啼く籠の鳥



                                                                   
中編






 響が豆を挽いてから入れてくれたコーヒーの香りを楽しんだ小篠は、まるで叱られるのを待っているかのように固まっている響
を見て苦笑を零した。
 「もう直ぐ卒業式だな。早かったなあ」
 「・・・・・」
 「・・・・・やっぱり、あいつと何かあったのか?」



 卒業式まで後3日。
既に学校に行くこともない響は家にいたので、こうして訪ねてきてくれた小篠に会うことが出来た。
いや・・・・・。
(心配、掛けてるんだよな)
 「響ちゃん」
 「あの・・・・・久佳さんは、会社にちゃんと行ってますか?」
 「やっぱり帰ってないか」
 「・・・・・」
 「鬼のように仕事してるよ。みんな怖がって、俺に泣き付いてくる」
 「・・・・・」
(良かった、ちゃんと会社には行ってるんだ・・・・・)



 激情の上のセックスが終わった後、夜明け前に目が覚めた響は自分が何時ものベットに寝かされていることに気が付いた。
身体も綺麗に拭われ、きちんとパジャマを着せられていたが、身体の節々に残る荒淫の上の疼くような痛みと、身体中に残
る口付けや噛み跡が、あれは夢ではなかったのだと教えてくれた。
しかし、部屋には西園寺の姿はなく、よろよろと起き出して向かったリビングにもおらず、結局この家の中に西園寺がいないと
分かるまでしばらく、響はその姿を捜し続けてしまった。
 それから既に4日。
今だに、西園寺は帰って来なかった。
 「どこにいるのか知らなかった?」
 「・・・・・会社には、電話・・・・・してないから」
響らしい気遣いに苦笑を零した小篠は、率直に聞いてきた。
 「就職するんだって?」
 「・・・・・はい」
 「もっと早く言ってやれば良かったのに」
西園寺がどれだけ響のことを想っているのか、彼の一番傍にいる小篠は良く知っているのだろう。
2人のそんな結び付きを羨ましく思う響だったが、今回に限っては間に立ってくれる小篠を頼るしかなかった。
 「言おうと、思ったんです」
 「・・・・・」
 「何度も言おうと思って、それでも大学を受験したのは、僕の中にも迷いがあったからかもしれません」
 「響ちゃん」
 「就職先の会社にも、最初は大学を受験するからって、学校の先生と一緒に断わりにも行きました」
 響側の事情もきちんと分かってくれた担当者は、大学に行けるのならば行ったほうがいいとまで言ってくれた。
しかし、響の方は、相手がそう言ってくれればくれるほどに、胸の奥にポツンと黒い染みのようなものが広がっていったのだ。
 「始めは・・・・・久佳さんの所から早く独立したくて、それにはちゃんと就職しなきゃって思って探したところだったんです」
それが、いざ西園寺と恋人同士になったからといって、その話を簡単に蹴っていいのかと思い始めた。
 「それから、かなり頻繁にその会社に行きました。僕は部活もバイトもしていないから時間だけはあったし、色々説明を聞い
て、施設も見せてもらって・・・・・」
 「・・・・・福祉関係だっけ?」
 「はい。でも、色んな仕事が複合してあるんです。児童書の出版とか、保育所とか、子育て相談とか、児童館の経営とか。
どちらかというと公務員みたいな仕事ですよね」
 「子供関係か。当たればでかいかもな」
経営者の顔で言う小篠に、響は思わず苦笑を漏らした。
自分にとっては子供は可愛いとか、喜ばれる仕事は遣り甲斐がありそうだという思いが先にたつが、やはり会社を経営してい
る側は利益のことも考えるのだろう。
 「そこの会長さんと、僕の担任の先生が縁戚関係で、本来は募集していなかったところに割り込ませてもらってたんです」
 「・・・・・」
 「大学を卒業したらぜひおいでって、その時の状況があるけど、出来るだけ一緒に働けるようにって・・・・・僕、僕でも誰かの
役に立つのかなって・・・・・その時、多分ちゃんとその仕事に向き合ったんだと思います」
 「それで決めたのか?」
 「働きたいって、思いました」
 「大学を蹴ってでも?」
 「大学は、もっと自分に余裕が出来てからでも、頑張ってもう一度挑戦しようと思ってます。でも、この仕事は、今見送った
ら次は僕の入る場所が無くなってしまうかもしれない」



 「・・・・・」
 小篠は大きな溜め息を付いた。
(こりゃ、決心は固いな)
時間が経てば解決するだろう・・・・・暢気にそう思っていた小篠は、西園寺の無言の圧力の為に今日ここまで来た。
素直な響を口先で丸め込むことなど簡単だと思っていたが、思った以上に響の思いは強いようだ。
 仕事の内容も悪いものではない。
去年響の就職の話を聞いた時、既に会社のことは一通り調べてあった。
飛び抜けた利益を出しているわけではなく、ほとんど赤字にならないくらいの利益率というところだったが、昨今の少子化で子
供1人1人に手間暇を掛けるこの時代、開拓次第ではかなり有益な業種になるかもしれないと思った。
何より、家族に愛されて育ってきた響にはよく似合う仕事かもしれないと思ったが・・・・・。
(許すわけないよな)
 あれ程響に執着している西園寺が、高校を卒業して直ぐに働かせるなどということを響にさせるはずがない。
何より、自分の傍から飛び立たせる気など毛頭ないだろう。
 「響ちゃん」
 「久佳さん、怒ってるんですよね」
 「まあ、そうだな」
 「僕の顔なんて見たくないと思ってるのかな・・・・・」
 「・・・・・」
(そんなことは有り得ないだろうけど)
 今でも、直ぐにでも家に戻りたいところを、響が改心するまではと意地を張っているのだ。
しかし、このままではせっかくの響の卒業式に出られない羽目になりかねない。
 「辛いとこだな」
 「え?」
 「あいつも、響ちゃんも」
 「小篠さん・・・・・」
 「今の話を聞けば、全面的にあいつの味方にはなれないけど、だからと言ってこれ程君の事を想っているあいつの思いを踏
みにじることは出来ない。・・・・・仕方ないな、俺の出る幕はないみたいだ」
 「・・・・・」
 「とにかく、あいつは今日にでも帰らせる。もう一度良く話し合ってごらん。君が本気で決心したことなら、あいつも理由もなく
反対はしないはずだ」
(感情では・・・・・分からないが)
恋する男に理屈など通じないことは分かっているが、それでも話して分からない男ではない・・・・・そう思いたかった。



 「お、お帰りなさい」
 「・・・・・ああ」
 小篠の言葉通り、午後10時を過ぎた頃に、ようやく西園寺が姿を現せた。
その疲れたような表情に、自分がそうさせているのだと思うと響の胸が痛んだ。
 「あ、あの、小篠さんが昼間・・・・・」
 「断りの連絡はしたのか?」
 「え?」
 「就職を断る電話だ」
 「ひ、久佳さん?」
 「大学には行くことはない。お前はここで俺の帰りを待っていればいい」
 「・・・・・」
まるでイエス以外の返事は聞かないというような、決め付けた西園寺の言葉。取り付く隙のないその横顔を見ている響の視
界が僅かに歪んだ。
(泣・・・・・くな)
ここで泣いて訴えても、それは西園寺の情を利用しているだけで、本当の意味での納得にはならない。
響は唇を噛み締め、真っ直ぐに西園寺を見つめた。
 「・・・・・響」
 「ひ・・・・・さよし、さ・・・・・」
 「反論は許さない」
 冷たく言い放つその言葉は、西園寺の頑なな思いを表わしている。
しかし、響にはそれが西園寺の悲鳴のように聞こえた。
(僕が、全部悪いんだ)
 西園寺の愛情を疑って、自分自身の存在を見失って、勝手に進路を決めた過去の自分。
思い掛けなく西園寺の愛を受け、とても幸せなはずなのに、それでも自分の生き甲斐を求めてしまった。
西園寺の愛情に胡坐をかき、話せば分かってくれるだろうと思いながら、それでも迷ってこんなにギリギリになるまで西園寺に
話すことが出来なかった自分が・・・・・一番悪い。
 「・・・・・ごめんなさい」
 「・・・・・」
 「ごめんなさい、久佳さん」
 何度も繰り返し謝罪する響に、西園寺はゆっくりと視線を向けてくる。
 「何を謝る」
 「ちゃんと説明しなかった僕が悪かったから・・・・・久佳さんに、そんなに苦しい表情をさせて・・・・・ごめんなさい」
 「・・・・・」
ゆっくりと西園寺が歩み寄り、響の顔を覗き込んできた。
 「謝ったという事は、進路を変更するのか?」
 「・・・・・ううん」
 「響!」
 「お願い、僕の話も聞いて下さいっ」
自分自身でも笑ってしまいそうなほどに子供っぽい感情の揺れ、迷い。
それが他の人間からすればどんなに贅沢で自分勝手な思いからかと思われても、久佳だけには分かってもらいたかった。



 途切れ途切れの響の説明が終わったのは、もう日付も変わってしまった深夜だった。
ソファに座っている西園寺と。
その向かいの床に敷いたラグの上に正座をしている響と。
響の説明が終わってしばらく経っても、西園寺はなかなか口を開かなかった。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 どれくらい経ったか・・・・・西園寺は片手で顔を覆うと、深い溜め息を付いた。
それは響の胸を突き刺すほどに、哀しげで苦痛に満ちたものだった。
 「・・・・・もう、決めてしまってるんだな」
 「・・・・・」
 「お前を繋ぎ止める方法を・・・・・俺はもう、何も持っていない」
 「久佳さ・・・・・」
 「あんな抱き方をしてすまなかった・・・・・お前には・・・・・お前だけには、優しくしたいのに・・・・・」
 「あ、謝らないでっ」
響は慌てて首を振る。
それまで何も言わなかった自分が悪いのは当たり前で、西園寺がこんな風に謝る必要などないのだ。
それでも、西園寺はうな垂れたまま、顔を上げて響を見ようとはしない。
いくら感情が昂ぶったとはいえ、あんな風に響の身体を蹂躙したことに、西園寺はずっと後悔の念を抱いているらしい。
 「・・・・・」
 「久佳さん、僕は・・・・・」
 「響」
 「う、うん」
ゆっくりと顔を上げた西園寺は、強張った笑みを響に向けた。
 「分かった」
 「え・・・・・」
 「お前の好きなようにしたらいい」
 「まっ、ひ、久佳さん、待って!」
 「若いお前を俺に縛り付けておく方が無理なことだったのかもしれない。俺は・・・・・いや、もういいか」
ゆっくり立ち上がった西園寺は、縋り付いてくる響の肩をそっと叩く。
その手は肩から、あまり動かない響の右腕を愛おしそうに優しく撫で・・・・・そして、ゆっくりとその身体を自分から引き離した。
 「もう遅い、休みなさい」
 「久佳さんっ」
 「一緒にいられる時間はもう少ない。今日からちゃんと帰ってくるから、もう少しだけ俺に付き合ってくれ」
 「・・・・・っ」
 突き放されたわけでもなく、酷い言葉を投げつけられたわけでもない。
しかし、響は優しく哀しいその言葉に痛烈に拒絶されたような気がして、ただ呆然とリビングから出て行く西園寺の後ろ姿を
見送るしか出来なかった。





                           




「啼く籠の鳥」の中編です。
お互いに思いあっているのに、すれ違ってばかりいます。もう間近に控えている卒業式の日に、どうにか幸せな結果が2人にもたらされます様に。