ほとんど真っ白といってもいい、短く刈り上げた髪。
それに相反するように若々しい肌艶を持つ、眼光鋭い初老の男は、以前一度だけ顔を合わせたことのある秋月の知り合いだっ
た。
 まだ、日和はヤクザである秋月に連れまわされることが怖くて仕方が無かった頃のことで、その屋敷にいた強面の男達の印象
と、秋月に好意を抱いているらしい女の登場が重なって、日和の記憶に強烈に刻み込まれているのだ。
 それだけではない。一度だけしか会っていないというのに、男は日和の何を気に入ったのか、自分を呼ぶようにと秋月に頻繁に
催促しているらしい。

 「小関(おぜき)の御前のお遊びには付き合いきれない」

 秋月はそう言っていたが、日和としては自分が舞妓でないと言った方が話は早いのではないかと思うのだが、どうやらそれとこれ
とはまた話は違うようで・・・・・。




 「え・・・・・っと、小関、さん?」
 確かめるようにその名を呼べば、小関は厳しい眼差しを緩めた。
 「よく俺の名前を覚えていたな」
 「は、はい、あの、秋月さんがよく・・・・・名前を口にしているので」
 「どうせ、ろくでもない噂話だろう。若い頃はともかく、孫が成人する頃には落ち着いたんだがなあ」
 「・・・・・」
(そ、それって、結構最近のことなんじゃあ・・・・・)
そう突っ込みたかったが、もちろん胸の中だけに納め、日和は小関の後ろにいる男達の姿にチラッと視線を向けてしまった。
あの屋敷で見たような、いかにもという風体の男達よりも小関の方が強いのだろうかと考えたりしたが、今はそんなことを暢気に考
えている場合ではない。
 いくら数年前の出来事で、その後は秋月も何も言わなかったものの、自分の孫娘との縁談を断った男の恋人を、黙ってこのま
ま解放してくれるのかどうか不安になった。
 「あ、あの、お・・・・・わ、たし」
(俺のこと、まだ女って思ってる、よな)
 あの秋月が、わざわざ訂正をしているとは思えない。
シャツにジーパン、髪だって長くは無い自分が小関から見れば男か、女か、どう見えているのだろうと不安にはなるが、あまり明るく
ない庭に面した廊下では早々にばれることはないだろうと、日和は出来るだけ声に気をつけて言った。
 「以前は、あの、失礼しました」
 「そんな昔のことはいい。それよりも、秋月の奴、あれだけ日和を座敷に呼べというのに、話をはぐらかしてばかりでいかん」
 「・・・・・」
(俺の名前も知ってるんだ・・・・・)
 いったい、自分の交友関係はどの方向に向いていくのかと気が遠くなりそうだったが、これ以上こうして向かい合っていてはボロが
出てしまうかもしれない。
可愛い舞妓相手に鼻の下が伸びている秋月のいる座敷に戻るのは気が進まないが、とにかくこのアクシデントを秋月に知らせな
ければならないだろうと思った。
 「あの、私はそろそろ・・・・・」
 失礼しますと言おうとした日和は、
 「・・・・・え?」
ガシッと腕を掴まれたことに困惑してしまう。
 「あの・・・・・?」
 「いい機会だ、日和の舞妓姿を見せてもらうか」
 「は・・・・・?」
 「秋月の影で、初々しく頬を染めている可愛い舞妓の姿が忘れられなくてな。安心しろ、色っぽい意味じゃねえ」
 こんなジジイとじゃあ可哀想だしなと笑う小関はどこまで本気なのだろうか。
どちらにしても、このまま解放してもらえないのは確実のようで、日和は1人で座敷を抜け出したことを今更ながら後悔していた。




 「・・・・・」
(遅い)
 日和が座敷を出てから15分ほど経つ。
本当に生理現象が来ていたわけではないだろうし、多分妬きもちをやいてしまった自分の気持ちを抑えるために少しの時間が必
要だっただろうというのは想像が出来たが、それでも遅過ぎると思った。
 「秋月さん?」
 そのうえ、何を勘違いしているのか、先ほどから舞妓の1人がずっと自分の身体に触れてきて、客と舞妓という関係以上の接触
をしていた。
もちろん、こういった座敷遊びで、色っぽい接触を楽しむ者もいるだろうが、あいにく秋月は飢えているわけではなく、なにより愛し
い恋人を同席しているのだ。
 日和を妬かせるために舞妓の肩を抱き寄せるが、本人がここにいなければ見せつける必要も無い。
鋭く舌打ちをした秋月の気配を悟ったのか、芸妓が舞妓を諌めた。
 「お客様に白粉がつくでしょう?」
 「・・・・・っ」
 さすがに、自分の行動が過ぎたものだったことに気付いたのか、舞妓は焦って身を引く。
それを切っ掛けにして、秋月は立ち上がった。
 「あの?」
 「連れの様子を見てくる」
 まさか、あのまま帰ってしまったとは思わないが・・・・・今もって戻ってくる気配が無い日和のことが心配になり、ここで焦れて待っ
ているよりも迎えに行った方が早いと思ったのだ。
 しかし、
 「失礼する」
 「・・・・・」
秋月が足を踏み出す前に、障子の向こうから声が掛かった。壮年の男の声に、秋月は用心深く気配を探りながらどうぞと返す。
中に入ってきた顔を見て、秋月はさすがに目を見開いた。




 荒々しく足音を鳴らし、奥の座敷の障子を断りも無く開けた秋月は、いっせいに自分に向けられる敵意にも全く動じることは無
かった。
それよりもと、上座に座る初老の男に視線を向け、厳しい表情のまま歩み寄る。
もしも、その男が抑えなければ、周りにいる者達がいっせいに飛び掛っていきそうなほどに険しい表情をした秋月は、そのまま面前
に立つと威嚇するように声を低くして言った。
 「勝手なことをされては困りますよ、御前」
 「ん?何のことだ?」
 「私の連れを勝手に連れ出したそうですが・・・・・あれをどこにやりました?」
 秋月がまだこの世界に飛び込んで間もなく、数年側で勉強させてもらった組織の大御所だが、そんな恩人といえども日和に何
かしたかと思えば揺れる心を抑えきれない。

 「こちらのお嬢さんを、うちの御前がお預かりしています」

 小関の屋敷で見かけたことのある幹部のその言葉に、秋月はなぜと訊ねる前にここまで来てしまった。
同じ組織だとはいえ、一度は縁組を断った秋月に何も含んでいないとは言い切ることが出来ない。素人の日和に手を出すほど
に馬鹿な人ではないと思っているが、それでも本人の無事な姿を見るまでは分からなかった。
 「ああ、日和か」
 「・・・・・」
 「あれは今着替え中だ」
 「・・・・・は?」
 「この先の置屋に連れて行って、舞妓姿にさせている。なあ、秋月、お前が悪いんだぞ?あんなに何度も日和を座敷に呼べと
言ったのに、のらりくらりと逃げやがって」
 「・・・・・あれは、見習いみたいなもんだと言ったでしょう?踊りはおろか、座敷遊びだって満足に出来ない。御前の前に出して
も失礼をする可能性が大きいと・・・・・」
(本気で言っていたのか?)
 なぜか、小関は一度だけ見た日和のことを気に入り、何度も座敷に呼ぶようにと催促してきた。
しかし、当の日和が全くの素人・・・・・それどころか、男であるとは今更言い難く、秋月は何時も言葉を濁していたのだが、あれか
らかなりの時間が経つというのに、小関は諦めてはいなかったのか?
(年寄りは忘れっぽいはずだが・・・・・)
 「秋月、俺はまだもうろくしてないぞ」
 「・・・・・」
人の表情を読むことは今だ健在らしいと思い知り、秋月はその場に腰を下ろすと大きな溜め息を付いてしまった。
 「飲むか?」
 「・・・・・ええ」
 飲まずにはいられないと、差し出された杯を手に取り、そのまま注がれた酒を一気に飲んだ。
 「俺は、今でもお前があの舞妓一筋だっていうのが嬉しいぜ」
 「御前」
 「俺の孫娘を振ったんだ、その思いは貫いてもらわなきゃな」
広い・・・・・とても、大きな心の持ち主だと思う。あんな風に一方的に自分の考えを伝えた秋月を切り捨てること無しに、それから
も幾度と無く手を貸してくれた。
この世界での親という存在に近い小関の今回の悪戯は、自分の方が折れて受け入れなければならないのかもしれない。
 それに、自分が選んだ着物ではないものの、久し振りに日和の舞妓姿が見れる。お仕置きの最後の一押しになるかもしれな
いと、意識を切り替えてしまう方が楽だった。




 「く、苦しい・・・・・」
 久し振りに着る着物・・・・・いや、舞妓の装いは、日和にはとても苦しいものだった。
幾ら小柄とはいえ、大学生になった自分はそれなりに男の骨格になっているはずだ。それなのに、鏡の中に映る化粧をした顔を
見た時、本当に自分は姉と双子なのだなと思い知り、溜め息をつくしかなかった。
 「大丈夫ですか?」
 「え、あ、はい」
 「足元に気をつけて」
 「・・・・・すみません」

 料亭から10分ほど歩いた所にあった置屋に連れて行かれ、着ていた服を強引に脱がされそうになった時はさすがに慌てて、自
分が男であるとばらしてしまった。
 「知っていますよ」
 しかし、日和の祖母ほどの年齢の女性はあっさりとそう言い、日和の服を剥いでしまった。
羞恥を覚えるより先に、どうしてという思いが日和の中に生まれる。どうやら小関は日和が男であることを知っている・・・・・それな
のに、舞妓姿にさせようとするなど、いったい何を考えているのだろう。

 「はい、手を上げて」
 「ほらっ、後ろっ」
 「あ〜っ、髪を弄らないの!」

 ・・・・・などと、散々叱られながら舞妓に変身した自分を、日和はかなりお人よしだなと思うしかなかったが、一方で秋月はどう
しているのかと思った。
自分が座敷から出て行って、もう1時間近くなるはずだ。本気で心配し、捜しているとしたら携帯の一本でも鳴らすと思うが、目の
前に出していた携帯には着信は一本も無かった。
 「・・・・・」
(もしかして、怒ってるのかな)
 久し振りに会ったというのに、甘える言葉の一つも言わなかった自分に怒っているのかもしれない。
だが、秋月だって悪い。あんなふうにデレデレとして・・・・・。
 「どうされました」
 「え?」
 不意に声を掛けられ、日和は自分の手を引いて歩く男を見上げた。
日和を置屋に連れて行き、着替えるまで待ってくれて、再びこうして料亭に送ってくれている男は、小関がつけてくれた人だ。
秋月よりも年上の、多分40手前だろうか、最初は一重の目元が笑っていなくて怖いと思ったが、出てくる声はとても響きが良く
て、何だか安心出来る声音だった。
 「大丈夫です」
 「もう着きますから」
 悲しいかな、時間が空いたとはいえ、何度も着た舞妓姿の裾さばきは無意識のうちに慣れていて、歩くことはそれ程困難では
ない。
それよりも・・・・・。
 「あの」
 「はい」
 「・・・・・この姿、変じゃないですか?」
 「綺麗ですよ」
 「あー・・・・・その、着物は綺麗ですけど・・・・・」
 朱色地に、金糸の模様が鮮やかな振り袖。可愛い女の子が着れば確かに綺麗だろうが、男の自分が着てもそう見えるのだろ
うか。
(化粧をしてるから分からないかな)
 せめて、人目につかなければいいと思っていると、男がふっと笑う気配がした。
 「何を心配しているのかは分かりませんが」
 「・・・・・」
 「今のあなたは、とても綺麗な舞妓に見えます」
 「・・・・・そ、そうですか」
(う・・・・・耳に毒な声・・・・・っ)
自分のことを気遣って言ってくれる男に対して感謝するように頷くが、日和は白く塗った顔が赤くなっているかもしれないと焦ってし
まった。本当に、声が良いというのは困りものだ。
(・・・・・秋月さんだって、いい声だけど)

 「日和」

(秋月さん・・・・・)
 彼の、自分の名前を呼ぶ声がとても好きだ。
そう思うと、早く秋月の顔を見て安心したくて、日和は自然と足が速まっていたことに気付かないままでいた。