磨く牙
26
「いよいよ明日退院か」
「はい。長い間ご迷惑をお掛けしました」
「何を言ってる。お前は日向組の恩人だ」
「・・・・・もったいないです」
伊崎は頭を下げた。
入院して2週間。本来ならもう少し入院していなければならなかったが、伊崎の強引な押しきりによってかなり早めの退院
となった。
麻酔から目覚めた時、自分が白い部屋の中に寝かされているのに気付いた伊崎は、まず一番に楓の姿を捜した。
自分が倒れた後、まさかあの状況で楓に危害を加えられるとは思わなかったが、それでも無事な姿を目に映したかった。
「・・・・・」
(楓さん・・・・・)
透明なガラスの向こうに、真っ白い天使の姿の楓が立っていた。
それは白い帽子とマスク、そして白い防菌の白衣を着た楓の姿だ。
大きなマスクで顔の半分以上見えなかったが、最も表情が分かる目だけは見えた。
「・・・・・」
綺麗なその目からは、ポロポロと涙が流れている。
声を掛けたくても、口に付けられた酸素マスクが邪魔だった。涙をぬぐってやりたくても、何本もの点滴が邪魔をした。
何より身体が動かなかった。
(楓さん・・・・・)
翌日、雅治と雅行が連れ立ってやって来た。
「ありがとう」
「すまなかったな」
揃って頭を下げる2人に、酸素マスクは外れたものの、まだベットに寝たままの伊崎は静かに言った。
「もったいない言葉です・・・・・こんなにみっともないことになったのに・・・・・」
「何を言うっ?お前のおかげで、俺達は他に血を流すことも無く、向こうを退けることが出来たんだ」
「そうだ。それに、何より楓を守ってくれた。本当に、感謝している」
楓の無事が、子煩悩な雅治の、そしてブラコンである雅行の何より喜ぶことだった。
「皆見舞いに来たいと言ってたんだがな。身体に障るからと親父が一喝して止めたんだ。帰ったら煩いぞ」
「そうですか」
どこか昔ながらの任侠といった日向組は、よくも悪くもアットホームな組だ。雅治は組員達を本当の子供のように思ってい
るし、組員達も雅治を本当の親以上に大切に、そして尊敬している。
騒がしく、だからこそ落ち着く組のことを考えると、伊崎の頬にも笑みが浮かんだ。
「・・・・・」
しかし、伊崎にはずっと気に掛かることがあった。
「若」
「ん?何だ?」
「いえ・・・・・楓さんのことなんですが」
「ああ、楓か」
楓の名前を出した途端、厳つい雅行の顔が綻んだ。これは雅行だけでなく、雅治も他の組員達も、楓の事を考えると自
然に笑みが浮かんでくるのだ。
我がままで意地っ張りな、しかし優しくて度胸のある楓を、皆が愛している証拠だった。
「お前にも迷惑だろう、毎日押しかけて」
「え?」
「治るものも治らないと言い聞かせたんだが、あいつも頑固だしな。それに今回のお前の怪我の件では随分落ち込んで
いたし、長居をしないという条件で見舞いを許してたんだが・・・・・煩くなかったか?」
「・・・・・いえ」
「あいつも楽しみにしてたぞ、お前の退院」
雅行の言葉は途中から耳に入ってこなかった。
(楓さんがここに・・・・・?)
手術の直後、麻酔から目覚めた時、伊崎は楓の無事な姿を確認した。
しかし、それから今日まで、楓が病室を訪れることは無かったのだ。
恐怖と、驚愕と、様々な感情がまだ楓の中でうまく整理されていないのかと思って我慢していたが、伊崎は目を覚ましてい
る間ずっと、いや、眠っている時でさえ、楓が現われるのをずっと待っていたのだ。
(どこに行ってる・・・・・?)
家では伊崎の見舞いだと伝えている楓が、実際にどこに行っているのか。身体が動かないのを今ほど悔しく思ったことは
無かった。
自分の知らないところで、楓がまた危険な目に遭っているのではないかと想像するだけでも血が上ってしまう。
「まだしばらく通院が必要だろうが、やっと家に戻れるんだ」
「・・・・・はい」
「今日はもうゆっくり休んでいろ」
雅行が病室を出た途端に、伊崎はベットから起き上がった。
「つ・・・・・っ」
まだ抜糸の済んでいない傷口がズキズキと傷むが、我慢出来ないほどではない。それよりも伊崎は楓のことが心配だった。
「・・・・・っ」
個室なので、他の患者の目を気にする必要は無く、伊崎は痛みに眉を顰めながらも立ちあがった。
(着替えた方がいいか・・・・・)
この格好では簡単に病院を抜け出せないだろう。
私服に着替えようと窓辺のカーテンを閉めようとした時、
「・・・・・楓さん?」
病院の玄関に続く道を歩いてくる楓の姿が目に映った。
方向転換などせず、真っ直ぐ病院の中に入っていく楓の姿を上からじっと見つめながら、伊崎は不思議に思った。
確かに楓はこの病院に来ているようだが、この病室には姿を現わしていない。
いったい楓がどこに行っているのか、伊崎はそっと病室を抜け出した。
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