未来への胎動




19







 「・・・・・バイク?」
 楓は伊崎に腕を掴まれたまま店から出た。
その直ぐ前の路上に無造作に止められていたのはバイクで、楓にも見覚えがあるものだ。
これを大切にして、休みごとに何時も磨いている人物が、いくら緊急事態としてもよく貸してくれたなと思ってしまう。
 「一刻も早く楓さんのもとに来るために、特別に貸して下さったんですよ」
 楓の眼差しに何が言いたいのか分かったのか、伊崎が静かに口を開いた。
 「勝手に家を抜け出してしまわれたこと、今の刑事のこと。色々お聞きしたいことがありますが、ここはまだ騒がしいようで
すから」
 「・・・・・」
まるでタイミングを合わせるかのように、目の前に車が滑り込んできた。運転席から降りて来たのは・・・・・津山だ。
 「・・・・・」
 「・・・・・ごめん」
 「いいえ、ご無事で良かったです」
 小さな声で謝った楓にそれ以上のことは言わず、津山はそのまま歩道へとやってくる。その津山に、伊崎が上着のポケッ
トから出した鍵を手渡した。
 「頼む」
 「はい」
 「恭祐?」
 このままバイクに乗って帰るのかと思っていた楓が怪訝そうに眉を顰めれば、メットが1つしかないのでという答えが返って
くる。確かに、バイクに掛けられているヘルメットは1つで、これだけ警察がウヨウヨといる中、ノーヘルで走るなど自殺行為
だろう。
 「楓さんとタンデムするのも楽しそうですが」
 「・・・・・」
(嘘ばっかり)
少しも笑っていない伊崎の横顔にそう確信するものの、言葉に出して言うのもおかしいと、楓は伊崎に背中を押されるま
まに助手席へと座る。
 一瞬だけ、津山に視線を向けたが、彼はずっと自分を見ていたようで直ぐに目が合って・・・・・少しだけ目を細める仕草
をした彼に、もう一度口の中でごめんと謝罪した。
 今回のことは自分の勝手でしたことだが、守役の津山は組長である兄から、それなりの叱責を受けてしまうだろう。それ
が形だけだとしても彼に落ち度は無いのにと思わずにはいられない。
(・・・・・くそっ)
 こうして迎えに来てもらわなければあの場を切り抜けることも出来なかったのか・・・・・楓は誰かにというよりも、自分自身
に猛烈に腹が立ち、誰かにあたることも出来なくて唇を噛み締めた。




 楓は何を思っているのだろうか?
黙って屋敷を抜け出し、牧村に会うところまでは何時もの脱走ごっこだっただろうが、そこに突発的に起こってしまった拳銃
強盗のせいで、浅間という刑事と再会することになってしまった。
 ヤクザに対して堂々とものを言う型破りなあの刑事は、初めて楓に会った時から様子が違っていた。
他の、楓の美貌に欲情を感じる男達とは違い、どこか綺麗で珍しいものを眺めているような感じではあったが、あの男の
中で楓という存在が特別なのだということは確かだ。
 係わって欲しくない相手に、こんな時に出会ってしまったのも運命かもしれないが、伊崎はあの時言った浅間の言葉に
自分自身も考えさせられてしまっている。

 「伊崎、何時までこの子を子供扱いする気だ?お前が一生囲って面倒を見るつもりがあるんなら、俺の今の言葉はい
い迷惑だったかもしれないがな」

(俺は、楓さんを子供扱いしていない)
 確かに、まだ幼かった頃の楓を、それこそ宝物のように大切に接してきたが、恋人同士という関係になってからは、ちゃん
と1人の独立した意志を持つ大人として接してきたつもりだった。
(・・・・・つもり、だった?)
 「・・・・・」
 もしかしたら、伊崎は自分でも気付かないうちに、楓のことを自分の腕の中に閉じ込めようとしていたのだろうか。
大学には行かない、組の仕事を手伝うと言った楓に、自分の意志で決めるようにと言いながら、自分の力が及ぶ範囲で
泳ぐ彼を見つめていようと思っていただけなのではないだろうか。
(ま・・・・・さか)
 そんなことは、ありえない。
そう思いながらも、伊崎は自分自身の信念に自信が無くなってしまった。




 車の中はあまりに静かだった。
静かで、大好きな伊崎がこんなに側にいるのに、自分が1人きりのような気がして寂しくて・・・・・だからこそ、楓は頭の中
で様々なことを考えていた。
(俺は・・・・・どうして大学に行きたくないと思ってるんだ?)
 それは、日向組の中で自分だけが仲間外れになってしまうような気がするからだ。
(兄さん達は、どうして俺を進学させたがっている・・・・・?)
自分が出来なかった普通の生活を、楓に代わって送らせたいと思ってくれたからだ。
 「・・・・・」
 今の自分がどうすればいいのか。
考えなければならないのは、皆のためのこれからだけではない。自分自身のためにも、何かをちゃんと考えなければならな
いのだ。
(もう、時間は無い・・・・・っ)




 「この、馬鹿!!」
 「・・・・・っ」
 家に戻ってきた楓を最初に出迎えたのは、玄関先で仁王立ちになっていた兄、雅行だった。
殴られはしなかったものの、かなり重い拳骨を頭上に落とされた楓は、少しだけ目に涙を滲ませながら、素直にごめんなさ
いと謝罪した。
 「・・・・・何も無かったか?」
 「う・・・・・ん」
 ちらっと、隣に立つ伊崎に視線を向けたが、彼は浅間のことを口にしない。
あんな場面で刑事と会っていたことを兄に報告しないというのも考えられないが・・・・・静かに口を開いた伊崎は、反対に
楓を庇ってくれた。
 「楓さんも反省されています。今日は許してあげてください」
 「・・・・・お前は、何時も楓に甘い」
 「組長」
 「・・・・・俺もだがな。・・・・・楓、とにかく今日はもう休め」
 「・・・・・うん、ごめんなさい」
 楓は頭を下げた。
そんな楓に頷いた雅行は、伊崎に向かって頷いてみせる。自分達の関係を知ってから、兄は出来るだけ2人だけにさせな
いようにとしているようだったが、今日は特別らしい。
 「・・・・・おやすみなさい、兄さん」
 「・・・・・お休み」
 多分、自分が今夜抜け出したことで他の組員にも迷惑を掛けたと思うが、今ここで謝罪しても皆が困るだろうと思うの
で、明日改めてごめんと言おうと思った。




 部屋の前まで送られると、伊崎はゆっくり休んでくださいと言った。
 「今日はもう、見張りはつけませんから」
言外に、信用しているのだということを伝えられ、楓は複雑そうに顔を歪める。その顔をしばらく見つめた伊崎は、一礼して
背を向けた。
 「あっ」
 反射的にその腕を掴むと、伊崎は振り向いた。
 「楓さん、今日は色々と疲れ・・・・・」
 「待って!」
 「・・・・・」
 「俺、ちょっと混乱しているんだ。自分で考えたこと、兄さんや恭祐から言われたこと、あの・・・・・嫌な刑事に言われたこ
と・・・・・全部ひっくるめて、色々考えてる」
 「・・・・・」
 「だから、結論が出たら、真っ先に恭祐に伝えたいんだ。お願い、このまま側にいて」
我が儘な頼みごとだというのは十分承知していた。勝手に逃げ出して、落ち込んで、怒って。子供丸出しの感情をさらけ
出した上に、不安だから側にいてくれと頼んでいる。
 きっと・・・・・伊崎は断らない。
優しいこの男が、何時だって自分の望みを叶えようとしてくれるのが分かった上で、楓はこの言葉を言う自分が一番嫌い
だ。それでも、言わずにはいられなかった。




 楓の言葉に、伊崎は直ぐに頷いた。
楓の中で何かが変わろうとしている時、その一瞬も見逃さずに見ていたいというのは伊崎の望みでもあるからだ。いや、む
しろ側にいたいと思う自分の気持ちを先に言ってくれた楓に感謝したかった。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 楓の部屋に入った伊崎は、そのままベッドに座る楓とは離れ、ドアに背を預ける形で立っていた。
綺麗な眉を少しだけ顰めるようにして、楓は自分の足元を見つめている。楓の頭の中では、今、様々な考えが渦巻いて
いるのだろう。
 出来れば、助けてやりたい。これ以上悩むことは無いのだと、自分が楓の代わりに決断してやりたい。
しかし、それをしたら、楓はこの先ずっと、この時の決断を後々まで悩むことになるかもしれない。あの時こうすれば、自分
が考えればと、ずっと後ろを振り向くことになるかもしれない。
(これは、楓さんが決めないといけない)
 この先後悔しないように、いや、例え後悔したとしても、また前に進めるように、伊崎はここで見守ることが、今自分の出
来る最良のことだと分かっていた。

 「・・・・・恭祐」
 しばらくして、楓が伊崎の名前を呼んだ。その声がしっかりとした響きなのを感じ取って、穏やかに返事を返した。
 「はい」
 「・・・・・俺のこと、好き?」
 「好きですよ」
 「・・・・・どのくらい?」
 「あなたが、私を想ってくださっている以上に」
その答えにようやく楓は顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。
 「そんなの、俺の方がすっごく好きなのに」
 「だから、そのあなたの気持ち以上です」
 楓は目を伏せ、ふふっと小さく声を出して笑い、やがて伊崎に向かってごめんと謝ってきた。
 「何だか、恭祐には迷惑掛けてばっかり」
 「それは、私が勝手にしていることですから」
 「・・・・・うん、ありがと」
そう言った楓は、ベッドから立ち上がり、ドアの前に立っている伊崎の前へと歩み寄ると、その目を真っ直ぐに見つめながら
言った。
 「・・・・・俺、さっきの刑事に、いい歳して、何時までそうやって守ってもらうつもりだって言われて、凄く悔しかった。俺はこ
うして自分の足で立っているのにって」
 「・・・・・」
 「でも、そう言われても仕方が無かったのかもしれない。現に、今日だってみんなに心配かけちゃって・・・・・凄く、恥ずか
しい」