未来への胎動












 「私と、楓さんのことです」
 「・・・・・」
 どう切り出すのが一番いいのか、今までも考えることがあった。
組長の大切な弟に、自分の子飼いの組員が・・・・・同性の、一回り以上も年上の男が、勝手に手を出した。
どんな言葉で飾っても許されることではないだろうが、それでも、自分達に・・・・・楓や雅行にとって一番良い方法を探そ
うと思っていたが、こうして雅行を目の前にするとそんな考えは全て消えてしまった。
自分の気持ちを真っ直ぐに伝える・・・・・それしか、無かった。
 「楓さんと・・・・・お付き合いさせていただいています」
 「・・・・・」
 伏せた目線の先、膝に置いた雅行の手が強く握り締められるのが見える。爆発しそうな感情を必死で抑えている様子
に、伊崎の畳につく指先にも力が込められた。
 「・・・・・付き合いってのは、どの程度だ?」
 「・・・・・」
 「手を繋いで、飯に行くくらいか?」
 「組長」
 「それとも、もっと深い関係か」
淡々とした口調の中に雅行の怒りが含まれているのを感じたが、伊崎はもう逃げるつもりはなかった。
 「・・・・・そう思ってくださっても、結構です」

 ガツッ

 激しい衝撃に、身体が畳に叩きつけられる。
口の中を歯で切ったのか血の味がしたが、このまま情けなく倒れていることは出来ないと、直ぐに起き上がろうと肘を使お
うとするが、その前に腰に雅行の巨体が圧し掛かった。
 「何勝手なことを言ってるんだ!!」
 「組・・・・・」
 「てめえの組の大事な人間に手を出す奴がいるかっ?」
大柄な雅行の大きな手が、ネクタイを掴んで持ち上げる。首が締め付けられて苦しくなったが、伊崎は苦痛の声を漏らさ
ないように必死で耐えた。
 「・・・・・」
 「伊崎、お前、それなりの覚悟があって言ってるんだろうな?」
 「は・・・・・い」
 「破門も覚悟しているんだな?」
 破門・・・・・それは、この世界にいる者にとっては死刑宣告とも言える言葉だった。
もちろん、それで雅行の気が済むのならば・・・・・そう思ったが、そう思うこと自体、自分の驕りかもしれない。どんなに殴ら
れようとも、床に這いつくばって惨めに懇願しても、自分はこの組に残りたい。家族のようなこの家に出来た自分の居場
所を失いたくは無かった。
 「い・・・・・や、です」
 「伊崎っ!」
 「どう、か、私達の関係を認めてください。若頭の地位は下されても、ただの、靴当番に落とされても、どうか、どうかこの
組に置いてくださいっ」
 「まだ言うか!!」
 グイッとネクタイごと上半身を起こされた伊崎は、

 ドスッ

重い拳が綺麗に腹に入り、思わず身体を丸めて蹲る。
格闘技全般に秀でた雅行の力は全く容赦なく、伊崎は情けないと思いながら一瞬気が遠くなってしまった。




 「遅い!」
 津山に言われたように髪を乾かし、そのまま部屋にいた楓は、一向に迎えに来てくれない伊崎に焦れてしまった。
一緒にとあれだけ言ったので自分だけを置いては行かないと思っていたが、もしかしたらこんな時だけ大人の判断をして、
自分を蚊帳の外に置いたのかもしれない。
 「・・・・・っ」
 そう思うと居たたまれなくなり、楓は先ず事務所へと向かった。
 「あ、あれ?楓さん?」
 「恭祐は?」
遅番をしていた組員は、突然パジャマ姿で現れた楓を驚いたように見つめたが、その口から零れた名前に納得したように
頷いた。
組の中では、今もって楓の子守は伊崎だという認識があるらしい。
 「若頭なら、さっき母屋の方に行かれましたよ」
 「母屋?」
(でも・・・・・俺の部屋には来なかった)
 「・・・・・兄さんは?」
 「組長はとっくに下がられましたが」
 「・・・・・馬鹿!」
 「えぇっ?」
 「お前じゃない!」
(馬鹿なのは恭祐だ!!)
 あんなにも頼んだのに、いざとなって自分だけが裁かれるために兄のもとに行ったのだ。
今頃2人はどんな話し合いをしているのか・・・・・想像するだけで頭の中が沸騰しそうで、楓はとにかく兄の部屋へと急い
だ。

 「兄さん!」
 母屋は自分の部屋は洋間にリフォームしてもらったが、他の部屋は未だに古い日本家屋だ。
組長とはいえ、母屋に戻れば日向家の長男という立場の兄の部屋は襖で、鍵も掛からない部屋なので、楓はノックもせ
ずに開け放った。
 「・・・・・いない」
 20代の独身男の部屋とは思えないほどの片付いた、渋い部屋。雑多な感じがする自分の部屋とはまるで違うが、こ
れも自分より遥かに忙しい兄が自ら掃除をしているのだから頭が下がる。
 「部屋じゃないのか・・・・・あっ、座敷!」
思い付いた場所にはとにかく行ってみなければと、楓は襖を閉めるのも忘れて踵を返した。




 何人かいるはずの見守りの組員の姿が1人も見えない。座敷に続く廊下をギシギシと音をたてながら早足に歩いてい
た楓の胸騒ぎは激しくなる。
そして、

 「暢気に寝てるんじゃねえっ、伊崎!!楓を傷物にした落とし前、指一本じゃすまねえぞ!!」

 「!」
初めて聞くような、兄の恫喝する声に、楓の足はビクッとその場で止まってしまった。
(に、兄さん・・・・・)
 どんな時でも、たとえ叱る時でも、楓に向かっては思いやりをもって接してくれている兄の、こんな激情を込めた荒々しい
声を聞くのは初めてのような気がして、楓は怖くて足が動かない。
兄に叱られてしまうという怖さよりも、切り捨てられるかもしれないという懼れの方が大きくて、覚悟をしていたはずなのに迷
いが急激に膨らんでしまった。
(あんなに怒ってるなんて・・・・・)
 離れていてもヒシヒシと感じる怖さを、伊崎は今全身に直接感じているのだろうか。
 「・・・・・っ」
楓は両手を握り締める。

 「どんな落とし前をつけようとも、私はこの日向組に残りたいと思っていますし、楓さんを諦めるつもりはありません!」

伊崎の叫びが、耳に、心に響いた。
その瞬間、楓は座敷に続く襖を開けて中に飛び込んでいた。




 内臓が抉られるような痛みに気が遠くなりかけた伊崎だったが、間をおかず襟元を掴まれて揺すられ、うっすらと目を開
いた。
初めて見るような怒りに燃えた雅行の眼差し。
 しかし、それは、それほどに雅行が楓を愛し、大切に思っているからだと、伊崎は理不尽な思いなど全く感じることは無
かった。
雅行ほどの腕力ならば、自分の歯が折れ、顎の骨が砕け、内臓が損傷されてもおかしくは無いのに、こうして意識を保
ち、話せるというのは、彼が手加減をしてくれているからだ。
 無意識か、それとも意識してかは分からないが、雅行の中ではまだ自分という存在が切り捨てられたわけではないらし
いことが感じ取れて嬉しくも思えた。
 そんな感情が僅かに表情に表れたのか、雅行が眉間の皺を深くして言い放った。
 「暢気に寝てるんじゃねえっ、伊崎!!楓を傷物にした落とし前、指一本じゃすまねえぞ!!」
もちろん、暢気にしているつもりではないと、伊崎も真っ直ぐに雅行を見返した。
 「どんな落とし前をつけようとも、私はこの日向組に残りたいと思っていますし、楓さんを諦めるつもりはありません!」
日向組を離れたくないという思い以上に、楓の手を離したくない。それだけは、たとえ半殺しの目に遭ったとしても譲れな
いという思いで言い返した伊崎は、

 「やめろよ!!」

 ガタッという音と共に開け放された襖の向こうに楓の姿を見て、思わずその名前を呟いてしまった。
 「楓、さん」
 「・・・・・楓」
雅行も楓の突然の登場に驚いたらしく、伊崎の襟元を掴んでいた手から少し力が抜ける。
 「・・・・・っ」
 憤然とした表情で中に入ってきた楓は、そんな雅行の手に細い指を掛けた。
 「これ、離して」
 「・・・・・駄目だ」
 「兄さん!」
 「お前は部屋に戻っていろ」
楓の剣幕に少しも引かずに雅行が言うと、楓も負けずに嫌だと言い返す。
 「これはっ、俺と恭祐2人のことだろ!俺にだって関係あることじゃん!」
 「未成年のお前に責任は無い。全て、伊崎が悪いんだ、引っ込んでろ」
 「兄さんってば!」
 「自分の歳を考えるんだ、楓。18のお前に、30もとうに過ぎた男が手を出した。それも、お前はこの日向組組長の弟
だ。楓、お前にも後で話がある、大人しく待ってろ」
 「やだ!」
 「楓!」
 自分の真上で繰り広げられる兄弟喧嘩に、伊崎はこんな時だが苦笑が零れた。
楓が自分と関係を持っているという事実を面と向かってつき付けた後でも、雅行の眼差しや声の中には嫌悪の響きも拒
絶の響きも全く無い。
 「何笑ってんだっ、恭祐!」
 「笑ってる場合かっ、伊崎!」
 そんな自分に気付いた日向家の兄弟が、ほぼ同時に怒鳴ってくる。
思わずすみませんと謝った伊崎は、楓との言い合いのせいで自分の身体の拘束を解いてしまった雅行に向かい、もう一
度正座をして頭を下げた。