未来への胎動












 楓が怯えているのが分かる。
自分のことを好きだと言い、もっと見ていろと傲慢に言い放つくせに、いざ伊崎が積極的に行動をすると、どうしていいの
か分からないというように頼りない表情をする。
 もっと、自分に自信を持って欲しい。もちろん、容姿に自覚があり、堂々とした立ち振る舞いが出来ることは分かってい
るが、自分がどれだけ愛されているか、もっともっと、知っていて欲しかった。
(私の内心を知ったら・・・・・逃げ出すかもしれないが・・・・・)
 表面上は涼しい顔をし、迫ってくる楓を子供のようにあしらっている自分が、本当は場所など構わずに押し倒し、その
身体を押し開きたいと思っていると知ったら・・・・・いったい、楓はどうするだろうか?
もしかしたら、無防備に自分に身体を預けてくることは無くなってしまうかもしれない。
(それでも、少しはそれを見せなければ・・・・・。大人としての対応をしているだけでは、楓さんが余計に不安になってしま
うだけだ)

 「喉は渇きませんか?」
 「・・・・・」
 「昼は簡単にとったと聞きましたが、空腹ならばどこか店に・・・・・」
 「恭祐」
 ようやく、楓が返答を返してきた。
それに内心ホッとした伊崎は、なんですかと穏やかに聞き返す。
 「津山に罰は与えるな。今回のことは俺が勝手に振り回しただけだから」
顔はまだ窓の外に向けたままの楓が一気に言った言葉に、伊崎は直ぐに返事を返すことが出来なかった。
 「・・・・・」
(津山、か)
 開口一番に出てきた名前に、伊崎は面白くないものを感じた。
自分が選んで付けた楓の守役。前科があるものの、性格は冷静沈着で感情の浮き沈みがほとんどなく、頭も切れて、
腕っ節も悪くない。
 若頭という任務の自分が常に傍にいられないので、楓のために最良として選んだ男だが、今や自分の予想以上に楓
の心の一角に入り込んでいる。
 今更外すことも出来ず、自分と楓の関係を知っている津山が暴走するとも思わないが、楓の全てを独占したいと思っ
ている自分にとっては、その名前を聞いて反射的に苦い思いをするのは止められなかった。




(・・・・・答えない)
 楓は反応を返さない伊崎の顔を、ガラス越しに見つめた。
外の景色と重なってはっきりと見えないが、どうやら彼が怒っているらしいということは分かる。
(津山のこと、許さないのか?)
 楓だって、伊達に幼い頃から伊崎を見続けていない。無表情の綺麗な顔の中にある不快感を見つけることが出来る
のは自分だけだと自負している楓は、今回のことがよほど伊崎を怒らせているのだなと思った。
(でも、お前だって悪い。俺のこと、ずっと見てきたくせに、俺の気持ちを分かってくれない)
 だから、父や兄と一緒になって、自分に大学進学を勧めてくるのだ。
(俺だけを・・・・・仲間外れにしようとしてる・・・・・)
 「今回のことは」
 「・・・・・っ」
急に話し始めた伊崎に、楓はビクッと肩を揺らした。
 「津山には、組長から叱責があると思います」
 「どうしてっ?」
 パッと楓は振り向いたが、運転中だからか、伊崎は前を向いたまま言葉を続ける。
 「大事なご子息を危険に晒したからです」
 「危険って、俺は徹といただけで!」
 「・・・・・また、あのご友人とですか。楓さん、彼は相当な遊び人ですし、あまり良くない連中とも係わりがあります。在
学中はそれなりに拘束されているので見逃してきましたが、卒業を期に付き合いは止められた方がいいですね」
 「良くない連中って、俺の家もそれと変わらないじゃん。ヤクザより悪い連中なんているのかよ」
言ってから、しまったと思った。ハンドルを握っている手に力が込められたのが分かったこともあるが、楓にとって日向組の人
間は、父や兄も含めて悪い人間ではないと思っている。
世間から何を言われようと、たとえ実際に後ろ暗いことをしていたとしても、楓にとっては良き家族、仲間だった。
 そんな彼らを卑下してしまうようなことを言った唇をキュッと噛み締めたが、丁度信号で車を止めた伊崎は、手を伸ばし
てそっとその唇に触れてくる。
 「止めなさい、傷になる」
 「・・・・・っ」
 「今の言葉が楓さんの本心ではないことくらい分かっています。あなたがどんなに相談役や組長を、そして私達組員を
大切にしてくださっているか、皆ちゃんと分かっていますよ」
 「・・・・・恭祐っ」
 「私達には、やっぱり言葉が足りないようですね。楓さん、口をきかないという意地悪は止めて、今日は私と向き合って
話してください」
 その言葉に楓が答える前に車は再び動き出し、伊崎の眼差しは前方へと戻る。
(恭祐・・・・・)
楓は、ギアを握る伊崎の手の上に自分の手を重ねた。ギュッとそれを握り締めることで、素直に言えない謝罪を伝えるか
のように・・・・・。




 「着きましたよ」
 どのくらい車が走ったのかは実際に分からなかったが、楓は着いたその場所に伊崎を振り返った。
 「・・・・・どうして?」
途中から、車の外を流れる景色を見てまさかと思っていたが・・・・・。
 「お母様の前なら、少しは気持ちも楽になるでしょう?」
 「・・・・・」
身体の弱い母に愚痴や悩みなど言うことは出来ない。
今は会えない。
様々なことが頭の中で渦巻くが、伊崎に促されて車の外に出てしまうと、楓の足は自然と母の病室へと向かってしまう。
病弱ながら、まるでスポンジのように相手の全てを受け止め、吸収してくれる、優しくて穏やかで、綺麗な母。心配掛けて
はならないと進学のことは一言も話していないが、近いうちに退院して家に戻ってくるのなら、いずれは分かってしまうことだ
ろう。
(何て・・・・・言うだろ)
 まさか、泣いたりはしないだろうか。大学にはいって欲しいと、懇々と説得してくるだろうか。
 「・・・・・」
楓は伊崎のスーツを掴んで立ち止まった。
 「楓さん」
 「・・・・・帰ろう、恭祐。母さんに心配掛けられない」
 「それでも、いずれは分かってしまうことです。楓さん、あなたが自分で決めたことに確固たる信念を持っているのならば、
お母様にも堂々と話が出来るはずだと思いますが」
 「・・・・・っ」
 こういう時、伊崎は意地悪だと思う。そして、逃げ出したいと思っている自分が子供過ぎて嫌になる。
もちろん、進学を止めるということは、最終的には自分が決めたことだが・・・・・。
(母さんに向かって堂々と・・・・・)
言うことは出来るだろうか。

 病院というよりも療養所という雰囲気のそこには、楓も一ヶ月に2回は訪れていた。
まだ入院して半年ぐらいの母に、毎日同じ景色を見て退屈しないかと聞いたことがあったが、今から思えばあまりにも子
供の発言で、どんなに母が寂しい思いをしていたか、想像すると申し訳なく思ってしまった。
 誰だって、入院したくてするわけではない。待っている家族がいる者なら尚更、1日でも早く帰りたいと思うだろう。
気遣いの無かった自分の言葉を過去に戻って取り消すことは出来ないか、それに気付いた時に何度後悔したのか分か
らないほどだ。
 「あ、こんにちは」
 ナースステーションの前を通れば、顔見知りの看護師達が次々と声を掛けてくれる。
彼女達が好意的なのは、きっと自分の後ろにいる伊崎の存在のせいなのだろうが、悲しいかな、楓は反射的に天使の
笑顔になった。
 「こんにちは。母が何時もお世話になっています」




 「こんにちは。母が何時もお世話になっています」
 完璧な笑顔を浮かべて丁寧に頭を下げる楓に、言われた看護師達だけではなく、通り掛った患者や見舞客達も見惚
れているのが分かった。
 自分の母親が入院しているので、単なる愛想笑いよりもグレードアップした笑顔。どんな時でも完璧に微笑むのはもう
習慣なのかもしれないが、この笑顔に妄想をたくましくする者もいるかと思えば、出来れば余り笑って欲しくないと思う。
 「お母さん、お元気ですよ。今は中庭に散歩に行ってるんじゃないかしら」
 「そうですか、じゃあ、行ってみます」
 華奢な背中は真っ直ぐに目的の場所へと歩いていく。その姿を追う無数の視線を遮るように、伊崎は楓の後ろにピッタ
リと付いて歩いた。

 広い芝生の中庭。
経営者が資産家らしく、建物も庭も大きくて広い。
もちろん、それに比例して入院費も高く、その割には入院の希望者も多いのだが、余り裕福でない日向組の身内がここ
に入院出来たのは、ひとえに大東組の幹部達に可愛がられている楓の存在のおかげだった。
 楓の母親だということで随分格安の入院費だったが、夫で前組長の雅治も、現組長の雅行も、その待遇をよしとはせ
ず、1年後には普通に正規の入院費を納め始めた。
組の仕事に係わりだした雅治の事業が上手くいったせいもあるが、これはもう男としての意地だっただろう。
(確かに、そのせいで一ヶ月に一度、楓さんを宴席に呼ぶという条件なんてそうそう飲めないだろう)
 伊崎も、何も出来ない自分に忸怩たる思いを抱いたものだ。
 「あ」
過去のことを思い出していた伊崎は、楓の声に顔を上げた。
 「母さんっ」
 少し離れた大きな桜の木の下で、編み物をしている車椅子の女性の姿がある。楓の声に手を止め、顔を上げたその
人は、直ぐに柔らかな笑みを浮かべた。
 「楓」
 「・・・・・っ」
 楓は駆け寄り、その車椅子の前に膝を着くと、下からじっと母親の顔を見上げて言った。
 「元気そうだね、母さん」
 「今日は来れないと聞いたけど・・・・・会えて嬉しいわ」
 「う・・・・・ん、間に合わないかと思ったけど、恭祐が連れて来てくれた」
子供のように膝に頭を乗せて言う楓に笑いかけ、その眼差しが自分へと向けられる。
 「迷惑を掛けてしまったわね、伊崎さん」
 「いいえ、奥様」
 どんな相手にも(下っ端の組員達にも)きちんと『さん』付けで呼ぶ相手に、伊崎も静かに言葉を返した。
日向組前組長、雅治の妻で、組長の雅行と楓の母である椿(つばき)。40も半ばだが、楓に良く似た面差しはまだ十
二分に美しい。
かなり良い家の出身らしいが、ヤクザである雅治と結婚して縁を切られたらしい。
 一度だけ、楓が小学校3年生の時、見目も頭もいい楓を引き取りたいという実家からの使いを、椿がやんわりと追い
返したことは今でも覚えている。

 「家族というものは一緒に暮らすものでしょう?そして、一緒に暮らしている日向組の皆さんは、もう私の家族なんです」

その言葉が胸に重く響き、伊崎は、いや、日向組の組員達は皆、この椿がか弱く、美しいだけの存在ではないのだと思
い知った。