屋烏の愛 おくうのあい
6
それから数日間はジュウの方にも動きは無く、真琴も平穏無事に過ごしていた。
どうなっているのか気にはなるものの、倉橋自身も襲名式が間近に迫っていることもあり、開成会の事務所の方に顔を出す暇
さえなかった。
「こっちは任せて」
せめて朝晩、どちらかでも顔を見せようとは思っていたが、綾辻のその言葉に甘えさせてもらい、自分に求められている仕事を
一心にこなしていたが・・・・・事態は急変してしまった。
「倉橋」
「・・・・・江坂理事」
何時ものように与えられた部屋でパソコンの画面を見ていた倉橋は、何度かのノックと共にいきなり姿を現した江坂の姿に立
ち上がった。
彼自身、今度総本部長という重役に就くので様々な準備のために忙しく動いているのを見てはいたものの、こうして人の目の
ない密室で改めて声を掛けられるのは珍しかった。
「何か?」
手順に変更があったのかと訊ねると、江坂は一度考えるように眼鏡を押さえてから、海藤から電話があったと告げてきた。
「会長から?」
自分にではなく直接江坂にというのは、何らかの緊急事態があったはずだ。現状を考えればジュウのことだろうととっさに思い
ついて、倉橋の表情は硬くなった。
「ジュウがあの子を拉致したらしい」
「・・・・・拉致」
「行き先は成田。そのまま香港に連れて行くつもりだろう」
「・・・・・っ」
最悪の状況を人の口から聞かされ、倉橋は複雑な気持ちのまま江坂を見つめた。海藤が自分にではなく江坂に連絡を取っ
たということは、彼ならば頼れると思ったからで、自分の力不足を今ここで後悔しても遅いのだ。
「成田の機能を少しの間止めて欲しいと言ってきた。倉橋、お前ならどうする?」
「え・・・・・」
(どうして私に・・・・・)
多分、その方法を江坂ならばとうに思いついているのだろう。それなのに、わざわざ自分に問い掛けてくる意味が分からない。
そんな倉橋の気持ちを見通しているのか、江坂が僅かに笑った。
「お前なら最善の方法を考えられると思ったんだが?それとも、私の手を借りるか?」
「江坂理事・・・・・」
「海藤にとっても私が手を出すのは最小限の方がいいだろう。今度は理事になるんだ、多少の問題は自分で決着をつけられ
るほどの人間でなければ力を持つ価値は無い」
確かに、どんな困難な事情があろうとも、自分達で解決する力、いや、そうしようという強い意志がなければならない。
特に今回の場合は大東組に直接関係することではなく、あくまでもジュウと海藤のごく私的な問題だった。
(江坂理事も早々動けない・・・・・?)
「あの」
「どうせなら、普段はしないような思い切ったことをすればいい。多少問題があってももみ消すことは簡単だ」
「・・・・・」
「人手が要らず、一番効果的な方法・・・・・もう、お前も分かっているんだろう?」
「別の手は打っておく。私は動かないがな」
そう言って部屋を出て行った江坂を見送った倉橋は考えた。
江坂の残してくれた言葉には大きなヒントがあり、多分そうすれば確実に数時間、空港は麻痺状態になるだろう。だが、自分
に出来るだろうか。
そうは思うものの、倉橋はやらなければならない。即座にある人物に電話をし、
「少し席を外しますから」
そう言って本部を出ると、自ら運転をして指定した場所に車を停めた。10分後、倉橋の乗った車のドアが外から叩かれる。
「お待たせしました」
「御苦労だった」
差し出された小さな袋を受け取った倉橋は、そのまま再び車を走らせた。今度向かっているのは繁華街からは遠く離れた場
所・・・・・海だ。
「・・・・・」
そこで時計を見、倉橋は先ほど渡された袋から一つの携帯電話を取り出す。
これは名義人が架空の人物で、使ってもけして跡が残らないものだ。普段は非合法なものを使用するのは極力避ける倉橋だ
が(後々問題が起こることを避けるため)、こうしてそういったものを都合する部下もいた。
「・・・・・」
一度、気持ちを落ち着かせるように息をついた倉橋は、記憶した電話番号を回す。
やがて出た受付の女らしい声に向かい、淡々と、無機質な口調で言った。
「今日の午後、外国に向かう便のどれかに爆弾を仕掛けた。時間は1時間後、信じるか信じないかは勝手だ」
あまりにも冷静な倉橋の口調に、悪戯なのか、本当に脅しているのか判断がつきかねたのだろう、慌てた口調でもう一度言っ
てくれと言われた。
間違いなく次の言葉は録音される。倉橋はポケットからハンカチを取り出し、今度はくぐもった声で同じことを繰り返した。
「今日の午後、外国に向かう便のどれかに爆弾を仕掛けた。時間は1時間後」
そして直ぐに電話を切ると、そのまま携帯を海に投げ捨てる。
「・・・・・」
(これで間に合ったのか・・・・・?)
ジュウが真琴を連れ去ったと思われる時間から逆算した飛行機の時間。それを止めるための少々乱暴な作戦だが、人手が
要らず、効果的な作戦として、航空会社に脅迫の電話を掛けた。
(間に合ってくれ・・・・・)
直ぐにでも成田空港へと自ら赴きたいが、今自分が動いても物事は全て終わった後になる。
「・・・・・」
倉橋は強く握り締めていた手をようやく開き、車に乗った。
このことは大東組の人間には絶対に知られてはならない。何時ものように平常を装わなければならなかった。
「こんにちは、出掛けていたそうですね?」
「・・・・・お疲れ、さまです」
席を空けていたのはほぼ1時間。
本部に戻り、駐車場に車を停めた倉橋は建物の中に入ろうとして・・・・・玄関先にいた男、小田切に呼び止められた。
(少し前に、来たのに・・・・・)
主の上杉と同様、小田切も本来はこの本部に姿を現すことは少なかった。それが、今回は一週間に二度目だ。
「驚いた顔も綺麗ですね」
「いえ、そんなことは」
「どちらに行かれていたんです?」
「・・・・・少し、気分転換に車を走らせただけです」
今日、彼が来るとは聞いていなかったので一瞬声に動揺が現れてしまったが、思えば今度の襲名式で羽生会も警備やらなに
やら人出を出すことになっており、そのための打ち合わせに小田切が間を置かずやってきても不思議なことではなかった。
「仕事が残っていますので」
一礼し、そのまま隣を通り抜けようとした倉橋は、いきなり腕を掴まれた。華奢に見えるのに(人のことは言えないが)かなりの
強い力だ。
「小田切さん」
何をと眉を顰めて振り返ると、小田切が耳元に唇を寄せてきた。
「江坂理事に聞きました」
「・・・・・っ」
「理事を断ったペナルティだと言って、うちの会長に連絡が来ましてね。その尻拭いを私がしたと言うわけです」
「あ・・・・・あの」
「少し、お時間いいですか?」
もちろん、断る理由など無く、倉橋は自分に与えられている部屋へと小田切を案内した。
小田切が香港伍合会の内部事情を話している間、倉橋はただ黙って聞き入っていた。
ジュウに関してはある程度の情報は綾辻から聞いてはいたが、その中で対立関係にある者や、粛清されて一家断絶になった
家系、そこから女関係に仕事面での問題など、その内部にいなければ分からないものまで、小田切はまるで世間話のような口
調で話し続けた。
「・・・・・喉が渇いたかな」
「あ、すみませんっ」
緊張していたせいかお茶を用意することも忘れていたと、倉橋は直ぐに内線を使って持ってくるようにと頼む。
それをじっと見つめていた小田切は、目が合うとにっこりと笑って分かりましたかと告げてきた。
「今と同じことを海藤会長には伝えました。綾辻さんからの情報で知っていることもあると思いますが」
「いいえ、とても助かったと思います、ありがとうございました」
海藤の代わりに倉橋は頭を下げた。彼がいればきっと同じような態度を取ると思う。
(私は、何の役にも立たなかった・・・・・)
江坂は倉橋の立場を考えて協力する役目を譲ってくれたが、直接海藤から相談を受けるほどの器量も無く、アドバイス出来る
貴重な情報を集めることも出来ない自分は・・・・・。
「倉橋さん」
無意識のうちに俯いていた倉橋は、名前を呼ばれて顔を上げた。
「私が今の話を知っていたのはたまたまです。知り合いが多くて、時間潰しに聞いただけで」
「時間、潰し?」
(こんな裏の事情を?)
「ですから、海藤会長が必要と思わなければ何の役にも立たない無駄な知識なんですよ。役に立って初めて、それは《知識》
や《情報》と呼ばれるものになるんです」
「小田切さん・・・・・」
「無駄なことを雑多に頭の中に溜めているよりも、私は現実的に実務をこなせるあなたの知識の方がよほど価値があると思い
ますよ。違いますか?」
「・・・・・」
もしかしたら、励まされているのだろうか?
とても何時もの小田切からは想像出来ない言動だったが、倉橋はごく自然にありがとうございますと頭を下げていた。
それから運ばれてきたコーヒーを飲んだ小田切は立ち上がった。
「楽しいことがありそうですが、あいにく外せない用がありましてね」
そう言って彼が部屋を出てから、倉橋はしばらく時計を見つめていた。あれからどうなったのか知りたくて堪らなかったが、不用意
にこちらから連絡を取るわけには行かない。
ただ待っているしか出来ないのか・・・・・彷徨っていた倉橋の視界に、処理が途中の書類が映った。
「無駄なことを雑多に頭の中に溜めているよりも、私は現実的に実務をこなせるあなたの知識の方がよほど価値があると思い
ますよ」
そう言ってくれた小田切の言葉。それは、ここでただ何もせず待っているということではないだろう。
「・・・・・」
倉橋は椅子に座り直し、パソコンの画面を見つめる。
離れている自分が出来ることはもうやったし、後は綾辻や安徳達が無事に海藤と真琴を助けてくれることを信じるしかない。
それまで、自分が出来ることを続けていよう・・・・・倉橋は散漫になりそうな意識を集中させた。
どのくらい時間が経っただろうか。
ドアがノックされ、パッと倉橋は顔を上げた。
「倉橋さん」
中に入ってきたのは橘だ。
「今からこちらに海藤会長がいらっしゃいます」
「・・・・・ここに?」
「ええ。お連れ様がいらっしゃるようですよ」
「あ・・・・・」
(では、真琴さんは無事に社長のもとに・・・・・)
深い安堵感に身体から力が抜けそうになったが、倉橋は足を踏ん張った。ここで情けない姿を見せるわけには行かない。
「それと、他にも同行者が」
「え?」
橘はそれが誰なのかは言わなかったが、倉橋には予想がついていた。どういった形にせよ決着がつき、ここに彼を連行してくるの
だ。
(私にも、見届けることが出来るのか)
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