未来への胎動












 ここに来る前、全く見えなかった真っ暗な世界に、今は日の光が差し込んできている気がする。
(俺って・・・・・現金)
進学のことに決着がついたわけではないが、それでももう一つの懸念(こちらの方が大きい問題だった)がいくらか解決に向
かって前進したような気がする。
 母と、父や兄では性格も立場も違うことは分かっているが、それでも、大切な家族の1人に自分と伊崎の関係を言え
たことに、楓の気持ちは驚くほどに楽になっていた。
 「・・・・・上機嫌ですね」
 高速を走っている車の中で、伊崎が苦笑交じりに言う。
 「現金だと思ってるんだろ」
子供っぽいと言われたような気がして悔しくてそう言い返すものの、やはり楓の頬からは笑みは消えなかった。
 「いいえ、楓さんのそんな顔を見るのは嬉しいですから」
 「・・・・・」
 「本当ですよ」
 「・・・・・お前、俺の扱い方知ってるよなあ」
 「・・・・・」
 伊崎が笑った。彼の雰囲気も随分リラックスしているように感じる。
(今なら・・・・・言えるか、な)
進学について、今ならば素直に伊崎と話せるかもしれない。そう思った楓は、運転しているその横顔をチラッと見、また視
線を外した。
 「・・・・・」
 ただ、その手は勇気をもらうように、伊崎のスーツを握り締めている。
 「大学・・・・・行きたくないわけじゃないんだ」
 「・・・・・」
 「出来る時に勉強をした方がいいっていうの、よく分かっている。でも・・・・・それじゃあ、俺だけずっと甘やかされているよ
うで、なんか、嫌なんだ」
楓の言葉を、伊崎は遮らなかった。




 「うちの組、貧乏だろう?兄さんや恭祐が頑張ってくれているけど、面倒見ている奴らも多いし、上に上納する金だって
はした金じゃない。私立に通っていた俺の学費とか、母さんの入院費とか、多分、いっぱいいっぱいなんじゃないか?」
 「楓さん、それは」
 「みんなが俺に分からないようにしてくれるのは嬉しいけど、感じるだろ、一緒に暮らしてるんだからさ」
 「・・・・・」
(そう、だな・・・・・楓さんは頭がいい)
 子供だから分からないだろうという理由は、多分楓には通用しないだろう。
幼い頃から大人の中で育ってきた楓は、とても賢い。表面上の言葉や態度だけを見ていれば我が儘だと人は思うかもし
れないが、人の感情の機微にも敏感で、内面はとても繊細で優しい。
 雅治は可愛い末っ子に、雅行は歳の離れた弟に、それぞれ組の内情や台所事情を見せないようにしても、きっと自然
に気付いていたのだろう。
 「・・・・・」
(全て正直に、言うべきだった・・・・・)
 伊崎は後悔した。
子供だからと守ることだけを考えずにきちんと全てを話してやっていれば、長い間楓が自分の心の中で勝手に考え、結論
を出そうとすることは無かったかもしれない。
 「・・・・・俺だけ、甘やかされている」
(あなただから、甘えさせてやりたいだけなのに)
 「そんなの、嫌なんだ」
(そんな風に思わせたくなかったのに・・・・・)
 「・・・・・っ」
 「恭祐?」
 ここが高速道路だというのが悔しかった。いや・・・・・そう思った時には既に、伊崎は路肩へと車を寄せていた。
 「どうし・・・・・んっ」
そして、突然の自分の行動に驚いたように視線を向けてくる楓の身体を強引に抱き寄せ、そのまま唇を重ねた。キスとい
う軽いものではなく、既に愛撫といってもいい濃厚な口付け。
楓の無防備な口腔に素早く舌を差し入れた伊崎は、そのまま戸惑う楓の舌にそれを絡め、唾液を啜った。
 「んっく、んぅっ」
 「・・・・・っ」
 湧き上るこの想いに何と名前をつけていいのか分からない。ただ、伊崎は目の前の存在が愛しくて・・・・・愛しくてたまら
なくて、組み敷くことが出来ないことに苛立ちながら、甘い唇を味わうことしか考えられなかった。




 どのくらい、貪ったのか分からない。
何時の間にか伊崎の唇から解放された楓は熱い吐息を漏らし、しなやかで逞しい胸に頬を寄せながら伊崎にしがみ付
いていた。
 「・・・・・お前、ケダモノ」
 「・・・・・すみません」
 掠れた甘い声が直ぐ耳元に届く。それがくすぐったくて首をすくめた楓は、パンッと軽く伊崎の背中を叩いた。
 「謝るな。俺はその方が嬉しいんだから」
 「楓さん」
 「大人の対応をされるより・・・・・よっぽど、今のお前の方がいい」
優しくかわされるよりも、激しく奪われる方が愛されている実感がある。
伊崎の感情がどの時点で揺さぶられたのかは自分には分からないが、楓はもっと早くこうして抱きしめてくれたらよかったの
にと恨めしく思った。口をきけなかった数日間が今更ながら勿体無い。
(・・・・・でも、あれがあったから、恭祐も動いてくれたのかも)
 ギリギリまで追い詰めなければ、この自制心の強い男が焦ることなど無いかもしれないとも思え、それならまあいいかと
思って笑みを浮かべた。
 「・・・・・楓さん」
 「んー?」
 「戻ったら、組長に言います」
 「え?」
 「あなたと付き合っていると・・・・・あなたをいただくと、きちんと筋を通します」
 「きょ・・・・・すけ・・・・・」
 突然の伊崎の言葉に、楓は穏やになっていた自分の気持ちが、いきなり凍った気がした。
父や兄は、苦笑を零してしまうほどに自分を大切にし、愛してくれている。
そして、若頭として、伊崎のことを信頼し、長い間家族として付き合ってきた。
自分達に対し、それほどに優しい思いを抱いてくれている2人であっても、恋愛関係にあるといって許してもらえるとはとて
も思えなかった。
 罵声なら、まだ優しいかもしれない。もしかしたら指を詰めろというか・・・・・最悪、破門を口に出す可能性だってある。
自分の組の娘に手を出すことも大変なことなのに、それが男である楓なら・・・・・男同士の恋愛を、父や兄が受け入れる
はずが無いだろう。
 「きょ・・・・・」
 「決めました」
 「き、決めたって・・・・・」
 「どちらにせよ、あなたが高校を卒業したら、きちんと組長には話をするつもりでした。それが少しだけ早くなっただけです
よ」
 「・・・・・」
 「楓さんは嫌ですか?私とあなたが付き合っていることを、組長や相談役に知られてしまうことは」
 「・・・・・そ、な・・・・・」
 嫌であるはずがない。もちろん、誰彼構わずに言いふらすことはないと思うが、何時だって自分達の関係をきちんと認め
て欲しいという気持ちはあった。
長い間、父や兄にも秘密にしてきた自分達の関係。いずれは分かって欲しいと思ったものの、それが今のタイミングでとは
・・・・・進学のこともあっただけに、楓は当惑する気持ちの方が強いのだ。
 「楓さん」
 伊崎の指先が耳たぶをくすぐり、首をすくめた楓はそのまま再び伊崎の胸へと顔を埋める。
怖いと思っている気持ちは、何なのだろう。父や兄を悲しませてしまうことか、それとも、伊崎と自分が引き離されてしまう
かもしれない恐怖からか。
(その時になって怖いと思うなんて・・・・・情けないな、俺)




 その後、楓は話さなくなった。
しかし、少なくとも伊崎の決意を止めようとはしなかった。

 「・・・・・分かった」

ただ、それだけを言っただけだ。
 自分達の関係を告白しても、多分楓の方へ非難の矛先が向けられることはないだろうということは確信しているが、自
分と雅行の対立を見て楓がどう思うか・・・・・それを考えると躊躇いがないわけではない。それでも・・・・。
(どちらにせよ知られてしまうなら、きっちりと頭を下げさせてもらう)
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 先程の激情が去ってしまった車の中、再び動く窓の外に少し俯き加減に視線を向けていた楓は、不意に口の中で何
事かを呟いて顔を上げた。
 「楓さん」
 「決めた」
 「え?」
 「兄さんがお前を殴ったら、俺も殴ってもらう」
 「え?」
 何を言うのかと伊崎は思った。雅行が大切な楓に手を上げるなど考えられない。
第一、幾ら好きあっている者同士とはいえ、30を過ぎている自分とまだ高校生の楓では、どちらに非があるのかというの
は明白だ。
伊崎は、楓を誑かしたのは自分だと言うつもりだし、セックスという言葉を言うつもりは無いものの、手を出したのは自分が
強引にと言うつもりだった。全てを自分のせいにしてしまえばいい、そう思っていた。
(どうしてそんなことを・・・・・)




 伊崎が口を開こうとする、その一瞬前に楓は言葉を継いだ。
 「俺も、怖いよ。父さんや兄さんが、俺達のことを認めてくれないこともだけど、お前だけが非難の的にされるのを見るの
は・・・・・怖い」
 「楓さん」
 「幾ら俺達が真剣だって言ったって、男同士の恋愛を簡単に受け入れることは出来ないかもしれない。でも、恭祐、俺
はお前と離れることなんて考えてもいないから・・・・・だから、お前が受けるかもしれない非難は、俺も受けたいんだ」
殴られたとして、痛いのはいったいどちらだろう。
殴られるこちら側か、それとも殴るあちら側か。
 「だって、離れたくない」
 「・・・・・」
 「恭祐しか、いらないんだ」
 家族とは違う、愛しい人。もしも認めてもらえなくても、楓は伊崎の手を離すつもりなんてない。
(進学の前に、こっちの方が先になっちゃったけど・・・・・)
 「・・・・・共同責任だよ、恭祐」
恋愛は均等な想いばかりではないかもしれない。ただ、楓はその一端でも自分が背負いたい・・・・・そう思った。