出かけるということも無くここで・・・・・。
(・・・・・)
なまじ、秋月に抱かれている日和は、その先がリアルに想像出来てしまう。たった1人ここに残され、秋月とあの女性がセックスし
終わるのをずっと待っていなければならないのか。
「あ、あの」
「どうした」
秋月は冷酒を飲んでいる手を止めて日和に視線を向けてくる。
その視線と目を合わせないように俯いたまま、日和は小さな声で帰りますと訴えた。
「あ、秋月さん、用事がある・・・・・みたい、だし」
「・・・・・」
「俺がここにいたら・・・・・邪魔になるだろうし・・・・・」
「日和」
「・・・・・」
「お前はちゃんと俺を見てきたか?」
「・・・・・え?」
聞こえてきた声は、不機嫌というものではなく・・・・・どこか、寂しげな感じだった。思わず日和は顔を上げてその顔を見てしまう。
その瞬間、じっと日和を見ていたらしい秋月と目が合った。視線が合うのが恐かったくせに、合ってしまうと自分から逸らすことが出
来なくて、日和は息を止めるようにして身を硬くした。
「日和、俺は・・・・・」
「失礼します」
秋月が何かを言い掛けた時、障子の向こうから声が掛かる。
そちらに向いた秋月からようやく視線を放すことが出来た日和はほっと息をついた。
「お連れ様がお越しですが」
「通せ」
「・・・・・」
(連れ・・・・・って?)
先程の芸者のことをそう呼ぶとは思えなくて、日和は誰なのだと内心首を傾げる。
そういえば部屋に入って直ぐに秋月はどこかに電話を掛けていた。ヤクザ関係の話だと聞くのも恐いので出来るだけ意識を遠ざけ
ていたが、もしかしたらその電話の相手が来たのだろうか?
(だったら、ますます俺がいない方が・・・・・)
やっぱり帰った方がと言い掛けた日和の言葉より先に、
「失礼します」
そう言って、障子を開けて中に入ってきたのは初老の男。日和はじっと視線を向けて、あっと何かに思い当たった。
「あのお店の?」
「お久し振りですね、坊ちゃん」
男は日和に向かって穏やかに笑い掛けた。
行きつけの呉服店に直ぐに連絡を取ると、主人は車を飛ばしてやってくると答えてくれた。無理だと言われても強引に来させるつ
もりだった秋月は、その主人の対応に少しだけ驚いていた。
(そういえば・・・・・)
「また、あの坊ちゃんをお連れ下さい。いい生地が入っているんですよ」
あれから何度か店に行くたびに、主人はそう秋月に言っていた。どうやら自慢の着物を可憐に着こなした日和がどうも気に入った
らしい。
男と女の性別の違いはあるものの、あれ程似合っていれば主人的には問題は無いようだった。
今回も、彩香に日和の色っぽさを見せ付ける為に着物を用意させようと思ったのだが、主人は似合いそうな物を幾つか持ってき
ましたと、畳の上にずらっと着物と帯を広げてみせる。
いきなりの成り行きに目を丸くしている日和を置いて、秋月は女将を座敷に呼んだ。
「まあ・・・・・」
色鮮やかな着物の数々(それも、相当に上等な物)を見た女将はそう言って溜め息をついた。
どうやら敏い女将は秋月の思惑を瞬時に悟ったらしい。
「どれが似合うと思う?」
「・・・・・どのようにされたいのですか?」
「今日は大人っぽくだ。清楚でいながら、ぞくっとする色香が欲しい」
「・・・・・彩香とは真反対」
女将は苦笑を浮かべて着物を見比べていたが、黒と金の豪奢で大人っぽい着物と帯を選んで手に取った。
「小物は私が持っている物を使いましょうね。私みたいなおばあちゃんのでよろしいでしょうか?」
「女将は、ここに来る芸者の誰よりも色っぽいぞ」
「そういうことをおっしゃられるから誤解されるんですよ。さあ、奥の部屋にどうぞ」
「あ、あのっ」
「綺麗に仕上げましょうね」
「・・・・・」
(楽しんでいる顔をしているな)
どうやら女将も少女のような日和を可愛らしく変身させることに興味を持ったようで、妙に弾んだ調子でその腕を取っている。
さすがに自分の母親よりも年上の女将の手を振り払うことは出来ないようで、日和は情けない表情をしながらも手を引かれて出
て行った。
「すまなかったな、わざわざ」
「いいえ、ちょうど新作の着物を見ていただく機会があってよろしかった」
「似合っていたら貰おう」
「ははは、似合わないものは持参しておりませんよ」
商売上手な店主に、秋月は口元に苦笑を浮かべた。
姿見の前でどんどん変わっていく自分の姿を、日和はまるで別人を見ているような気分で見つめていた。
(・・・・・こんなのが似合うなんて・・・・・)
普通、男が振袖を着ても、明らかな女装に見えて笑えるものになるはずだった。それなのに、どう客観的に見ても、鏡に映る自分
は・・・・・女に見えてしまう。
「帯は?きつくないかしら?」
「あ、はい」
商売柄か、女将の手付きは鮮やかで、もう帯まで仕上げに入っていた。
「あ、あの」
「はい?」
「・・・・・俺、変じゃないですか?」
明らかに親兄弟には見えない秋月とこんな料亭にやってきて、その上こんな着物を着せられて・・・・・他人に自分はどんな風に見
られているのか気になった。
「恋に、男女の違いはないと思いますよ」
「え?」
「秋月様の表情が柔らかくおなりになっていたのは、あなたを見付けられたからなのねえ」
「・・・・・」
(・・・・・恋?)
その言葉が、妙に耳に残ってしまう。
自分と秋月の間にそんな感情があるなんて今まで考えてもいなかったし、自分ばかりが秋月に振り回されていると思っていて、秋
月の纏っているものが変わったなんて気付きもしなかった。
(でも、秋月さんも変わったなんて・・・・・)
それが自分のせいとは信じられなかったが、日和は鏡に映る自分の表情が僅かに変化したことが分かってしまった。
「失礼します」
声が掛かり、秋月が承諾の言葉を言う前に障子は開かれた。
「・・・・・あら、お客様でしたの」
彩香はそこに初老の男の姿を見て一瞬戸惑ったようだが、日和がいないことが分かって直ぐに商売用の笑みを向けてきた。
「お話中に申し訳ございません」
「いいえ。綺麗な芸者さんを見ることが出来ていい目の保養になりますよ」
彩香に負けないくらいの商売上手な呉服屋の店主の言葉に、それでも悪い気はしなかったらしい。
彩香は丁寧に頭を下げると、さすがに見事な裾捌きで2人の側まで歩み寄り、ちょうどその間に腰を下ろして冷酒のビンを手に
持った。
「お一つ、どうぞ」
「残念ですが、私は車でやってきておりまして。お気持ちだけありがたく」
「それは残念ですわ。では、秋月様」
丁寧な断り文句を聞いた彩香が自分の方を振り向いたのを見て、秋月は黙ったまま杯を膳の上に伏せて置いた。酌は受けな
いという無言の行動にさすがに彩香は顔を青褪めさせたが、直ぐに気を取り直したようにビンを置いた。
「酔わない方がいいかもしれませんね」
「・・・・・」
「あの可愛いお子様、もう帰られたのでしょう?やはり子供ではあなたの相手は出来ないみたい」
「・・・・・」
店主がちらっと自分を見たのが分かる。
だが、秋月はわざと黙ったまま、肯定も否定もしないでいた。
「お車、あるんですか?」
「・・・・・」
「女将さんに言ってタクシーを呼んでもらった方がいいのかしら」
既に、秋月は自分と行動すると思い込んでいるらしい彩香に秋月が視線を流した時、ご用意が出来ましたと障子の向こうから
声が掛かった。
「用意?」
「入れ」
障子が開けられ、先ず女将が中に入ってきた。
その場に彩香が来ていることは視界に入っているはずだが、女将は顔色一つ変えずに一礼すると、秋月に向かって誇らしげな笑
みを向けた。
「飾り甲斐がある方で楽しゅうございました」
「そうか」
「さあ、日和さん」
「・・・・・」
まるで孫を呼ぶような女将の口調に秋月は苦笑しながら、開いた障子の向こうへとじっと視線を向ける。
やがて・・・・・。
「あ・・・・・っ」
自分の隣にいる彩香が驚いたような声を上げたが、秋月はもうそちらに視線が行くことはなかった。目の前の、艶やかに変身した
日和から目が逸らせないのだ。
黒地に、金色が効いている檜扇に鳳凰の図柄の着物に、シンプルな花の帯。結びは立て矢系(たてやけい)と言われる、後姿
を斜めに羽根が横切るシンメトリーな形で、かなり大人っぽい。
ほとんど化粧というものはしていないが、小さな唇を色付けている赤い口紅が秋月の劣情を・・・・・かきたてた。
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