未来への胎動




10







 「組長・・・・・雅行さん、どうか話を聞いてください。その上で、どんなことをされようとも受ける覚悟でいます」
 伊崎の言葉に、激昂していた雅行の眼差しがその身を貫いた。
世襲を守ってきた日向組を、新しい段階へと推し進めていく雅行は、武闘派に見られる外見とは違って理性的な男だ。
今も、どんなにか湧き上る怒りを感じているのか想像も出来なかったが、それでも楓の腕を掴んでいた手を離し、伊崎の
直ぐ目の前に荒々しくだが腰を下ろした。
 「ありがとうございます」
 「礼などいらん」
 「兄さん!」
 「楓さん」
 乱暴に言い放つ雅行に楓は怒りをぶつけようとしたが、伊崎は穏やかにそれを押し止めた。
 「組長は、ここにも居たくないはずなんですよ」
 「・・・・・っ」
 「それを、私なんかの話を聞こうとして下さっている。本当に・・・・・ありがたく思っています」
このまま席を立つのは容易いことだ。
一切自分の話しに耳を傾けないまま、破門するという通達を出してしまえば自分はこの敷地内にも足を踏み入れること
など出来なくなってしまう。
 それなのにこうして立ち止まり、話を聞いてくれるだけでもかなりの譲歩だ。その雅行の気持ちを伊崎はとてもありがたい
と思い、楓にはこれ以上雅行と言い争いをして欲しくなかった。
きっと、雅行には楓の言葉の方が、自分のそれよりも深く胸に突き刺さるだろうと分かっているからだ。
 「組長」
伊崎は改めて頭を下げると、どうかお願いしますと、自分の思い全てを込めた声で言った。




 伊崎が目の前で頭を下げている。
それを見つめた後、雅行は傍にいる楓を見た。
 「・・・・・」
 どう見ても、恋情を込めた熱い眼差し。だが、昔は確かに、その目はただの憧れだったように思う。
本当の兄である自分を差し置いて、楓が伊崎にばかり甘えるのが悔しくて何度も文句を言ったが、頑固な楓は自分の
意志を曲げようとせず、伊崎も自分を立ててくれながらも楓のことは譲らなかった。
 そこにあった、歳の離れた兄弟のような愛情が、何時の間にか恋人としての感情に育っていったのか。
そして、伊崎がその一線を踏み越えたのは・・・・・男同士ということよりも、組の大切な子息に手を出す覚悟を何時した
のか、全く気付かなかった自分自身に腹が立った。
 「なぜだ」
 「・・・・・」
 「お前ほどのいい男だったら、どんな女も選び放題だろう。実際、うちのシマの女達も、お前に特別な感情を持っている
者が何人もいる」
 「え・・・・・」
 知らなかったのか、楓が思わずというように声を上げた。
 「お前は楓にべったりだからな。あまりいいことじゃないが、女よりも顔がいいと、こいつとお前を張り合う勇気が無いだけ
で、お前自身が手を伸ばせば直ぐに落ちてくる」
 「組長、それは・・・・・」
 「女を抱いたことが無いとは言わせんぞ。伊崎、どうして男のこいつを選んだ?」
きっと、楓が伊崎に迫ったのだろうとは思う。楓の伊崎への独占欲は半端ではなかった。しかし、それならばそれで、どうし
て拒絶をしてくれなかったのだと詰りたい。楓は高校生だ。幼い恋は、破れた時は悲しいかもしれないが、やがて忘れる
時が必ず来る。
 たとえ伊崎が楓を振ったとしても、自分は伊崎をこの日向組にとって必要な人間だと、手放すことは絶対に考えなかっ
たはずだ。
 「・・・・・初めて会った時から、彼に目を奪われました」
 「・・・・・」
 「確かに、始めはその容貌だったかもしれません。しかし、直ぐに私は楓さんの強い意志に惹かれた。特殊な家庭事情
のせいで、幼い頃から特別扱いされて、容姿に関しても、様々な邪な思いをぶつけられて・・・・・それでも、真っ直ぐに前
を見て立っている彼が綺麗だと思いました」
 「・・・・・」
 容姿だけではないのだ、伊崎はそう言っているのだろう。もちろん、そうでなければ門前払いもいいところだ。
 「何も知らず、真っ直ぐに私を慕ってくださった楓さんに、手を出したのは私の方です。年々美しくなっていく彼を誰にも
渡したくないと、私が力で彼を・・・・・」
 「・・・・・っ」
生々しい話に、雅行の握った拳が震える。
(やっぱり・・・・・寝てるのか・・・・・っ)
改めて言われると、頭の中でその姿を想像しそうで嫌だった。なまじ、楓の容貌が女以上なので、美丈夫の伊崎とそうい
う関係になっても気持ち悪いとは思えない・・・・・のが、嫌だ。
 「まだ未成年の楓さんと、そういう関係になったことを許してくれといっても許されないのは分かっています。ただ、彼が高
校を卒業する今、きちんと組長にご挨拶するべきだと思いました。どうか、どうか、私と楓さんのことを認めてください。必ず
彼を泣かすような真似はしません」
 自分よりも年上で、学歴もある男が頭を下げている。それが、自分の一番大切な弟のためだということに、雅行はどう
言葉を発していいのか分からなかった。




 楓は泣きそうだった。
いや、もう、視界は滲んできているので泣いていると思うが・・・・・伊崎がこんなにもはっきりと自分とのことを兄に伝えてく
れるとは思わなくて、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
(も・・・・・い、よ・・・・・っ)
 たとえ兄に認めてもらえなくても、楓の身も心も伊崎のものだ。彼とこのまま家を出る覚悟は出来ていると、楓は自分も
伊崎の隣に正座をすると頭を下げた。
 「兄さん、お願いします!俺と恭祐のことを認めてください!」
 覚悟は、出来ている。
しかし、出来れば大好きな兄との関係をここで絶ちたくはなかったし、日向組を好きだと言ってくれる彼を破門にはして欲
しくなかった。
これが、自分達の気持ちだけを押し付けているということは分かっているが・・・・・それでも・・・・・。
 「お願いっ、兄さん!」




 自分と同じように土下座をした楓が頭を下げている。
その相手が兄である雅行だとしても、伊崎は楓にそんな真似をさせてしまったことを申し訳なく思った。出来ればもっとスマ
ートに、雅行の気持ちを荒立たせないように事を運べば良かったかもしれないが、伊崎自身、早く楓とのことを雅行に認
めて欲しくて、段階を踏むことを忘れてしまったかもしれない。
 しかし、ここまで来たら、認めてもらうまで伊崎は頭を下げ続けるつもりだった。駄目だと反対されるということは考えたくな
い。
 「組長」
 「・・・・・」
 「兄さんっ」
 「・・・・・」
 自分と楓に責められるように名前を呼ばれても、雅行はなかなか言葉を発してくれなかった。
良いも悪いもなく、ただ膝の上で握り締めている拳が震えているのが見えて、何時また雅行の感情が爆発するだろうか、
その時は受け止めてみせると伊崎は覚悟をしていた。
 「・・・・・俺は、楓を大学に行かせて、普通の学生生活を経験させてやって・・・・・可愛い彼女を俺に紹介してくれる
のを待っていた」
 声を搾り出すように話し始めた雅行に、伊崎は拳を握り締めた。
 「兄さん・・・・・」
 「どんなに顔が綺麗でも、お前は男だ、楓。性格だって、俺よりも激しいことを知っているし、きっと・・・・・気性の激しい
お前が安らげるような、そんな子を・・・・・」
 「・・・・・」
 伊崎は唇を噛み締める。
雅行の気持ちが痛いほど胸に響くし、ここにいない楓の父、雅治も、きっと同じように思いながら楓を可愛がってきたはず
だ。
だからこそ、2人共、楓を出来るだけ組の仕事に係わらせないように、話もしないように大切に扱っていたのだ。
それほどに大切な楓を、自分のような彼よりも随分年上の男に汚され、奪われようとしていると思えば、どんなにか悔しく
辛いだろう。
 いや、こんな風に雅行の気持ちを分かっている風なことを思う自分は、かなり傲慢かもしれない。
楓が必ず自分を選んでくれると信じているからこそ、ここに、こうしているのだと思えば、やはりまだ殴られても仕方が無いよ
うに思えた。
 「楓・・・・・どうして伊崎だ?」
 「・・・・・」
 「・・・・・別れてくれ、頼む」
 「兄さんっ」
 悲鳴のような楓の言葉に伊崎がはっと目線を上げると、目の前では雅行が自分達に向かって頭を垂れている。組長と
しての矜持が高い雅行がここまでするとは、彼も必死なのだと痛切に感じた。
 「・・・・・っ」
 そして、伊崎はパッと楓を見る。
確かに自分を愛してくれている楓だが、それとは違った意味で家族を、雅行を愛している楓が、兄のこの姿を見てどう思
うのか。
 「・・・・・」
(楓さん・・・・・)
 楓は、雅行のその姿に呆然と目を見開き、震える唇を開いている。その心が揺れているのが分かったが、今の伊崎は
それを止めることは出来なかった。




 大好きで、強い兄の、弱々しい姿。
先程は凄まじい勢いで伊崎に手を上げた兄が、今目の前では自分達に向かって頭を下げている。
 「ご・・・・・」
(め・・・・・ごめん・・・・・)
 兄にこんな姿をさせてしまったのは、間違いなく自分と伊崎だ。申し訳なくて、悲しくて、それでも、伊崎を諦められない
自分がいて、楓は思わず手を伸ばすと、そのまま兄の太い首にしがみ付いていた。
 「ごめんなさい!」
 「楓・・・・・・」
 「ごめんなさいっ、兄さん!」
 この謝罪は、自分と伊崎の関係に対してではない。兄にこんな格好をさせてしまったことに対してで、雅行にここまでさせ
ても、楓はどうしても伊崎の手を離すことだけは出来なかった。
 「好きなんだ!」
 「・・・・・」
 「どうしてもっ、恭祐が欲しいんだ!」
 一生で一度、どうしても道を選ばなければならないとしたら、それはきっと今だと思う。楓は迷い無く伊崎の手を選び、こ
んなにも自分を思ってくれる兄の手を振りほどくしか出来ない。
きっと後悔するだろうし、この後ろめたさは一生残るかもしれないが、それでも楓はその選択を絶対後悔しないと誓う。
それこそが、兄に対しての自分達の誓いだ。
 「ごめん・・・・・っ」
 泣くまいと思いながらも、自然と声が震えてしまう。自分が泣いたら兄が困るだけだと分かっているのに、そんなことで兄
の意志を曲げさせるつもりは無いのに・・・・・そう思いながらも、広い胸に埋めた頬が濡れてしまった時、
 「・・・・・馬鹿、泣くな」
 「・・・・・っ」
少し困ったような声がして、大きな手が背中を抱きしめてくる。
 「お前が泣いたら、俺が・・・・・泣けない」
そう言った兄が強く抱きしめてきて、楓も必死で広い背中に手を回した。