peril point












 講義が終わって静が校舎の外に出ると、何時の間にか1人の男がその隣に並んだ。
 「ご予定は?」
 「ありません」
 「では、このまま一度マンションに送りします。夕食の時間までにはまだ間がありますから」
 「はい」
(そういえば、今日は江坂さんと食事に行く約束してたんだった)
今朝別れ際に江坂と話していたことを思い出した静は、何気なく自分の隣を歩く男を見上げた。
名前は、氷室(ひむろ)。下の名前も訊ねたが、覚える必要はありませんからと言われて、結局教えてはもらえなかった。歳は20
代半ばらしいが、自分との歳の差を考えても氷室がかなり大人で落ち着いているのはよく分かった。
 彼は江坂が静に付けた護衛の1人で、大学内でも自由に動け、尚且つその内部の情報もつぶさに手に入るように、どういう手
を使ったのかこの大学の院に入った。
もちろん、形だけではないことは、漏れ聞こえる彼が優秀だという噂でも分かるし、実際江坂と会話をしている氷室を見ていても、
十分察することが出来た。
 「・・・・・あの、氷室さん」
 「何ですか?」
 ここでは、氷室は静の従兄弟ということになっていて、2人でいても不思議がられることは無い。
人形のように整った容姿の静と、野生的な容貌の氷室は、並んで歩いているだけでもかなり目立つ。
しかし、静は幼い頃からそんな視線で見られるのは慣れていて今は全く気にすることもないし、氷室の方は完全無視をしていた。
 「気のせいかもしれないんですけど」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 本当に、自分が感じていたあの視線には意味があるのかなと静は思った。
今でさえ幾つもの視線が向けられているのは分かっているし、もしかしたらあの視線はこれをもう少し熱っぽくしただけなのかもしれ
ない。
そうでなくても学生である自分に何時もくっ付いてもらって気を使わせている氷室には、多分に余計なことを耳に入れる可能性も
ある。
(でも・・・・・やっぱり、気になるし)
後でなんでもなかったと笑えればそれでいいと、静はようやく口を開いた。
 「何か、視線を感じちゃって」
 「・・・・・視線?」
 「気のせいかもしれないんですけど、ここ一週間くらい、俺が1人になった時とか、教室でとか、じっと見られている気がするんで
す。もしかしたら俺が自意識過剰なだけかもしれないんですけど・・・・・」



 「今まで気付かなかったのか?」
 『申し訳ありません。彼の受ける授業の教授や生徒は全て調べましたが不審者はいませんでしたし、構内ではご友人と一緒に
おられる時も傍にいましたが、そんな視線には気付きませんでした』
 江坂は携帯を握り締める手に力を込めた。
 「何の為に自分がそこにいるのか良く考えろ。私はお前に小早川静の安全を任せているんだ。それは肉体的なことではなく、当
然精神的なことも含まれていることは分かるだろう」
 『はい』
 「静が少しでも不快な思いをしたのなら、それだけお前の仕事は不完全ということだ。明日の朝までに不審者を調べ上げて知ら
せろ」
 『分かりました』
 「食事は予定通りだ。急にキャンセルして不安に思わせたくない」
 『では、6時に菖華(しょうか)へお連れします』
 電話を切った江坂は、不機嫌そうに眉を顰めた。
(視線だと?どこのストーカーだ・・・・・)
あの美貌だ。幼い頃から静がおかしな者達につけ狙われていたことは既に調べて知っていた。
それなりの権力と金のあった静の父は、静の美貌を商売の道具にするほどの狡猾さはあったものの、子供としても真実可愛がっ
ていたらしく、ずっと護衛は付けていたらしい。
それでも、幼稚園の時と小学校の時、危うく誘拐されかけたことはあったようだ。
(その頃に静を知っていたら、そいつらに今頃息をさせなくしたものを)
 「・・・・・」
 あの美貌は、十分に人の劣情を煽り立てる。
しかし。
 「橘(たちばな)」
 「はい」
 直ぐ側のデスクに座っていた橘英彦(たちばな ひでひこ)は直ぐに立ち上がって江坂の前に立った。
33歳になる橘は、ごく凡庸な容姿の持ち主だ。平均身長で、少しだけ痩せぎすで。眼鏡の奥の一重の目は何時も穏やかな
笑みを浮かべて、少し鼻が低く、一見すればまだ20代半ばには見えてしまうほどの若い外見だった。
 しかし、地方の二次組織にいたのを江坂が自らスカウトしたことからも分かるように、その見掛けからは全く想像も出来ないほど
のやり手であり、江坂が静以外に唯一笑みを向けることがある存在であった。
 「最近、不審な動きをしている者はいるか」
 「小者は多少足掻いている者がいますが、気に留めるほどのものではありません」
 「・・・・・」
 「小早川君が何か?」
 自分以外が静の名前を呼ぶことにあまりいい気がしない江坂の気持ちをよく知っている橘は、まるで教師が生徒の名前を呼ぶ
ように静の名を口にした。
 「付きまとわれているらしい」
 「・・・・・大学関係は、確か氷室が調べていましたね」
 「あいつも、今日静に言われるまで気付かなかったそうだ」
 「一応、漏れが無いかの確認はしましょう。後はこちらの方を」
 全てを説明しなくても、橘は江坂の意図を全て汲み取っている。あまりにも自然に橘がそう行動するので、江坂は一々自分が
言わなくては分からない相手がとてつもなく無能に思えるのだ。
 今回のことも、大学はもちろん、大東組内部の調査を素早くやるはずだ。
若いくせに出世していると、江坂のことを妬み、恨んでいる者は相当な数いるだろう。そんな者達が容易に江坂に手を出さない
のは、今の大東組の最高権力者、7代目現組長の永友治(ながとも おさむ)の存在があるからだ。
 5年前に永友が組長に昇進して以降、大東組内部では武闘派よりも経済に強い者を重宝しており、その筆頭が江坂という
存在だった。
頭の古い年寄りだらけの理事会に風穴を開け、今の時代どこも資金繰りに窮しているというのに大東組が潤沢な資金を有して
いるのは、そんな江坂の下で、海藤や上杉といった経済に強い者が育っているからだ。
 そして、江坂自身強いのは経済だけではなかった。
反発する者は力でねじ伏せ、根絶やしにしていった。
日本の政財界にも強いパイプを持っているし、海外の同業者達にもその存在を知られている江坂に無謀に手を出すものはいな
かった・・・・・はずだ。
(馬鹿な奴はどこにでもいる)
 「護衛は増やしますか?」
 「腕のたつ者を2・・・・・いや、3人だ。もちろん」
 「小早川君に気付かれないように、ですね」
 今、静の護衛は3人だ。
静自身に顔を知られているのは氷室だが、それ以外にも分からないようにと2人つけている。もちろん、武道の有段者で、頭の回
転が早い者だ。
 「食事まで・・・・・3時間ですね。それでは、終わる頃から付けるようにしましょう」
事も無げに橘は言うが、それは楽な作業ではない。
身元は家族関係から学歴まで全てを洗い出さなければならないのだ。
それを、橘は当然のように出来るといい、江坂もそれが普通だと思っていた。



 静が店の玄関に足を踏み入れた時、既に来ていたらしい江坂がわざわざ出迎えてくれた。
しかし、その江坂の表情を見た静は、ああと申し訳なく思ってしまった。
(氷室さん、話したんだな)
 江坂の部下である氷室が、何か変わったことがあれば報告をするのは当然のことで、静もそれは分かっているつもりだったが、実
際に眉を顰めた心配そうな江坂の顔を見てしまうと、余計なことを言ってしまったかと後悔してしまった。
 「江坂さん、あの・・・・・」
 「急に予定が変更になってしまって、大学まで迎えに行けなくてすみません」
 「そんなことはいいです。わざわざ来てもらう方が悪いし・・・・・それで、あの」
 「話は中へ入ってからですよ」
 そう言った江坂は、静に手を差し出してくれる。
靴を脱いで、長い畳の廊下を歩いていくと、やがて静は個室らしい一室に連れて行かれた。
 「美味しい牡蠣が入ったそうですから、鍋とフライを頼みましたよ」
 「あ、俺カキフライ好きです」
 「ワサビ醤油で食べるのが、でしょう?」
食べることはもちろん、魚釣りも好きな静に気遣って、江坂は何度か静に魚釣りに行こうかと声を掛けてくれた。
しかし、以前友人達と行ったキャンプで、江坂が意外にも生きた魚やその餌が苦手らしいと知った静は、食べることだけで満足だ
と伝えた。
 釣りは、今度元気な友人達と行けばいいと思っているが、多分それは巧妙に回避されてしまうことに静はきっと気付かないだろ
うが。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 座椅子に腰を下ろして、手を拭いて。
出された熱いお茶を一口飲んだ静は、ふと江坂がじっと自分を見つめていることに気がついた。
 「江坂さん?」
 「私に言うことはありませんか?」
 「・・・・・あ・・・・・」
 どうやら、話は先程・・・・・玄関の所まで戻ってしまったようだ。
静は慌ててきちんと座り直すと、目の前の江坂に向かって頭を下げた。
 「ごめんなさい、変なことを言っちゃって」
 「・・・・・私が怒っていると思っているんですか?」
 「・・・・・はい」
 「静さんがそう思っているのなら、多分私は怒っているんでしょうね」
 「・・・・・」
 「でも、それは静さんが言ったことにではなく、それを今まで私に言ってくれなかったことに対してです」
 「・・・・・はい」
それは、静も分かっていた。優しい江坂は静の言葉には一つ一つちゃんと耳を傾けてくれるし、面倒くさいなどと言った事も無い。
むしろ、静が江坂を気遣って言わないということの方が、江坂にとっては心痛することらしかった。
 「たとえ小さなことでも、何か気になることがあれば話してくださいと言いましたね?私はこんな仕事をしているので、どこの誰とも
分からない者から逆恨みをされる場合もある。そんな愚かな人間は、私の大切なものに手を出すという浅はかな手段を取りかね
ない。静さん、私はあなたに掠り傷一つつけたくは無いんです。分かって下さいますね?」



 こういう言い方をした方が、人を気遣う静には効くことを江坂はよく知っていた。
静の為ではなく、静を思っている自分の為に。そう聞けば、静も遠慮をして話さないということは無くなる・・・・・ことはないだろうが、
少なくなることは確かだろう。
 「分かりました。ごめんなさい、江坂さん、俺、本当に初めは気のせいかなって思ってたんです」
 「初めから話してもらえますか?」
 「話すって言っても・・・・・そんなに無いんですけど・・・・・」
 そう言いながら、静は初めから説明してくれた。
それは氷室からの報告とほとんど一緒だったが、江坂が気になったのはその視線の種類だった。
 「どんな風に感じました?嫌だったとか、気味が悪いとか」
 「ん〜・・・・・気味が悪いに近いと思います。じっと見られて・・・・・」
その言葉の続きを静は言わなかったが、江坂には十分ニュアンスは伝わった。その視線はこういうことに鈍いといってもいい静が気
付くほどに肉欲的な意味を含んでいたのだろう。
そんな目で静を見られたというだけでも、江坂は相手の目を潰してやりたいと思った。
 「分かりました。一応調べますが、静さんはもう気にしないように」
 「え?」
 「静さんは綺麗ですから、そんなあなたを見ている男がいるかもしれない。見るくらいは許してやらないと・・・・・私はそこまで心が
狭い人間ではないつもりですよ」
 まるっきり、心の中とは正反対のことを口にした。
こう言えば、静はとりあえずは安心するだろう。
(汚い目で静を見た奴・・・・・引きずり出してやる)
この自分の大切なものに手を出そうとしたのだ、それが同じヤクザであっても、もしかしたらただの大学生でも、その罰に差をつける
つもりは無い。
 「あ」
 その時、味噌の焦げるいい匂いがしてきた。
 「来たかも」
 「たくさん食べてくださいね」
 「江坂さんも、飲んでばかりじゃ駄目ですよ?」
 「静さんと一緒の時に飲むのなんて勿体無い。あなたを見つめているだけで精一杯ですし」
 「・・・・・」
江坂の言葉に、静の白い頬が赤く染まる。
こんなにも恵まれた容姿を持つのに、それに驕ることなく素直なまま育ってきた静の心根は綺麗なままだ。
(可愛らしい)
酒に強い静はなかなか酔うことは無いが、今日は少し強い日本酒でも飲ませて、乱れた静を見てみたい。
そう思った江坂は、運ばれてきた冷酒を持ち上げた。
 「これは甘くて美味いですよ。少し、飲んでみませんか?」
本当にと首を傾げながら杯を差し出した静に、江坂はにっこりと笑って頷いた。






                                            







静を見ているのはどんな奴でしょう?
どちらにせよ、江坂に知られた限りは無傷ではいられませんけどね。