屋烏の愛 おくうのあい
7
「江坂理事も?」
部屋を出て行こうとした橘の携帯に入ってきた連絡。その場で彼が電話に出たので、相手は分からないまでも橘の声はその
まま耳に入る。
「では、組長にもそのように。理事、あまり無茶な真似はしないで下さいよ」
「・・・・・っ」
(江坂理事が、空港にっ?)
電話を切った橘に、倉橋は慌ててその事実を訊ねた。
「ええ。お聞きになられなかったんですか?」
「・・・・・た、しか、自分は動かないと、言われて・・・・・」
「別の手は打っておく。私は動かないがな」
確かに、そう言った。
彼のアドバイスで何とか自分も少しは協力できたと思っていたが、その江坂は倉橋がここでグズグズとしている間に空港にまで
駆けつけたのだ。彼がそこまでしてくれたということに驚くと同時に、どうして自分も素早く動かなかったのかと今更ながら後悔を
してしまう。
(今、何が一番大切なのか、私は・・・・・間違っていなかったのか?)
誰も、それに答えてくれるわけでもなく、倉橋は何度も何度も自分自身に問い掛けた。
しかし、今更それを考えたとしても、全ては終わってしまったのだ。
海藤と真琴が大東組本部へやってくる。
その事実だけでもよしとしなければならないのかもしれない。後ろを振り向きたいことは多々あるがどうにも出来ないことだし、冷
たいのかもしれないが、倉橋は自身が大切だと思う者以外がどうなっても構わない。
感情の揺れ幅が少なく、非情な性質なのだと自嘲すれば、
「克己ほど優しいヤクザっていないわよ?」
そう言って綾辻は笑っていた。
だが、綾辻は知らないのだ。この胸の奥深くに抱いている激情に。敏い男が優しさなどという表面上の顔だけを見ているとは
思わないが、自分のことに限り、綾辻はとても甘い男だった。
「・・・・」
そんな倉橋の携帯に連絡が入ったのは、橘が辞して直ぐだった。
電話の相手は綾辻の部下の久保で、その言葉に倉橋は一瞬で顔色を失った。
「・・・・・撃たれた?」
海藤が撃たれたという報告。命に別状はなく、自身の足で歩くことも出来るという言葉に、倉橋は感情を押し殺すために強
く携帯電話を握り締めた。
綾辻が傍にいて海藤に怪我をさせた。もちろん、それが不測の事態であるがゆえだと頭では分かっていても、それでもどうして
守ってくれなかったのか、倉橋は子供のように八つ当たりをしたくてたまらなかった。
それを辛うじて押さえたのは、ここが大東組本部だということだ。自分が取り乱した姿を見せて、本部の人間に海藤の心象が
悪くなってもいけない。
【倉橋幹部っ】
黙りこんだまま、なかなか言葉を発しない倉橋の名を焦ったように呼ぶ久保に、倉橋は大きく息をついてから海藤の無事を再
度確認する。
「・・・・・分かった」
今ここで自分が出来ることは何か。
倉橋は橘のもとに向かい、治療の準備が万全かどうかを確認することにした。
本家に来た海藤には直ぐに会えなかった。彼は治療をしなければならず、そこにずっと付き添っていることは出来ない。
そして、真琴は綾辻と共に江坂に、組長である永友の元に連れて行かれてしまった。
後から追いかけてフォローすることも出来ず、気になって仕方が無かったが、その間に倉橋は安徳や城内から事情を聞き、本
当に真琴を危機一髪で救えたことを知った。
「多分、もうあの男は真琴さんに手を出さないと思います」
「・・・・・そうか」
淡々と告げる安徳に言葉短に答えると、海藤の治療が終わったことを告げられた。しかし、彼は直ぐに別の部屋に軟禁され
ているジュウの元に向かったという。
そこに、綾辻と真琴、そして江坂も同席しているのだと聞いた時、倉橋はまた、自分だけが蚊帳の外に置かれたような気がした
が、そこで駄々を捏ねるほどに子供ではなかった。
(廊下で見張りでも・・・・・)
香港伍合会のロンタウの登場にさすがの本部の中もざわめき、襲名式の準備をしている雰囲気ではなかった。
倉橋も自分が出来ることをしようかと思ったが、そこにまた携帯に電話が入る。
【どうやら無事に解決できたようですね】
「小田切さん・・・・・ええ、ありがとうございます」
彼にも多くの協力をしてもらえたので倉橋が礼を言うと、いいえと楽しそうな声が返って来た。
【少しは使える男だということを示しておかないと、何時クビを切られてしまうか分かりませんし】
「そんなことは・・・・・」
【そうそう、倉橋さん、海藤会長に伝えていただきたいことがあるんですが】
「はい」
直ぐに話題を変えた小田切の話に、倉橋は硬い表情のまま頷く。
(こんな情報を持って、どうして役に立たないとか言えるんだ?)
小田切だけは本当に分からないと思いながら、教えてもらった情報に対しての礼を述べる。
【今度2人きりで飲みに行きましょうね】
いずれ改めて礼をと言えば、そんな言葉が返って来た。付け足すように、綾辻さんは抜きでとも言われたが、とても2人きりで
会う勇気はない。
【はい、私よ】
番号で倉橋からと分かったのか、電話の向こうの綾辻の声はこちらが赤面するほどに優しいものだった。
「真琴さんも無事なんですね?」
海藤の怪我の具合は治療をした者から聞いたので安心はしていたが、まだ顔を合わせていない真琴のことが気になって訊ねる
と、もちろんよとしっかりとした言葉が返って来た。
「分かりました。今、小田切さんから連絡があったんですが・・・・・」
今回の首謀者、どうやらジュウの命を狙ったらしい人物が既に日本を出ており、その身柄を香港で小田切の知り合いが捕ら
えたことを告げた。小田切の知り合いがいったいどういう人物なのかは倉橋には分からなかったが、きっと自分たちとそう違わない
世界で生きる者達なのだろう。
その辺りは綾辻も分かっているらしく、頷いていた。本当に、この2人は分からない。
真琴の思い掛けない大立ち回りを見て、綾辻はどうやら完全にジュウが戦意を喪失したなと思った。
ここまできっぱりと振られてしまえば、たとえ身体だけ奪ったとしても、その心が絶対に手に入らないことに気が付いたのだろう。
(心がなくちゃ、人形と同じですものね)
しかし、それでももしやと思ってしまうのを未練だと笑える者はいるだろうか。
そして、それを許さない海藤を、狭量だと嘲る男などいるはずが無い。
ただし、真琴の気持ちも全く分からないわけではなかったので、綾辻は江坂に接触し、彼の口からそれとなくジュウが今から軟
禁されるだろう場所を聞いた。
「ここに置いておくんですか?」
「そんな無茶はしない。こちらが用意したホテルで丁重にもてなす」
「・・・・・了解」
江坂の立場では、利害関係にあるこちら側にその居場所を教えることは簡単には許されないことなのだろうが・・・・・思った以
上に人間味があるらしい彼は、遠回しの言い方でその場所を教えてくれる。
話は終わったと背中を向けた江坂をそのまま見送ろうとした綾辻は、ふと思い出して男を引きとめた。
「江坂理事」
「まだ何かあるのか」
「お礼を言っておこうと思って」
「何度も言えば軽いものになる」
「違いますよ。ジュウのことじゃなくって、克己のこと」
その名前に、江坂の顰められていた眉根が少し解けた。自分は江坂に胡散臭いと思われていると思うが、どうやら恋人は好ま
しい存在として受け入れられているようだ。
(結構長い間、こっちに来させちゃったし)
不可抗力とはいえ、倉橋1人で本部に寄越してしまったことで、自分の知らない倉橋の時間というものが出来てしまった。
誠実で潔癖な彼が浮気をしたとは思わないが、その周りがどんな風に思っているかまでは計算できない。
「私のお願い、聞いてくれて」
「・・・・・」
空港で、どうにかして時間を引き延ばさなければならない時、海藤は権力のある江坂にそれを頼んだ。
その時点で彼が一番の適任者であることは綾辻も分かっていたが、そこで思い出してしまったのだ、置いていかれた子供のよう
な表情の恋人の顔を。
だから、江坂に頼んだ。
「克己にやらせて下さい」
江坂を伝言板のように使ってしまったが、結果的に綾辻の思惑通りに事は進み、倉橋も今回のジュウの件で自分も協力した
という事実が出来た。
「本当は、自分でしたかったんじゃありません?」
電話を掛けるよりも、空港に駆けつけることこそ結構な手間だったと思うが・・・・・。
「私は自分の目で見たことを信じる」
「・・・・・」
「倉橋が取った行動も、本人が考えてしたことだ。お前よりもずっと、有能な部下だな」
そう言い捨てた江坂は、今度は立ち止まらずに歩き始めた。その背中に向かい、良かったじゃないと呟く。
「あの理事に褒められたわよ、克己」
本人に言えば、いったいどんな顔をするだろうか。
襲名式当日。
倉橋は海藤と共に本部へと来た。既に周りには多くの警察関係者と大東組の組員達が居並び、異様な雰囲気を醸し出し
ている。
久々の大きな義理事に、誰も彼もが張り切っているように見えた。
「こちらにどうぞ」
控え室に案内されると、倉橋は海藤のスーツを取り出す。紋付袴も考えたが、海藤はスーツで構わないと言ったし、倉橋も海
藤の年齢ではその方がしっくりくるだろうと思った。
ネクタイを直し、全体のバランスを見る。しなやかながら堂々とした体躯の海藤には、既に理事としての威厳さえ備わっている
ような気がした。
「・・・・・」
(とうとう、この日が・・・・・)
まださらに上があるとはいえ、これが海藤が頂点に立つ第一歩だと思うと、倉橋はこみ上げてくる感情を抑えきることが出来な
かった。
「倉橋?」
「・・・・・理事就任、おめでとうございます」
「倉橋・・・・・」
(本当に・・・・・おめでとうございます)
ヤクザだということは関係なく、海藤のような男に仕えることが出来て本当に幸せだ。自分が生きている意味を与えてくれたこ
の人を、今後もずっと傍にいて支えたい。真琴のように海藤の心の支えにはなれなくても、傍にいてくれて良かったと思われるよ
うな部下になりたい。
「ありがとう、倉橋。お前のおかげだ」
「そ、そんな・・・・・」
「お前が何時も支えてくれたからこそ、俺は今、ここにいる。素人だったお前を無理矢理この世界に引きずり込んでしまったが、
俺は後悔はしていないぞ」
「・・・・・私もです。こうして、上にのぼっていくあなたを傍で見ていられることが幸せです」
とうとう、倉橋は俯いた。このまま顔を上げていれば、こんなめでたい席だというのに涙を流してしまったのが分かってしまう。
「・・・・・」
そんな倉橋の頭を、大きな手がゆっくりと撫でてくれる。温かいこの手を捕まえた過去の自分を、本当に良くやったと褒めてや
りたかった。
![]()
![]()