未来への胎動












 夕食の時間をとっくに過ぎていたが、日向組の誰もが仕度をされた食事に手を付けなかった。
いや、今週の食事当番の組員達さえ、そわそわと落ち着きなく、何度も味付けを間違えてやり直していたくらいだ。
 「雅行、楓はまだか?」
 「さっき電話があったよ。後10分か15分くらいで帰ってくるんじゃないか?」
 「まったく、母さんの所に行くなら言ってくれたら・・・・・」
 ブツブツと小さな声で文句を言いながら、落ち着き無く座敷の中をうろついている父を呆れたように見るものの、雅行は
自分も貧乏揺すりを止められなかった。
 何時もの予定とは違う行動をした楓の居所が分かり、傍には伊崎も付いているということで取りあえずは一安心したも
のの、自分達がこんなにも楓のことを心配するのはただの親馬鹿、兄馬鹿という理由だけではなかった。




 母親譲りの美貌のせいで、幼い頃から何度も誘拐をされかけ、大人になってからは、明らかに欲望の対象として見ら
れ、狙われている楓。
 雅行は幼い頃から、歳の離れた弟が可愛くて仕方が無かった。
父親似の自分とは違い、母に良く似た容貌。いや、大人しい母とは違う激しい性格の楓は、その美貌も大輪の華のよ
うに鮮やかだった。

 「おにいちゃん、だいすき!」

 ぽちゃぽちゃの柔らかな手で、必死に自分に抱き付いてきた、人形のような弟。
兄弟のいる友人が羨ましくて、弟が出来た時は嬉しくて眠れないほどだった。
 天使のように愛らしかった赤ん坊は、年々その愛らしさを増していき、友人達はこぞって遊びに来たがった。
始めは自慢に思ってどこにでも楓を連れて行っていたが、楓が幼稚園の時、たまたま友人と出くわして立ち話をしていた
自分の鼻先で若い男に手を掴まれて攫われそうになり、雅行は自分の激情で記憶が無くなってしまうほどに相手を痛め
つけた。
 警察沙汰にもなってしまったが、雅行がまだ未成年で、相手が誘拐をしようとした変質者だということで厳重注意で解
放されたが、その時も警官がしみじみと、泣きべそをかいて雅行にしがみ付いている楓を見て、
 「将来が心配だな」
と、言っていたのが、脳裏のどこかに植えつけられた。

 それからしばらくして伊崎がやってきて、楓の世話係りになった。
女のように綺麗な顔をした、頭のいい男。最初はどうしてこんな男がヤクザな世界に飛び込んできたのかと不思議に思っ
たが、その目がどこを向いているのかに気がついた時、雅行は全てが分かったような気がした。
 この男も他の奴らと同じだと、この世界に入って間もなくでいきがっていた雅行は楓と引き離そうとしたが、

 「お兄ちゃんっ、嫌い!オレ、きょーすけの方が好きだもん!」

そう、強烈な一言と共に蹴りを入れられてしまい、母がどんなに宥めても、それから数日口もきかず、目も合わせてもくれ
なかった。
 悔しかった。楓の兄は自分だとどんなに言っても、楓は伊崎の傍をくっ付いて回った。
それでも、伊崎は、そのことを鼻には掛けず、何時も自分を立ててくれて・・・・・それに、変な男達とは違い、本当に楓の
ことを大切に思ってくれていることが感じ取れて、雅行は何時しか2人が一緒にいることを気持ちの中で認めていた。




 あれからずっと、2人は一緒にいる。
小学生だった楓はもう高校を卒業する歳になり、伊崎も単なる世話係から若頭にまでなった。
 「・・・・・」

 『組長、戻りましたらお時間いただけますか』

その言葉が何を意味しているのか、雅行は多分分かっていると思う。それでも、簡単に受け入れることは出来ないだろう
し、もしかしたら楓が泣いてしまうことをしてしまうかもしれない。
(また・・・・・嫌われるかもしれないな・・・・・)

 「お兄ちゃんっ、嫌い!オレ、きょーすけの方が好きだもん!」

また、こんな言葉を投げつけられてしまったら・・・・・それでも、雅行にとっては譲れないものもあって、様々なことを頭の中
で考えていた時、
 「組長っ、楓さんと若頭が戻られました!」
 「・・・・・」
 響いた声に、おおっと父が早足で玄関に向かう後ろ姿を見送ってから、雅行はゆっくりと立ち上がって自分も2人を迎え
るために歩き出した。




 「楓!」
 大きな父の身体に抱きこまれた楓は、その勢いに一瞬よろけてしまいそうになった。それでも、しっかりと抱きしめている
父の腕は解かれず、無事で良かったと耳元で訴えられる。
 「心配したぞ」
 「・・・・・ごめん」
自分も父の背中に手を回しながら、楓は本当に申し訳ない気持ちで謝った。
自分では軽い気持ちで取った行動でも、今までの様々な出来事があったせいで皆に心配を掛けてしまったことを後悔す
る。
 「楓」
 「・・・・・兄さん」
 父の後ろでは、兄が強面の顔の眉を下げて立っていた。
 「ごめん、俺・・・・・」
 「・・・・・早く上がれ。みんな、お前が帰ってくるまで飯も食えなかった」
 「え・・・・・」
思わず組員達に視線を向けた楓に、兄はそれからと眼差しを自分の後ろに向ける。
 「伊崎」
 「はい」
 「飯を食った後でいいだろ」
 「・・・・・はい」
 「・・・・・」
2人の眼差しが、まるで敵対しているように互いを見ているような気がした。
これから伊崎が自分との関係を兄と父に告白する。その後も、こんな風に皆と一緒に食事を取れるだろうか・・・・・そんな
ことがふと気になって、楓は俯いて唇を噛み締めた。
(受け入れてもらえなくっても・・・・・俺は、絶対に恭祐の手を離さない)
 犠牲にするのなら、伊崎では無く他の全てだ。それほどに自分にとって伊崎の存在は大きいのだと、楓は兄が分かってく
れることを祈った。




 雅行の言葉通り、組員達は楓のことを心配してくれていたようだ。
最近の不穏な雰囲気もあり、もしかしてと悪い方に考えていたのかもしれないが、こうして楓が帰ってきて皆で揃って食
事を始めると、組員達の顔には次第に笑みが戻ってきた。
 今時、こんな風に組全員で食事をするところなどほとんどないだろう。前時代的だと陰口をたたかれることもあるが、雅
行はその方針を改める気はないようだし、伊崎もこれが日向組のやり方だと思っていた。
 「母さんはどうだった?元気だったか?」
 「うん、調子良さそうだった」
 「そうか」
 「今度一緒に行こうね、父さん」
 「ああ」
 にっこりと笑って言った楓に、雅治が目尻を下げて頷いている。
鬼と恐れられた雅治も、楓にだけは弱い。それは日向組の人間ならば皆知っていることで、それが普通だと思っているの
だ。いや、楓に笑顔を向けられたら、皆同じような表情になるだろうが。
 「・・・・・」
 組に大事にされている楓。
雅行や雅治に、大切に大切に、守られている楓。
彼らから楓を奪うというつもりは無いが、どうか自分達が手を取り合うことを認めてくれたら・・・・・伊崎はそう思いながら箸
を口に運んだ。




 「風呂に入ってさっぱりしてきてください」

 食事が済むと早々に伊崎に言われてしまった楓は、今回迷惑を掛けたこともあって言う通りにした。
(恭祐・・・・・何時になったら言うんだろ)
その場には絶対に自分もいたいと思っていたが、そのタイミングを伊崎が教えてくれないことにはどうしようもない。
 「ふう〜」
 濡れた髪を拭いながら、一応事務所に顔を出そうかと母屋から出ようとした楓は、そこに津山の姿を見つけた。
 「津山!」
あれから・・・・・伊崎が迎えに来てくれてから、そのまま津山と別れてしまったきりで、食事の時もろくに話が出来なかった。
振り回して悪かったと謝ろうと思ったが、津山は楓が切り出す前に、楓さんと名前を呼んだ。
 「私のことは気遣われないで下さい」
 「え・・・・・」
 「私は守役です。あなたは自由にしていてくれていいんですよ、それを守るのが役目ですから」
 「津山・・・・・」
 津山は手を伸ばし、楓が肩に掛けていたタオルを取って、雫がたれている髪を丁寧に拭ってくれる。細く、長い指が時
折耳や首筋に触れて・・・・・楓は、トクトクと、少しだけ鼓動が早くなったような気がした。
 「風邪をひきますよ。動き回られる前に乾かして下さい」




 「伊崎です」
 「入れ」
 母屋の座敷の中は静まり返っている。
失礼しますと断って襖を開けた伊崎は、床の間を背に座っている雅行に深く一礼をしてから中に入った。そこには雅行と
向かい合う形で座布団が置かれていたが、もちろん伊崎はそれに座ることなく、横にずらして畳の上に正座をする。
雅行は視線を逸らさず、伊崎も・・・・・逸らさなかった。
 「親父は先に休んでもらった。お前の話は先ず俺が先に聞いた方がいいだろうしな」
 「・・・・・はい」
 「楓はどうした」
 「・・・・・呼んではいません。・・・・・泣かれたら、どうしていいのか分からなくなるので」
 どういった意味を感じ取ったのか、雅行は眉を顰めた。しかし、直ぐに表情を改める。
 「皆下がらせている。ここにいるのは俺だけだ」
 「組長」
 「改まってと言うほどのことだ、伊崎、言ってみろ」
その言葉を聞いて、伊崎は額を畳につけるほどに下げた。今日、楓の母である椿にも見せた土下座。もちろん、あの時も
緊張したが、今この瞬間の方が、伊崎にとっては真剣勝負だった。