いったい、何時までされるのかと気が遠くなりそうなキスをようやく解いてもらい、日和はハァと大きな溜め息をついて秋月の胸に
もたれた。
(・・・・・何てことするんだよ・・・・・)
キスをされている最中は全く周りが見えなかったが、少し落ち着いてくると、先程までここには何人もの人がいたことを思い出した。
(俺より年下の舞妓もいたのに・・・・・)
 同世代といってもいい少女達の前で、男同士のキスシーンというとんでもないものを見せてしまった。どんなふうに思われたのか
と、今更ながら日和は顔も上げられないほどの羞恥を感じる。
 「どうした?」
 「・・・・・」
 「日和」
 なぜか、先程から上機嫌の秋月は、日和の今の心境をちゃんと考えてくれない。かえって、日和が我が儘を言っているかのよう
に、大きな溜め息をついて、さらに強く抱きしめてきた。
 「甘えたいのか?」
 「あっ、甘って、あのっ」
どこをどう考えれば、今の自分の態度が甘えているというのか。いや、この体勢が悪いのかと腕の中から逃れようとしたが、秋月の
拘束は少しも緩むことが無かった。
 「・・・・・泊ることも出来るぞ?」
 「と、泊る?」
 料亭であるここで泊ることなんて出来るのかと思っていると、秋月はくいっと襖の奥を顎で指し示した。
 「そういう理由でも使えるんだ」
 「そ・・・・・って、バカですか!!」
それは多分、ドラマなどで見たことのある、怪しい接待のことを言っているのだとようやく想像が追いついて、日和は思わず秋月の
胸をドンッと思いっきり突き放した。
 「こ、こんなとこで、そんなこと出来るはずないでしょう!」
 セックスのセの字も知らないなどと可愛い子ぶるつもりは毛頭無いが、そういうプライベートなことは密室ですることで、こんな何
時誰が来るかも分からない場所でするなんてとんでもない。
(大体、俺今、舞妓の姿なんだぞっ!)
 そんな姿で、こんな場所で抱き合うなんて、それこそ倒錯の世界だ。
 「秋月さんっ、これ!」
 日和は自分を指差す。
 「この着物返しに、さっきの所まで連れて行ってください!」
 「・・・・・も・・・・・」
 「もっ?」
 「あー、いや、分かった分かった」
何を言うつもりだったのかは分からないが、日和の剣幕に秋月は肩を竦めて答えてくれる。まるで自分の方が悪いことをしているよ
うな感じだが、それでも日和は早くこの舞妓の衣装を脱いでしまいたかった。




 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 歩くたびに、男の視線が自分の隣に向けられる。
神楽坂という場所柄、舞妓を連れていてもおかしくはないのだが、それでも頻繁に姿を見るというほどには人数がいないのだろう。
 その上、日和は羞恥からか、秋月の腕にしっかりと掴まるようにして顔を俯かせているので、特別な関係のように見えるのかもし
れなかった。
秋月はもちろんそれを否定するつもりは無く、ますます強く日和の肩を抱き寄せたが、逃げたいと思っていても日和はここで騒げば
もっと目立つと恐れているのか、意外におとなしく自分にくっ付いている。
 「・・・・・」
 こんな日和は珍しいと、秋月の歩みはさらにゆっくりとしたものになった。
 「あ、秋月さん」
 「ん〜?」
 「早く行きましょうよ」
 「まあ、急ぐこともないだろう?今日は天気もいいし、月も綺麗に見えるぞ」
 「・・・・・だから〜っ、俺は月を見る余裕なんてないんですってばっ」
こそこそと声を潜めて話しているので、2人の距離はさらに密着する。
日和が顔を上げれば、にやけた秋月の顔をそこに見つけることが出来ただろうが、あいにく夜道の足元が気になるのか視線は下
を向いたままだ。
 「・・・・・」
秋月はこの機会にと日和の舞妓姿を堪能し、物欲しそうな視線を向けてくる男達に自慢げな笑みを返すことが出来た。

 普通に歩けば10分ほどの距離。
目当ての置屋が近付いた時、
 「秋月さん」
不意に日和が話しかけてきた。
今までの怒ったような、困ったような声の調子ではなく、何かを考えるようなその声音に、秋月は目を眇めてどうしたと訊ね返す。
 「・・・・・さっき会った、小関さん」
 「御前?」
 「・・・・・あの、俺のことで何か・・・・・秋月さんが困ってることとか、あるんですか?」
 「困ってること?」
 「だって、前、あの人の・・・・・」
 「ああ、縁談のことか」
 口ごもる日和の言葉の中から様々な連想をした秋月が試しに言えば、抱いた肩が揺れたのが分かった。
もう何年も前のことというのに、日和はあの日の出来事を忘れてはいないらしい。そもそも、そのせいで小関のことも覚えていたの
だろうが、秋月にとってはとっくに過ぎ去った過去の出来事でしかなかった。
 確かに、あの当時は自分も覚悟を決めて小関に縁談の断りを入れた。孫娘という、身内としてもごく近い存在を自分が拒絶
することで、これからの立場が悪くなっても仕方が無いと思ったし、なにより誰かの後押しで力を得ることの虚しさと屈辱を考えれ
ば乗り越えられると思った。
 日和は自分のせいだと思っているかもしれない。それは原因の一つではあったが、全てではなかった。秋月は自分のプライドを
守る為に、日和という存在を利用したのだ。
 もちろん日和という、自分にとって特別な存在が出来たことが、自身を奮い立たせる要因になったことも確かで・・・・・。
(どっちにしろ、断っていたが)
日和の思い込みを、秋月は訂正してやるつもりは無い。その罪悪感が日和を縛る鎖の一つとなっているのは確かだからだ。




(う・・・・・沈黙が嫌なんだけど)
 思い切って小関のことを聞いたのだが、秋月はなかなか答えてくれない。
先ほどまで座敷で会っていた小関の様子を考えれば、自分や秋月に対して負の感情を抱いているようには思えなかった。
日和に話し掛けてくる様子は本当の祖父のようだったし、秋月に対しても言葉も眼差しも、厳しいものは無かった。
 それでも、日和は心の中のどこかで気になっていたことを・・・・・秋月の縁談のことを思い出し、それを頭の中から消すことは出
来なくなったので思い切って訊ねたのだが。
 「・・・・・日和」
 「えっ?」
 不意に名前を呼ばれ、思っていた以上に大きな声が出てしまった。
 「お前、見合いのこと、そんなに気にしていたのか?」
 「・・・・・だって」
いくら秋月がヤクザという特殊な仕事をしているといっても、通常はちゃんとした会社も経営しているらしいし、見かけはこの通りい
い男だ。本人に言うと図に乗りそうなので言わないつもりだが、母も姉も、女の目から見ても秋月は上等の男らしい。
 あの時の見合い相手の女は、少し気が強そうな気はしたものの、本当に秋月を求めているのだということは感じた。仕事上でも
大切な人の孫娘だったらしいし、あの後、秋月の立場がどうなったのか・・・・・日和には全く分からなかった。
 その後に会っても、秋月はその時のことを何も言わなかったが、もしかして・・・・・。
 「・・・・・」
秋月に脅されるように付き合っていた時はそれ程気にしなかったのに、自分の中で秋月の存在が変化した頃から、日和はそのこ
とを何度か思い出す結果になった。
 自分のせいで秋月が辛い目に遭ったのだとしたら・・・・・過去に戻って謝罪したいくらいだと思うほどに、日和の中では秋月への
想いは膨らんでいた。
(・・・・・言わないけど)




 「可愛いな」
 「ばっ」
焦って反論しようと顔を上げた日和の唇を、秋月は当然のごとく奪った。何時もは口紅の味など全くしない唇に、今日は舞妓の
衣装に合わせて赤いそれが塗られていて・・・・・。
(・・・・・不味い)
 女達とは当然のごとく口紅を塗った状態でキスをしていたが、日和にはそれが全く合わない気がする。作ったようなその味は、な
んだか拒絶されているような気がしてしまうのだ。
 「むぐっ」
 そう思った時、秋月は無意識のうちに身体を引くと、スーツの袖口で強引に日和の口紅を拭い取っていた。
 「あっ、むぁっ、ちょっ」
 「・・・・・」
 「ちょっと!」
 「・・・・・」
(綺麗に取れないな)
スーツでは、綺麗に口紅を拭うことは出来ないらしい。街灯に照らされた日和の口元は、白い頬にまですっと赤い跡が付いてしま
い、何だかマヌケな様子になって・・・・・秋月は思わずぷっとふき出してしまった。
 「な、何っ?」
 本人は当然、自分の顔が見れない状態なので、自分が今どんな顔になっているのか分からないはずだ。それでも、じっと顔を
見下ろしている秋月の笑みに、嫌な予感がしたのかペタペタと頬を触っている。
仕草も、汚れてしまった顔も、何だか歳よりも幼く見えてしまい、秋月はさらに声を上げて笑いながら日和の身体を抱きしめた。
 「あ、秋月さん!」
 「ははっ、帯が邪魔だな」
 「だからっ、俺だってくるしーの!」
 「俺、に、なってるぞ」
 あんに、女装していると思われるぞと言えば、日和はとっさに口を噤んで睨みつけてくる。
そして・・・・・。
 「お客様っ、セクハラは止めてください!」
 「日和?」
 「別途料金頂きますよ!」
 「・・・・・」
 腰に手をやり、自分よりも長身の男を見上げてくる舞妓。
一体どんなトラブルがあったのだと周りは興味深そうな視線を向けてきていたが、当の秋月は楽しくてたまらなかった。
(本当に、日和は面白い)
 「別料金を払えば、どんなサービスがあるんだ?舞妓サン」
 「・・・・・っ」
そして、笑みを浮かべながら言い返す。まだまだ、日和に負けるわけにはいかなかった。




 置屋に行くと、先ほど着付けと化粧をしてくれた女性はまあと大きな声を上げた。
 「あ、あの」
 「いったい、どんなお遊びをされたのか・・・・・」
 「え?」
 「楽しい大人の遊びだが」
わけが分からない日和とは違い、秋月は上機嫌でそう答え、女性はそんな秋月を眉を顰めて見ていたが、やがてはあと大きな溜
め息をついてお上がりくださいと言った。
 「女将、この着物は買い取ろう」
 「・・・・・一回のお座敷代よりもお高いですが?」
 「構わない。こいつが着た物を、この後他の奴に着せるわけには行かないからな」
 「・・・・・ご執心ですこと」
 もう呆れて文句も言えないのか、ただそう言って苦笑している女性とは違い、日和はこの着物を買い取ると言った秋月の言葉に
慌ててしまう。
着物の値段などはっきりとは分からないが、それでも10万、20万どころではない金額のはずで、そんなものを簡単に買うという秋
月の考えが全く分からない。
 男の自分が着てしまったことについては、本職の舞妓には悪いと感じるものの、それでも気をつけていたので汚してはいないはず
で、大金を払ってまで買い取る必要があるのかといえば、無いと大きな声で言えると思った。
 「秋月さんっ」
 奥の部屋に向かう廊下で、日和は前を歩く秋月の腕を引いた。
 「どうして着物を買い取るんですか?」
 「分からないか?」
 「分かるわけないでしょう?着る人だっていないのに」
今回の自分はあくまでもたまたま、で、普通男は舞妓の着物なんて着ない。
秋月などではとうてい丈が足りないし、そもそも、男に女装趣味などあるはずがない。
 秋月の舞妓姿を想像しようとして、すね毛が見える裾の部分で挫折してしまった日和は、ふと、今自分が掴んでいる秋月のス
ーツの袖の汚れに気がついた。
(赤い・・・・・って、これ口紅?)
さっき、自分の口を拭ったのは確かこちら側の手だった。
 「日和?」
 「こ、これ・・・・・」
 着物の汚れより、このスーツの汚れの方が被害が大きいのではないかと、自分の責任ではないものの慌ててしまった日和に対
し、秋月はチラッとそれに視線を向けただけでああと気の無い返事をする。
 「たいしたことないだろ」
 「た、たいしたことありますよ!」
 「お前のつけた口紅だそ?このままにしておいてもいいな」
そう言いながら、汚れている部分を口に持っていき、まるでキスしているような仕草をする秋月。日和は真っ赤になり、駄目ですと
叫んだ。
(直ぐに染み取りに出してよ〜っ!)