マコママシリーズ
第四章 幼稚園入園編 16
幼稚園に入ってからの初めての夏休みは、貴央にとってもよい思い出がいっぱい詰まったものになった。
幼稚園の友達とたくさん遊んだし、プールも海も行った。
泳げなかった貴央は最初波打ち際で遊ぶばかりだったが、父に頼んで一生懸命泳ぐ練習をして、休みが終わる頃には10メ
ートル泳げるようになった。
本当は、もっと長く泳ぎたかったが、今の自分にはそれが精一杯だ。父も、綾辻や倉橋も褒めてくれたし、何より真琴が満面の
笑顔で喜んでくれたのがすごく嬉しかった。
「たかちゃん、今日は早く寝ないと、明日寝坊しちゃうぞ」
「は〜い」
(あしたから、またよーちえんだ)
夏休みの間も会っていたので、すごく寂しいということはなかったが、それでもまたあのグラウンドで、思いっきり走り回って遊
ぶことが出来る。
大好きな先生にも、ギュウッとしてもらえるのだ。
一番大好きなのは真琴。
その次は、お父さん。
その次も指折り数えると大切な人はいっぱいいるが、幼稚園で出会った人たちもその中にたくさん含まれる。
明日から、幼稚園。
どんな楽しいことが待っているのか、貴央はワクワクしながらベッドの中で目を閉じた。
「おはよー!」
「たかちゃん」
キッチンに立っていた真琴は、起こしに行かなくても自分で起きてきた貴央に目を細めた。
夏休みは少し生活が不規則になってしまい、どうしても朝寝坊や夜更かしをすることもあったが、幼稚園が始まる時間に合わせ
てちゃんと生活を元に戻そうとしていたのは、我が子ながらしっかりしているなと感心していた。
「おはよう、たかちゃん。ちゃんと起きれてえらいね」
「えらい?」
「うん」
「あのね、よーちえん、たのしみだったから!」
「そうなんだ」
春から通い始めた幼稚園が大好きな貴央。それは、先生や友達が好きだということもあるだろうが、やはり幼稚園という存在自
体が貴央にとって特別なものになったようだ。世界が広がったというのだろうか、それまでなかなか友達も作れなかった環境にい
た貴央は、一度に多くの友達を得た。
その上、毎日新しいことを教えてくれるのだ。ワクワクとドキドキが今だ持続しているという感じだった。
「えらいね」
屈みこんで何度も頭を撫でてやると、少し照れくさそうに笑っている。その顔を見ているとたまらなく可愛くなって、真琴はさらに
ギュウッと強く抱きしめてしまった。
「可愛い〜!」
「マ、マコ?」
毎日毎日、少しずつ成長していく貴央がとても可愛く、そして逞しく思えて、こうして日に何度も抱きしめてしまいたくなる。
「真琴」
そんな真琴に、背後から笑み交じりの声が掛かった。
「早く飯を食わせないと遅刻するぞ」
「あ!」
海藤の言葉に、真琴はハッと時計を見上げる。
「うわっ、もうこんな時間!」
夏休みが終わって初めての登校日、出来れば余裕を持って用意したいと思っていたのに、何時の間にか時間はギリギリになっ
てしまった。
「たかちゃんっ、お顔洗って来て!」
「貴央、一緒に行こう」
「うん」
貴央の世話は海藤に任せ、真琴は途中になってしまった朝食の準備を続ける。遅刻だけは絶対にさせられないと焦れば焦る
ほど小さな失敗は繰り返してしまったが、それでも何とか準備は出来そうだった。
こういう時、育児に積極的なパートナーの存在は大きい。
「今日の朝ご飯はおにぎりだからーっ」
真琴が叫ぶと、嬉しそうな歓声が返ってきた。後は味噌汁の味噌を入れるだけだと、真琴は冷蔵庫を開けた。
慌ただしい日々がまた始まった。
毎日のスケジュールは決まったものだが、それでも幼稚園での様々な行事が挟んでくればまた真琴にとって多忙な時間が続くこ
とになるだろう。
どんなことでも真琴に協力しようと決めている海藤だが、真琴の方が頼ってきてくれなければ次の一歩が踏み出せない。
こういう時の真琴は妙に頑固だからなと、海藤はふっと口元に苦笑を浮かべた。
「なんだか楽しそーですね」
不意に掛けられた声に顔を上げると、綾辻が楽しげな眼差しを向けてきていた。そういえば、報告に来ていたのだと、自身が手
に持つ書類を見て気がついた。
こんなふうに、仕事中に他のことを考えるなんてどうかしている。だが、そんな自分が嫌ではなかった。
「今朝、遅刻しそうになった」
「え?」
明確な出勤時間というものがない海藤に、遅刻という言葉は似合わない。そう思ったのか、僅かに首を傾げる綾辻に、海藤は言
葉が足りなかったかと今朝の話をした。
「真琴が貴央に構い過ぎてな」
「あら。じゃあ、やきもち焼いちゃいました?」
その光景が直ぐに頭に浮かんだのか、綾辻が楽しげに訊ねてくる。
「いや・・・・・幸せを実感していた」
「幸せ、ですか」
「家族の良さというやつかもな」
ヤクザという生業の自分が、こんなに穏やかで幸せな生活を手にすることが出来るとは想像もしていなかった。
もともと、人と人との繋がりというものを信じることはなく、自分の血が繋がった存在など絶対に愛することは出来ないと思ってい
たが・・・・・人というものは変われるのだ。
「そういえば、今月は社長の誕生日がありますね」
海藤の言葉を目を細めて聞いていた綾辻が、ふと今気づいたかのように言った。
「ああ、そうだな」
「たかちゃん、どんなプレゼントをくれるんでしょうね」
「何でも嬉しいが」
去年は、海藤の似顔絵をプレゼントしてくれた。大きな画用紙に1人だけ書いたものと、もう1枚は海藤と真琴、そして真ん中に
貴央がいる絵の2枚だ。
一生懸命クレヨンで描いてくれた絵。顔にはちゃんと目と鼻と口があったし、眼鏡も掛けていた。
海藤も、真琴も、貴央も、三人とも笑っていた絵で、見ている海藤の口もとにも柔らかな笑みが浮かんだ。
「だって、ひとりはさびしーもん」
優しい息子は、絵の中でも家族と一緒にいさせてくれた。その絵は海藤の書斎に、額縁に入れて飾っている。
それを見た時には、真琴もまるで自分のことのように喜んでいた。
「もう幼稚園に行ってるし、思いがけないものをくれるかもしれませんよ」
「そうだろうか」
どんなものでも嬉しいし、きっと感動するだろう。
(・・・・・真琴は知っているんだろうか?)
もしかしたら、2人共同で・・・・・ということもありうる。だとしたら、喜びはさらに二倍だ。
何でもない、ただ歳を一つ取るだけだった日が、貴央が生まれてから・・・・・いや、真琴と出会ってから、年々意味が増え、楽し
いものになってきた。
「役員、ですか」
始業式を終えた真琴は、貴央を迎えに行った時に加納に呼び止められた。
「ええ」
「えっと、俺は運動会の役員じゃないんですけど」
「それは十分わかってるけど」
1年間を通して、幼稚園には様々な行事がある。その一つ一つには決まった役員があって、それらは入園してしばらく経った保
護者会であらかじめ決められていた。
真琴ももちろんその時に自分の担当する役を決められたが、運動会の役員にはなっていなかった。
「俺と一緒にやるはずだったお父さんが、急に長期の出張が入ってね。もちろん、役員になってない父親を探すことは出来るだ
ろうけど、俺も気ごころが知れた相手がいいし」
「はあ・・・・・」
「午前中だけだし、昼には絶対に解放するから」
パシッと顔の前で手を合わせ、頭を下げる加納に、真琴はどうしようかと考えた。
(でも、こういうことって父兄が考えることなのか?)
月末の日曜日、幼稚園の秋の運動会が行われる。どうやら加納は午前中の用具の用意とライン引きをしなければならないら
しいが、一緒にするはずだった相手に不都合が出てしまったらしい。
前も同じように父兄の手が足りないということがあって協力するということがあったが、あの時は保育士である松田の方から話
があった。
今回は、父兄である加納からの申し出だ。人数のことまで気にするなど、加納はどうやら随分責任感が強いようだ。
「どうかな?」
「あの、同じ年長さんのクラスの父兄の方が・・・・・」
同じ学年の方がいいのではないだろうか。
「君がいい」
「加納さん」
しかし、加納は真琴の提案を即座に否定した。
「頼む」
「・・・・・ちょっと、考えさせてください」
出来れば、協力はしたかった。だが、午前中役員の仕事をするとなると、その間海藤は1人で貴央の競技を見、ビデオを撮っ
たり写真を撮ったりしなければならない。そうでなくても目立つ彼を1人にしていいのか考えてしまうし、イレギュラーな出来事は
何事も相談をした方がいい。
海藤のパートナーである自分がどういう存在なのか、真琴もさすがに自覚している。守ってくれている相手のことも考え、ここは
即答を避けることにした。
その夜、真琴は帰宅した海藤に加納の申し出を告げた。
「それは本当のことなのか?」
加納という人間を疑うつもりはないが、海藤としては園の人間以外からの申し出に引っ掛かりを覚えたらしい。もちろん真琴もそ
れは考えた。
「松田先生に聞くと、加納さんの言うことは本当らしいです。先生、出来ればしてもらいたいけど、前にも無理を聞いてもらった
から話をすることが出来なくてって」
「1人の父兄だけに負担を被せたくはないんです」
松田の言葉に、真琴は返って恐縮してしまった。
最近の家族は共働きが多く、母親もフルタイムで働いているという人の数も結構いるらしい。そんな中、身軽で、一応男としてカ
ウントされる自分が力になることが出来れば・・・・・真琴の気持ちはそんなふうに傾いていた。
「お前がいいなら」
「え・・・・・本当に?」
「もちろん、全部一緒に見たいというのが正直な気持ちだが、昼食からは身体が空くんだろう?午後の競技もあるだろうし、何
より断ったらお前の気持ちが沈みかねない」
「う・・・・・」
さすがに、海藤は自分の性格をよく知っている。
「・・・・・ありがとう」
思わず礼を言うと、海藤は苦笑をしながら抱きしめてくれた。
「俺も、手伝えることがあったらするつもりだから」
「頼りにしてます」
自分からも強くしがみつくと、テレビを見ていた貴央が何をしているのと駆け寄ってきた。仲間外れにしているわけではないよ
と、真琴はその身体を抱きしめる。3人でギュウギュウに抱きしめ合って、なんだか自然に笑いが零れた。
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お久しぶりのマコママ。
季節は二学期、もう直ぐ運動会です。