磨く牙



24






 一瞬、楓は何が起こったのか分からなかった。
急に重くなった伊崎の身体が覆いかぶさってきたのを呆然としたまま受け入れたが、耳元で聞こえる苦しそうな呻き声と荒
い息、そして密着している身体に熱く濡れる感触を感じて、楓は恐る恐る伊崎の身体に触れてみた。
 ぬるついた感触が手に感じる。
(見たくない・・・・・)
自分の手がどうして濡れたのか、楓は見るのが恐かった。
 ぎこちなく視線を巡らすと、部屋の敷居の辺りに中腰になっている麻生が見えた。その手に握られていたのは・・・・・。
(じゅ・・・・・う?)
僅かな硝煙の匂いが漂っている。
 「・・・・・きょう・・・・・すけ?」
 たった1人、頼りになる男の名前を呼んでみた。
 「・・・・・」
 「・・・・・きょうす・・・・・け・・・・・」
 「・・・・・」
 「恭祐・・・・・っ」
何度も何度も叫ぶが、伊崎の身体を揺するのは恐くて出来なかった。
 「麻生っ」
 友平が鋭く麻生の名を呼んだ。
いくら人払いをして金を握らせているとしても、こんな公共の場所で銃を発砲するのはかなりの失態だった。
 「・・・・・くっ」
(こいつ・・・・・わざと!)
 そして麻生も、引き金を引いた瞬間に、伊崎に嵌められた事に気付いた。
挑発するようなもの言いと態度は、麻生に何らかの行動を起こさせる為だったのだろう。
麻生は銃を内ポケットにしまうと、そのまま2人に近付いた。
しかし、その手が伊崎の身体に触れようとした時、それまでただ伊崎の名を呼ぶことしか出来なかった楓が猛然と抵抗した。
 「触るな!」
 「傷を見るだけだ」
 「嘘だ!もう一度恭祐を撃つ気だろう!そんなことはさせない!」
 楓は伊崎の身体を横にずらす。その目に、横腹を濡らす血が背広の上からでも分かった。
もうこのまま伊崎の目が開かないのではないかという恐怖を感じながら、楓は何としてでも伊崎を守る為にその内ポケットを
探る。
 「・・・・・ない?」
 「ないだとっ?」
 楓の言葉に麻生も友平も驚いたように目を見張った。たとえ、撃つつもりはなくても、伊崎が丸腰だとは思わなかった。
 「な・・・・・いです・・・・・よ」
 「恭祐っ?」
微かに聞こえてきた伊崎の声に、楓は反射的に視線を向けた。
そこには青褪めた顔色ながら、きちんと楓を見つめている伊崎の顔がある。
 「恭祐!」
 「楓さん・・・・・私は・・・・・大丈夫。急所では、ないはず・・・・・ですから」
 「だって、だって、恭祐、血、血が・・・・・っ」
楓が震える手を伊崎の腹部に触れさせると、伊崎は小さな呻き声を漏らして顔を歪めた。



 覚悟していたとはいえ、かなりの衝撃と熱い痛みが波のように襲ってきて、伊崎は失血の為にクラクラと気が遠くなりそうな
のを、唇を噛み締める事でかろうじて正気を保っていた。
 「恭祐!」
 伊崎以上に痛みを感じているような表情で自分を見つめている楓を見て、伊崎は不思議と懐かしい思いがする。
(楓さんは昔と少しも変わっていないな・・・・・)
伊崎が組長である雅治に怒鳴られている時、同級生の苛めから楓を庇っていた時、楓は何時も自分の身に痛みを受け
ているような顔をして伊崎を見つめていた。
口では我がまま放題なことを言っていても、楓は人一倍感受性の強い優しい子供だった。
それは成長した今でも少しも変わらず、今も自分が撃たれた様な痛みを身体に感じているのだろう。
 「麻生さん、丸腰の相手にぶっぱなすのは・・・・・あなたにとって、恥、じゃ・・・・・ないですか・・・・・?」
 「・・・・・俺が撃ったという証拠は?」
 「何を言ってるっ?」
 食って掛かろうとした楓の手を宥めるように握り締めると、伊崎は楓には見せたことのない凄みを含んだ笑みを浮かべた。
 「私が・・・・・何の策もとってない・・・・・と?」
 「何?」
 「この部屋に・・・・・隠しカメラを仕掛けてます・・・・・全て映像に残っている・・・・・」
 「まさかっ!私達がここに入る前、全て調べさせた!」
 「私の頭を・・・・・舐めないでください・・・・・。あんた達の部下が想像出来ないような・・・・・場所に、しかけました・・・・・。
別の場所で録画して・・・・・開成会の、海藤、会長に・・・・・渡す手筈に・・・・・なっています」
 「海藤に・・・・・」
 「ケジメ・・・・・つけて・・・・・もらいます・・・・・く・・・・・っ」
 もう、限界なのだろう。伊崎はそこまで言うと、ギュッと目を閉じて歯を食いしばっている。
伊崎の額に滲む脂汗を何度も自分のシャツの袖で拭っている楓を見ていた友平が、不意に立ち上がって近付いてくると、
伊崎の身体を危なげなく抱き上げた。
 「何を!」
 「うちの掛かり付けの医者に連れて行く。心配するな、もう何もしない。そうだな、麻生」
 「・・・・・ああ、俺の負けだ」