未来への胎動












 まだ、夕方という時間にも早い頃だ。クラブも開いている所は無く、煩いゲームセンターに行く気にもなれない。
牧村はそれならと、ある喫茶店へと楓を連れて行った。
 「何だよ、ここ」
 「ファーストフードの店よりはいいだろ。ここ、店の雰囲気もいいし、コーヒーも紅茶も美味いんだ。常連客が多いから静
かなんだって。店が開く時間まで時間潰そうぜ」
 「・・・・・まずかったら出るぞ」
 楓も、不特定多数の人間がいる場所にいるのは嫌だと感じていたし、家に帰らないでいいのなら基本的にどこでも構
わなかった。
 少し住宅街に入った場所にあった喫茶店は、牧村の言う通りこじんまりと落ち着いた雰囲気で、店の中にも2人、サラ
リーマンらしき客がいる他は、静かなジャズの音が響くだけだった。
 「マスター、俺ブレンド。楓は?」
 「・・・・・ミルクティー」
 「あ、じゃあ、エスプレッソにしろよ、美味いから。津山さんは?」
 「私もブレンドで」
 「頼むよ」
 「分かった」
 柔和そうなマスターが笑いながら言い、サイホンを手にしている。作り置きではなく、注文してから作るという姿勢に少し
だけ楓の気分も浮上した。店の中にいるサラリーマン達の視線も感じないわけではないが、若い男達のぶしつけなものと
は違うので、まだ我慢は出来る。
 「お前らしくないじゃん、こんな店」
 「友達が教えてくれたんだよ」
 「どういう友達だか」
 きっと、年上の美人の恋人が教えたのだろう。この男の女遊びが激しいことは遊び仲間の楓も知っているので、呆れは
しても意外には思わなかった。
 「・・・・・?」
 その時、カチャカチャという、食器があたるような音が聞こえ、楓は顔を上げた。
丁度バイトらしい若い男がこちらに注文の品を運んでこようとしているのだが、どういうわけか緊張しているようだ。
(バイトのくせに、事務的に運ぶことも出来ないのか?)
 何時中身を零すかも分からないと眉を顰めた楓とは違い、直ぐに立ち上がった牧村が男の手からそれを取った。
 「ありがと、和沙ちゃん」
 「い、いえ」
 「後は俺がやるから」
 「す、すみませんっ」
深く頭を下げた男は、助かったというように小走りにカウンターの中に入っていく。まるで逃げたようにも見えるその姿に、楓
は何だあれと言った。
 「あれでもバイトか?」
 「まあまあ、楓があんまり綺麗だから緊張してるんだって」
 「・・・・・もっと意味が分からない」
 普通は男が男の顔を見て綺麗などと思う方がおかしい。もちろん、自分がそれなり以上の容姿をしていることに自覚は
あるが、今の男も少し線が細く、男にしては小奇麗だといえる容姿に思えた。
 そこまで考えた楓は、更に胡散臭そうに眉間に皺を寄せる。
 「・・・・・お前、もしかして狙ってんの?」
 「まさかあ、俺は男は楓一筋だって」
男はと前置きするところが牧村らしく、楓は思わずプッとふき出してしまった。




 津山は素早く店の掛け時計に視線を走らせた。
既に当初の帰宅時間からは2時間を越えている。もちろん、高校を卒業するというほどの歳の男に、明るい時間に帰れ
という方が無理だろうが、楓は普通の家庭環境ではないし、その容姿も飛びぬけている。
 兄の雅行も、伊崎も、そして自分も、楓には出来るだけ夜の街を歩いてはもらいたくなかった。
(後1時間ほどしたら連れ帰るか)
エスプレッソを飲んでいる楓の横顔は、学校を出た直後から見ると随分と柔らかくなっている。一見してとっつき難いほど
我が儘に見える楓だが、話して分からないほどに頭は固くないことを津山は知っていた。
 「なあ、楓」
 「ん〜」
 「お前、大学行かないのか?」
 「・・・・・」
 楓の頬が一瞬で強張ったのが分かった。
向かいに座る牧村も敏い男なので、楓の変化に気付かないということは無いだろう。それでも、牧村はそのまま話を続け
た。
 「受かってんだろ?お前、頭いいのに・・・・・」
 「・・・・・うちのこと、お前も知ってるだろ」
 「家のこととお前の進学のことは別だろう?何、オヤジさんや兄貴、反対してるわけ?」
 「・・・・・」
 反対はしていない。むしろ、絶対に行ってくれと毎日のように楓を説得しているくらいだが、その話を楓は何時も最後ま
で聞かなかった。
 津山も、大学にはいったが中退した。今となっては、この世界に入るために辞めたのか、それとも辞めたからこの世界に
入ったのか、その辺の記憶は曖昧になっている。それは、そんな過去の話よりも、今自分が楓といるという事実が大切だ
からだ。
前科者という立場でありながら、伊崎に抜擢されて日向組の宝とも言うべき楓の傍に付くことになった。当初は子供のお
守だと自嘲めいた思いが無かったとは言わないが、今ではこの立場を誰にも譲るつもりは無い。
もちろん、伊崎相手でも、だ。
(今、楓さんに一番近い存在だと自負しているからこそ知っていたい。楓さんが進学をしない本当の理由とはなんだ?)




(普段は人のことなんか気にもしないくせに)
 一向に話題を変えようとしない牧村に、楓は口の中で舌を打った。
さすがにそれが興味本位ではなく、自分のことを心配してくれているからだということも分かりきっていたからこそ、楓はこの
まま逆切れをして立ち上がることも出来ない。
 「・・・・・」
 「楓」
 「・・・・・」
 今自分が感じている気持ちを話したところで、分かってくれる人間はいるのだろうか?
(みんなと違うのが怖い・・・・・なんて)
大学院にまで通っていた伊崎は別格として、日向組に大卒者はいない。いや、任侠と言われた代々の日向組の組長
を頼って集まってきた者の中には、中学さえろくに通っていない者も多いくらいだ。
兄は、早い段階で父の跡を継ぐことを決め、大学進学など考えたこともないだろう。
(それでも、みんなちゃんと生きている。そりゃ、自慢出来るような生き方じゃないかもしれないけど、日向組を裏切ること
なんてしない)
 そうでなくても、金持ちの男子校に通わせてもらったのだ、どれ程のお金が掛かったのか、父も兄も何も言わないが、楓
はかなりの金額を想像していた。
 そんな中、自分だけ大学に進学したらどうだろう?
みんな、きっと自分の進学を喜んでくれるだろうが・・・・・その後、どういう目で自分を見るようになるだろうか。
 「楓」
 「・・・・・俺は、ヤクザの家の息子なんだ」
(大学なんか、行く必要ない)
 受験をしたのは、自分の今の学力を試すため。こんな程度かと、これから大学に入学しようとしている者達を見下して
やるためだ。
 「だから、それはっ」
 「俺は、兄さんの手伝いをするんだ。日向組をもっと大きくして、兄さんの立場だって今よりもずっと大きくしてみせる」
(組のみんなと、一緒に)
このまま自分が動かなければ、入学の受付期間は過ぎてしまう。今、この胸に感じている僅かな痛みも、その期間が過
ぎれば、きっと消えて無くなるはずだろう。




 「若頭」
 「・・・・・なんです」
 「坊ちゃんの迎えに行かれたらどうですか」
 まるで宥めるような声に顔を上げた伊崎は、そこにいる古株の組員の1人、渋井(しぶい)を見た。もう60歳に近い彼
は、今では相談役という立場になっていたが、今の組長である雅行のオムツも換えたというつわものの1人だった。
 「仕事中です」
 「若頭」
 「それに、彼には津山を付けています」
(楓さんの今の守役は・・・・・津山だ)
 渋井からは見えない机の下で、爪が食い込むほどに手の平を握り締めている自分は、いったい何をしているのか。
伊崎は引き攣るような笑みを浮かべてしまう。楓を守りたくて今の地位に就いたはずなのに、彼が一番悩んでいる時に傍
にいられないのなら意味など無い。
 「若頭の仕事ってーのは、組を守るんですよね?」
 「渋井さん?」
 「楓坊ちゃんは、日向組そのものだと、私は思うんですが」
 その言葉に、伊崎はあっと小さな声を漏らした。
言われて、初めてそれに気がついた。日向組にとって楓の存在がとても大きなものだということは分かっていたはずなのに、
それを真っ直ぐに見ようとしていなかったのかもしれない。
 「渋井さん・・・・・」
 自分よりも随分年上のこの組員の目は、自分のこのジレンマをどう見ただろうか。
(・・・・・気がついてる、よな)
自分と楓との関係を、多分この古参の組員は知っている。いや、この渋井だけではなく、年かさの組員達は、想いを隠さ
ない楓の目が誰を見ているのかは十分に分かっているだろうし、それまで階級に拘らなかった自分がいきなり若頭を襲名
した意味も、多分正確に捕らえているだろう。
(もう、隠していることは出来ないかもしれない)
 楓の父にも、そして、兄である組長の雅行にも、自分と楓の仲をはっきりと告げる時がきた。
 「若頭」
 「・・・・・後を頼んでもよろしいですか?」
 「早く帰ってくださいね。私も歳なんで、目が悪くなって書類を見るのが大変なんですよ」
 「直ぐに連れて帰りますから」
 「頼みますよ。フラフラしていたら、こっちが気になって仕方が無い」
本当の孫にように楓を大切に思っていることがよく分かる渋井の言葉に、伊崎も笑みを返した。

 事務所から出た伊崎は、直ぐに津山に電話を掛けた。
楓に掛けても、出て切られるどころか出てもくれないだろうし、それよりも今必ず楓の傍にいる津山に連絡を取った方が早
いだろう。
 『はい』
 数コールの後、津山が出た。
 「どこだ」
 『新宿です』
 「場所は」
 『・・・・・』
正確な居所を聞く伊崎に、迎えに来ることが分かったのだろう、津山は一瞬の沈黙の後、今の居場所を答える。
 「1時間以内に行く、そこから動くな」
 伊崎は津山の答えを聞く前に電話を切り、駐車場に向かって乗り慣れた自分の車の運転席に座る。こんな時に一々
組員に運転手をさせるつもりはなかった。