マコママシリーズ
第ニ章 出産編 3
「あ・・・・・」
「克己」
縋るような倉橋の目をしっかりと見返して頷いた綾辻は、時計に目を落としながら言った。
「何時に入ったんだ?」
「昨夜の10時前だそうです」
「・・・・・っ」
(もう直ぐ11時間か・・・・・)
それが長いのか短いのかは経験の無い綾辻には分からないが、早い・・・・・ということは無いだろう。
赤いランプが付いた「分娩中」の文字を見ながら、綾辻は固い表情のままの倉橋を振り返った。
『綾辻さん・・・・・どうしたらいいんですか・・・・・』
今まで聴いたことがないような心細げな倉橋からの電話は、綾辻の寝ぼけた頭を一瞬にして覚まさせた。
落ち着きない倉橋の言葉を整理すれば、どうやら真琴がいよいよ出産するらしく、海藤と共に分娩室に入っているということだっ
た。
とり合えず着替えだけをして駆けつけたが、今は午前9時前。分娩室に入ったのが昨夜の午後10時頃だとすればもう11時間
は経過している。
綾辻は通り掛かった看護師をにっこりと微笑んで呼び止めた。
「仕事中、申し訳ありません」
モデルのような容姿に、低く甘い声。そのうえ必殺の女殺しの笑みを浮かべた綾辻に引っ掛からない女などおらず、看護師は頬
を染めながら綾辻の問いに答えた。
初産ならば12,3時間は掛かるのは普通だということ。
もっと長く掛かる場合は20時間近く掛かる人もいるということ。
「うわ〜・・・・・一仕事だな」
看護師と別れた綾辻は、溜め息をつきながら倉橋の側に戻る。
倉橋はイスに座らず立ったまま、ギュッと両手を握り締めていた。
「まだ時間掛かりそうだ」
「・・・・・まだ?」
「早くて午前中、もしかしたら夕方まで掛かるかもしれないそうだ」
「そんなにっ?」
そろそろ事務所に行こうかとマンションを出ようとした倉橋の携帯に海藤からの電話があったのは、そろそろ午前8時になろうか
という頃だった。
何時もより早いのは、事務所に行く前に真琴の病院に顔を出そうかと思ったからだ。
そんな倉橋に、海藤は端的に言った。
『もう、分娩室に入っている』
「・・・・・え?」
『俺は付いているから、スケジュールの変更を頼む』
「え、あ、あの、真琴さんのご実家へは?」
『さっき連絡をした。昼ぐらいには病院に来られるだろう』
「わ、分かりました」
電話を切った倉橋は、しばらくの間動くことが出来なかった。
分かっていたはずのこの時が、いきなり目の前に突きつけられてどうしていいのか混乱してしまう。
とにかく事務所に連絡を取って今日の大まかな指示をすると、倉橋はそのまま病院に駆けつけた。
時折、看護師が出入りするだけで、これといった変化の無い時間が刻々と過ぎていく。
中に入ることが出来ない2人にとってはもどかしいだけの時間だが、どうすることも出来なかった。
「真琴の父です」
そんな時、真琴の両親が病院に着いた。
時刻は正午を少し回った頃だった。
「どうでしょうか?」
さすがに心配そうに聞く父、和真とは違い、母、彩は腹を決めたという風に落ち着いていた。
「お父さん、もう後は待つことしか出来ないんだから」
「そうだけど・・・・・」
「海藤さんは中に?」
「は、はい」
「それなら大丈夫。一番側にいて欲しい人が付いてるんだから。あなた方、海藤さんの会社の方?急いでたからこんなものし
か作ってこられなかったんだけど、丁度お昼だし、食べてください」
彩が持ってきた紙袋の中には、一つ一つをラップに包んだお結びが数個入っていた。
形が大小様々なのは、さすがに母親も気がそぞろだったのだという証拠だろう。
「美味しそう!いただきます〜」
真琴の母親の愛情が嬉しくて、綾辻は早々に手を伸ばして齧りついた。中は梅干だ。
「おいし〜!」
「そう?ほら、そちらの方も」
「私は・・・・・」
「お産は病気じゃないんだから。それに、あなたの方が病人みたいに青白い顔してますよ」
「・・・・・すみません、いただきます」
「・・・・・真琴は幸せねえ。こんなに心配してくれる人が周りにいるんだから。ねえ、お父さん」
「うん、そうだね。これなら心配しなくても良さそうだ」
穏やかに笑うこの父親が、自分達の本当の生業を知っていることは海藤に聞いた。
その上で、こんなふうに言ってくれる事が、倉橋も綾辻も嬉しかった。
午後3時。
コーヒーを飲んでいた3人のもとへ、少し席を外していた彩が苦笑しながら戻ってきた。
「お兄ちゃん達まだかまだかって煩いの。真もこっちに来たいって言うのを宥めるのが大変」
「あ、今日は祭日ですものね」
綾辻の女言葉を少しも気にすることなく、彩は笑いながら頷いた。
「今朝も出てくるのが大変だったの。みんなマコのことになると煩くて。あんなんだから彼女が出来ないのよ」
「母さんが知らないだけかも知れないよ?」
「え〜?だったら紹介して欲しいわ」
多分、これが何時もと変わらない西原家の会話なのだろう。
側で聞いていた倉橋と綾辻は、まるで自分達もその家族の一員になったかのような気がして、思わず口元に笑みを浮かべてし
まった。
そして、綾辻は再び時計に目を落とす。
(もう17時間・・・・・マコちゃん、頑張れ・・・・・っ)
そして−。
午後6時を過ぎた時・・・・・。
・・・・・ッギャー、ンッギャー!
「!!」
微かに聞こえてきた泣き声に、いっせいに立ち上がった4人はじっと扉を見つめる。
随分長い時間が経ったような気がして・・・・・実際は十分ほどだったが・・・・・自動ドアが開き、中から全身白い除菌済みの防
護服姿(男の出産という特例の為、万全の服装として)の海藤が出てきた。
帽子とマスクの隙間から見える目は、今まで見せたことも無いほど穏やかで・・・・・。
「・・・・・社長・・・・・」
「保育器に入れる前に、一度だけ抱かせてもらった」
白い防護服の胸元と腕が、少しだけ赤く汚れているのはそのせいなのだろう。
「ど、どうでしたか?」
「頑張ってくれた。何も出来ない自分が、こんなに情けないと思ったことは無い」
「海藤さん」
声を掛けてきた真琴の父和真に、海藤はしっかりとした声で伝えた。
「男です。真琴も、子供も、大丈夫、元気です。そのままNICU(新生児集中治療室)に運ばれたので、今すぐ会って頂くこと
は出来ませんが・・・・・大丈夫です」
「そうか・・・・・おめでとう」
「・・・・・ありがとうございます」
海藤の声が、大きな感動と感謝と・・・・・そして、なによりの安堵で震えている。
そんな、自分よりも大きな海藤の肩をポンポンと叩く和真の目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
5月5日、午後6時10分。海藤ジュニア誕生。
20時間以上掛かって生まれた子は、1730グラムながら、しっかりと自分の声で泣く男の子だった。
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男の子誕生です〜!
マコちゃんの出産シーンは全然出ませんでしたが(笑)、待っている側のドキドキ感はありませんでしたか?
次には名前も披露出来ます。