「きつくなかったかしら」
 「は、はい、とっても着心地が良かったです、ありがとうございました」
 自分の母親よりも遥かに年上の女相手に、日和は精一杯の笑顔(多少強張っている)を向けて礼を言っている。
大体、今回のことは秋月の指示ではなく、悪戯心を催したらしい小関の暴走のせいで、日和がけして望んだわけではないことは
秋月も分かっている。
それでもこうして礼を言える日和は、きっと育ちがいいのだろうと思えた。
 「秋月様、本当に買い取られるんですか?」
 「ああ」
 日和の肌に触れたものに、他の女の肌が・・・・・そう思っただけでも頭にくるので、自分の心の安寧のためにも是非買い取るつ
もりだった。
多分、200万はいかないだろうがとのんびりと考えていた秋月は、横顔に視線を感じて振り向いた。
 「ん?どうした」
 「・・・・・秋月さんって」
 「なんだ」
 「・・・・・」
 声には出さなかったが、口は確かに《馬鹿じゃない》と形どったと思う。自分の純情を何と考えているんだと思わないでもないが、
多少馬鹿なことをしているという自覚はあるので追求は止めてやった。
どちらにせよ、この着物は買取、それで決まりだ。
 「後で請求書を回してくれ」
 「それでは手入れをしてから・・・・・」
 「いや、そのまま持って帰る。用意をしてくれ」
 「・・・・・分かりました」
 これ以上何と言っても秋月の思いは変わらないと分かったらしい女は、溜め息をつきながらも着物を持って部屋を出た。いくらこ
のままでいいと言われても、多少は手入れをしておきたいのだろう。
 秋月は煙草を取り出て口に銜えたが、じっと自分を見ている日和の視線に火をつけるのは止めた。
何か言いたいのだろうが、何と言っていいのか分からない。そんな複雑な表情をしている日和がおかしくて、秋月は手を伸ばして
額を指で弾いた。




 ピシッ

 「いたっ」
 そんなに強い力ではなかったが、やはり痛くて日和は思わず秋月を睨んでしまった。
ニヤニヤと、面白そうに笑っている秋月は、そんな日和の態度を子供っぽく思っているのかもしれないが、秋月こそ少し子供っぽい
のではないかと思う。
 大体、一回しか着てない着物を買い取るなど、どこの道楽息子だ。
(綺麗にクリーニングして返すなら分かるけど、そのまま買っちゃうなんて。まさか、また俺に着せようって思ってるんじゃないよな?)
いや、多分そんな気がする。もちろん、日和は断固拒否するつもりだが。
 「日和」
 「・・・・・」
 「日和」
 「・・・・・何?」
 無視をしたいのに、秋月の自分を呼ぶ声には弱い。それでも精一杯怒っているんだというポーズは崩さないまま返事をすると、
 「うわっ」
畳に座ったままの秋月に腕を引かれてしまい、無防備だった日和は秋月の胡坐をかいた膝の上に倒れこんだ。
 「いった〜」
秋月がしっかりと抱きとめたので畳に身体がぶつかることは無かったが、それでも衝撃に痛みを感じてしまう。
何をするのだと睨みあげた日和は、そこに予想外の優しい笑みを浮かべた秋月の姿を見つけて思わず目を瞬かせてしまった。
(な、何っ?その顔・・・・・)
 意地悪な顔ではない、優しさに満ちた、愛しいものを見る眼差し。その先にいるのが自分だということがモゾモゾと気恥ずかしく
て逃げるように目を逸らしてしまったが、その身体はしっかりと秋月に抱きしめられたまま動けない状態だった。
 「悪かった」
 「・・・・・何のことですか」
 「お前に黙って舞妓を呼んだ」
 「・・・・・それだけ?」
 「小関の御前は予想外だ」
 「何、それ」
 あっさりと言い切る秋月に不満を感じたが、それでも一応謝罪しただけいいと思わなければならないのだろうか。
日和は俯いた状態から、チラッと目線を上げた。
 「・・・・・もー、いいです」
 確かに、自分でも望まない女装をしてしまったが、それはあの料亭で自分が小関に捕まったせいだ。多分、秋月も断れないほ
どに偉い立場の人の言葉というのは仕方が無いと、全てが終わった今では日和も諦めの心境になっている。
 それよりも気になるのは、
 「あ、あの、離してください」
この、秋月に抱きしめられているという状態だ。
ここは彼の部屋ではなく、何時誰が来るとも分からない場所で、現に先ほどの女性は着物を持って必ず戻ってくるはずだった。
そんななか、幾ら客商売で色んな相手を見慣れているとはいえ、秋月のような男が自分のような男を抱きしめているというこの状
態は異様なものに違いない。
 「秋月さんっ」
 「嫌だ」
 「嫌って・・・・・子供じゃないんですから」
 「ずっとつれなかった罰。少しは摘み食いしてもいいだろう」
 「つま・・・・・ふむっ」
いきなり重なった唇。言葉を言い掛けて口を開けていた日和の口腔内には、堂々と秋月の舌が入り込んできた。
(何、何、何〜っ?)




 「ふー、んんっ!」
 肩を掴んでいた日和の手が、自分の肩をバンバンと遠慮無しに叩いてきた。
恋人同士のキスをこれほどに拒むのはどうしたことかと面白くない気持ちも確かにあるが、場所が気に入らないだろうということは当
然のように分かっていた。
これは、単に日和への意地悪だ。もっと自分に対して甘えたり、目に見える形で愛情表現をして欲しいと思うのに、日和は恥ず
かしいからという言葉一つで全部誤魔化そうとする。
 幾ら男同士とはいえ、心も身体もしっかりと結びついた恋人同士である自分に対し、あまりにもつれない日和には多少強引で
も態度で示さなければ。
 「んっ」

 クチュ チュク

 怯えて逃げる舌を強引に絡め取って吸い付くと、日和は喉を鳴らして僅かに首を振る。自分の肩を叩いていた手が、やがて縋
るようにしがみ付いてくるのはもう時間の問題だった。
 「んはっ」
 「・・・・・」
 一度、唇を離し、再度口付ける。
今度は日和も諦めたのか、控えめながら自分からも舌を絡めてきた。

 クチ

 滴る唾液が、日和の顎を伝った。それを舐め上げ、ついでのように首筋に吸い付く。
 「い、いたっ」
チュッと吸い上げると、鮮やかなキスマークがついた。今の時期、とても隠せない位置の所有の証に、秋月はにんまりと笑みを浮か
べた。
(これくらいは許せよ)

 「日和」
 「・・・・・っ」
 わざと低く声を落として名前を呼べば、腕の中の身体が面白いほどに震えた。これからどうやって泣かせてやろうか・・・・・それを
考えるだけで楽しいと思っていた時、秋月は廊下に人の気配を感じた。
(もう戻ってきたのか)
 多分女だろうが、こういう商売をしているので気を利かせることは出来るはずだと思っていたが、
 「ここはそういう場所じゃありませんよ」
意外にも、そう言いながら部屋の中に入ってきた。
 「!」
 それは日和を気遣ってのことだろう。どうして自分には味方がいないのかと文句も言いたくなったが、さすがにもう潮時かと秋月は
諦めて顔を上げる。
 「ああ、来たのか・・・・・って」
 しかし、日和にとっては女の登場は突然のもので、快楽に溺れかけた日和は一瞬で正気を取り戻したのか、いきなり秋月の腹
に膝蹴りをしてザザッと身を離してしまった。
 「おい」
(俺は痴漢じゃないぞ)




 秋月が酒を飲んだので、店の前まで車が迎えに来てくれた。
運転手や護衛の男達とは顔見知りなので丁寧に頭を下げたが、日和は黙ったまま後部座席に乗り込んでしまう。
(本当に信じられない!)
 自分の母以上の年上の女性に、あろうことか男同士のキスシーンを・・・・・それも、罰ゲームのような軽いものではなく、濃厚な
ものを見られてしまった。ここには二度と来ることはないだろうが、早く記憶から消してくれたらいいと切に願う。
 「どちらに行かれますか」
 「マンション」
 「はい」
 「俺、帰ります」
 「日和」
 このまま秋月について行ってしまうと、何だか自分が全面的に負けたような感じで悔しくてたまらない。
先ほどのキスだけではなく、その前のキスもやっぱり納得出来なくて、とりあえず自分が逃げることが仕返しの一つだと、日和は秋
月の言葉に被せるようにそう言って窓の外に視線を向けた。
 「日和」
 「・・・・・」
(答えないよ〜だ!)
 外国人でもない自分に、人前でキスを強要した罰だ・・・・・そう思いながら日和はますます秋月から身体を離したが、
 「おい、いい加減にしろ」
突然に苦々しい声でそう言われたかと思うと、日和は後部座席に仰向けに押し倒されていた。
 「あ・・・・・」
真上から覗き込んでくる秋月の顔は無表情に近く、その手は日和の首元を押さえている。何時もは優しく触れてくれる手が、加
減無く襟元を締め上げてきて・・・・・苦しい。
(あ、秋月・・・・・さん?)
 知り合った当初から、多少強引ではあったものの日和に対しては優しく、少しスケベで、だから・・・・・だから、日和は忘れてい
たのかもしれない。
秋月の正体が何なのか、自分は何に捕らわれているのか。
 「・・・・・」
 泣いてはいけないと思うのに、胸に競りあがってくる思いは何なのか分からない。
日和は自分を押さえつけてくる秋月の手首に恐る恐る手を触れ、小さな声で目の前の男の名前を呼んだ。




 「・・・・・き、づき・・・・・さ・・・・・」
 「・・・・・」
(脅かし過ぎたか)
 自分に対して我が儘な日和に、少しだけ脅かすために自分の別の顔を見せたが、どうやらそれは秋月が思った以上の効果を
もたらしてしまったようだ。
自分が簡単にあしらえる男ではないと思ってもらうのはもちろんいいのだが、怖いという思いを強烈に抱かせてはならない。あくまで
も自分と日和は恋人同士で、脅迫者と被害者ではないのだ。
 「・・・・・悪かった。怖がらせたな」
 首筋の手をずらし、頬を撫でると、日和は一瞬目を閉じてから、やがて恐々と瞼を開く。
 「秋月、さん?」
何かを確かめるように呼んでくる日和に、笑って何だと答えてやる。そうすると、ホッとしたようにようやく強張った表情を緩めた日和
は、秋月の指先を掴んだ。
 「・・・・・怖かったです」
 「悪い」
 「・・・・・でも、あれも、秋月さんなんですよね」
 「そうだ。・・・・・嫌になったか?」
 もちろん、嫌だと言われても離すつもりはないが、日和が自分の別の顔をどんな風に思ったのか興味が湧いた。
日和はしばらく考えるように瞳を彷徨わせて・・・・・やがて、嫌ではないですと答えてくれる。
 「本当に?」
 身体を倒し、そのまま日和を抱きしめるように再度問い掛けると、日和は軽く秋月の背中をポンと叩いてきた。
 「こ、こんなふうに、人前でするのは、嫌です」
 「俺が、するのはいいのか?」
 「・・・・・」
 「日和」
 「秋月さん以外となんて・・・・・考えられないです」
 「上出来」
完璧な答えだ。褒めてやると嫌そうな表情になる日和は、どうやら先ほどまでのショックは消えたようだ。
この先、絶対に日和の前ではヤクザの顔を見せないと誓っても、周りの状況でそれが叶わないことはありえるかもしれない。
だからこそ、今の日和の言葉は秋月にとっては最上の愛の告白だった。
 「今日は、泊まるな?」
 反論は許さないように、それでも冗談めかして聞けば、日和は眉間に皺を寄せたまま、不本意だという態度でも頷いている。
そんな子供っぽい反応がおかしくて、秋月は笑いながら日和を抱きしめる腕にさらに力をこめた。