屋烏の愛 おくうのあい











 真琴には、綾辻が呼び戻した安徳と城内が再び付くことになった。
彼らの実力は綾辻が良く知っているはずなので心配することは無かったが、倉橋は出来れば自分も海藤の側にいて手伝いた
いと思った。
 もちろん、今回の理事襲名式は大事な義理事で、海藤に恥をかかせないように一から自分の目を通すことが出来るのは助
かる。ただ、今の時点で海藤が、そして彼の大切な恋人である真琴が危険と隣り合わせだと分かっているのに何も出来ないこ
とがじれったかった。
 「倉橋さん?」
 「あ、すみません」
(何をしているんだ、私はっ)
 何時の間にぼうっとしていたのか、声を掛けられるまでその存在に気付くことが出来なかった。そんな自分の不甲斐無さに内
心で舌をうちながら、現れた相手に対して頭を下げる。
 「何か変更がありましたか?」
 「いいえ。少し休まれてはと、お茶の誘いに来ました」
 にっこりと笑うのは、大東組理事、江坂の側近、橘(たちばな)だ。
一見、凡庸な容姿の彼は全く人に警戒心を抱かせない柔らかな物腰の持ち主でもあり、本家に来た時はよく顔を合わす相
手でもあった。
 倉橋よりも少し年下なのだが、江坂についているだけにその知識の広さはもちろん、古参の組長達に対する対応も見事なも
ので、無愛想だと自負している倉橋には学ぶものが多い人物だった。

 「どうぞ」
 「すみません」
 別室に案内された倉橋の前に出されたのは日本茶だ。茶菓子には羊羹で、洋菓子よりも和菓子が好きな橘の嗜好を知っ
ている倉橋は、直ぐに思い出して口を開いた。
 「そう言えば、美味しいキンツバの店を教えてもらいました。今度手土産にさせてもらいます」
 「それは楽しみです」
 「・・・・・」
 「倉橋さん」
 「はい?」
 「忙しいようでしたら手を貸しますが?」
 その言葉に、倉橋は顔を上げて橘を見た。
どうして彼がそんなことを言い出したのか、少し考えれば予想がつく。海藤から江坂に伝えられたジュウの情報は、もちろん部下
である橘も知っているのだろう。
 その上で、倉橋の負担のことを考慮してこう声を掛けてくれたのだと、わざわざ人の目が無い別室にまで案内してくれた橘の
気遣いに倉橋は感謝した。
 「ありがとうございます。ですが、大丈夫ですから」
 誰かの手があるのは正直とても助かる。こう切り出すくらいだ、橘の用意してくれる人材はきっと優秀なのだろう。
それでも、海藤の晴れの日の準備は自らの手で、いや、開成会の人間で行いたかった。きっと、馬鹿馬鹿しいプライドなのだろ
うが、それでも海藤を支えてきたのは自分達という自負を持っていたい。
 「そうですか」
 「ありがとうございます、気遣っていただいて」
 「いいえ」
 「江坂理事にも礼を伝えていただけますか」
 「・・・・・このことは、あの方には関係ありませんよ」
 「え?」
 よほど驚いた表情をしていたのか、橘はこちらを見ながらおかしそうに笑った。
 「私が自ら思ったことですから」
 「・・・・・橘さんが?」
いくらよく顔を合わし、言葉をかわすとはいえ、こんなふうに仕事のことまで心配してもらえるほどに親しかっただろうかと思ったが、
そんな倉橋の疑問も見透かすように、橘は笑みを絶やさずに口を開いた。
 「私は倉橋さんに好意を持っていますから。出来るだけあなたを手伝いたいと思っているんです、気にしないで下さい」
 「は・・・・・あ」
 好意。それがどういった種類のものか、ここで聞くのは少し怖い。
あくまでも、仕事仲間としてのものだと強引に思うようにして、倉橋は気分を落ち着かせるために茶を口にした。




 「克己は?」
 事務所にやってきた綾辻は、そのまま倉橋のオフィスを覗いたがそこに求める姿は無かった。
丁度通り掛った組員に聞けば、今日は朝から直接千葉に行ったはずだと言う。
 「ふ〜ん」
 「何か用事があるんでしたら俺らが・・・・・」
 「ううん、いいわ」
(克己の代わりなんて誰も出来ないもの)
 倉橋は多忙を極めていた。
事務所の仕事は部下に任せて、自分はほとんど連日千葉の本部に行っている。海藤の理事襲名はもちろん、同時に江坂
の総本部長就任もある大きな義理事は随分久し振りなので、その準備が忙しいのは十分分かる。
 もしかしたら、おとなしい倉橋に他の雑事を押し付ける輩がいるのではないかと心配になるものの、彼が今している仕事に
口を出すことは出来なかった。それは、倉橋のプライドを踏みにじる結果となってしまう。
 「・・・・・でも、電話くらいしてくれたらいいのに」
 たった一言でもいい、仕事以外の話をしたい。
(愛してるって・・・・・)
 「言うはず無いわよね」
そんな硬派な倉橋も愛おしいと思うのだから終わってる。

 ジュウの動きは無く、緊張しながらも妙に静かな時が破れたのは突然だった。
 【・・・・・安徳です。今・・・・・例の男が目の前にいて・・・・・真琴さんは無事です】
 「アンちゃんっ?」
携帯に映し出された安徳の電話に定時連絡かと何気なく出た綾辻は、感情を押し殺したような安徳のその言葉に一瞬にし
て顔を強張らせた。
 あまりにも冷静だからこそ、それが事実だと直ぐに分かる。指示を仰ぐ安徳に、綾辻は頭の中で様々なシミュレーションをしな
がら早口に言った。
 「分かったわ。今から言う場所にくる気があるか聞いて頂戴」
 ジュウが接触をしてくることは想定の一つだった。ただ、実際に本人が現れる可能性はかなり低いと思っていたのだが、どうや
らジュウの真琴に対する思いはこちらが考えているよりももっと、深くて・・・・・強い。
 ただ、このままこちらが引くような交渉は出来なかった。強く出て、こちら側の条件もしっかりと認めさせる。
それは、動揺が顔に表れない安徳が適任で、何とかそれを同意させることが出来たようだ。
 「頼むわよ、アンちゃん」
 電話を切った綾辻は直ぐに部屋を飛び出した。海藤に今の自分の判断の支持を仰がなければならない。
 「綾辻さん?」
その時だった。
エレベーターから出てきた倉橋の姿に、綾辻は一瞬目を細める。
 「千葉じゃなかったの?」
 「・・・・・何があったんです?」
 自分のわずかな表情の変化で異変を感じ取ったらしい。直ぐに厳しい表情になって聞いてきた倉橋に、綾辻はこっちと視線
だけで答えた。




 ジュウが真琴と接触をした。
最近忙しくて事務所を空けぎみの自分が、タイミングよくこの場面に立ち会えたのは意味があると思った。
 ただ、気になったのはジュウとの会話の中で真琴の揺らぎが見えたことだ。もちろん、真琴の海藤に対する愛情がというわけで
はないのだが、どうやら将来に対しての不安があるらしい。
 ジュウはそこを上手くついていて真琴を誘導しようとしたが、真琴も海藤の存在でそれを拒絶して・・・・・だが。
(あのままで大丈夫なのか・・・・・・?)
 あれ程の大きな存在を撃退するには、強い心の持ちようが必要だ。
 「このままマンションに帰宅されるんでしょうか」
 「いや、社長は事務所に戻られる」
 「・・・・・では、真琴さんお1人で?」
 「・・・・・そうだ」
真琴に付いている安徳にそう伝えると、安徳がものいいたげに自分を見つめているのが分かった。何かあるのかと問えば、綾辻
のことを切り出してくる。
 「・・・・・綾辻幹部の手伝いはしなくてもいいんでしょうか」
 それは、あくまでも部下が上司を心配しているといった域を超えないものだとは思うものの、普段他人のことなど構わないドラ
イな安徳が綾辻のことだけ必要以上に気にするのが倉橋には引っ掛かっていた。
 「安徳」
 「はい」
 「・・・・・いや、真琴さんのことを頼む」
 「はい」
(私は何を言おうとしたんだ?)
自分らしからぬ言葉が頭の中に浮かんでしまい、倉橋は焦ってそれを振り払った。




 「全く、油断も隙もない男よね」
 「・・・・・」
 「真正面から堂々会いに来るなんて、こっちも作戦を考えた方がいいかしら」
 「・・・・・」
 「克己?どうしたの?」
 真琴は安徳と城内に預け、綾辻は倉橋と共に海藤に同行して事務所に戻った。きっと海藤は真琴のことが心配でならない
だろうが、タイミング悪く多忙な時期と重なっている。
これでも、海藤はかなり真琴のために時間を割いているくらいなのだ。
 そして、綾辻はそのまま自分のオフィスに戻ろうとする倉橋の後を付いていったが、何時もならばさっさと仕事に向かうようにと怒
鳴るはずなのに、無言のまま何かを考えているような倉橋が気になった。
 「あ・・・・・いえ」
 「変よ。何かあった?」
 「いいえ、何もありません」
 即座に否定することこそが怪しいのだが、多分ここで問い詰めても倉橋は何も言わないはずだ。
 「・・・・・社長のとこに行く?」
 「ええ。少し休んでもらいます」
 「じゃあ、私のも入れてね」
きっと、コーヒーを持っていくのだろうと思って言えば、
 「分かりました」
そう、倉橋は答える。
(やっぱり、変)

 「上杉会長は断ったのか?」
 「そのようです。江坂理事の説得も通じなかったようですね」
 「勿体無いな」
 倉橋の説明に、海藤は心からそう感じるといったふうに呟いた。
ただ、綾辻は前もって小田切にそれとなく聞いていただけに、この結果は薄々分かっていたので驚くことも無い。もしも聞いてい
なかったとしても、上杉の性格ならばそれもありうるだろうなと思えたが。
 「これで承知したと伝えてくれ」
 「分かりました。明日、伺って伝えます」
 「・・・・・」
(明日も向こう、か)
 もう、襲名式は数日後で、準備も大詰めだということが分かるが、今のままのペースでは倉橋は倒れてしまうのではないかと
心配になってしまう。
 「頼む」
 「はい」
 しかし、海藤のたったこの一言で、倉橋はどんな過酷な時間も乗り越えてしまうだろうということも分かっていた。
今ここで自分が大丈夫かなどと言ってしまえば、それこそ倉橋は意地になってしまう。海藤に選ばれた自分の力を信じてくれな
いのかと、別の方向に気持ちを向けかねない。
(それだけはごめんだし)
 要は、こちらの方が早くジュウの問題を解決して倉橋を手伝えればいいのだが、こちらもこちらでネチッコイしと、この時期に大
きな問題が2つ重なったのを恨みたい気分だ。