peril point
4
カーテンの隙間から、僅かな朝日の光が漏れてくる。
以前は部屋の雰囲気に合ったダークグリーンの色だったカーテン。共に暮らすことを決めた時、江坂は静の好きな色に変えてい
いと言った。
しかし、静は自分の為に江坂のそれまでの生活環境を変えたくは無いと言い、お互いが譲歩する形で、今は若草色のカーテ
ンが部屋を色付けている。
「・・・・・」
既に外出する仕度を整えた江坂は、いまだベッドで眠っている静を見下ろした。
夕べかなり遅くまで甘い身体を貪ったのでかなり疲れたのか、何時もは人の気配に敏いはずの静がこんなに間近で見つめていて
も目覚めない。
夕べはあれ程に淫らな姿を晒していたのに、こうして眠っている姿は本当に人形のようで、江坂はそのアンバランスな姿さえ自分
だけのものだと思うと嬉しくなった。
「行ってきますよ」
本当は静が目覚めるまで側にいてやりたかったが、朝一でアメリカからの来客に会わなければならない。部下にも英語が話せる
者はいるが、企業情報などの専門的な知識は不足しているので、どうしても江坂が対応するようになっていた。
江坂は軽く静の額に唇を寄せると、音も立てずに寝室から出て行った。
「おはようございます」
迎えに来た橘に軽く頷いただけで車に乗り込んだ江坂は、早速自分が不在の間に事務所に送られてきたファックスに目を通し、
差し出されたパソコンのメールにも目をやった。
「相手の到着は予定通りだな?」
「はい」
「・・・・・」
「それと、昨日の件ですが」
予定を告げるのと変わらない口調だが、江坂はその言葉に顔を上げた。
「引っ掛かった者がいるのか?」
「まだ確証は取れていませんが、数人怪しい動きをしている者がいるようですので追跡させています。その中で一番小早川君に
執着しているのが1人」
「何者だ」
「森下建設の次男、森下孝介(もりした こうすけ)。小早川君とは幼稚園時代からの、まあ幼馴染ですか」
「森下建設?」
江坂は眉を顰めた。
中学生時代の静を見初めて手に入れようと画策を始めた時から、江坂は静に近付く者は排除してきた。しかし、その中にそんな
名前の者はいなかったはずだ。
幼馴染という立場はもっとも危険で、その時知っていれば必ず手を打っていたはずだが・・・・・。
そんな江坂の疑問に、橘は直ぐに答えた。
「小学校を卒業して、高校を卒業するまでの6年間、その頃専務だった父親についてロンドンに滞在していたようです。大学受
験を機に1人だけ帰国して、今は小早川君と同じ大学に通っています、学部は違いますけど」
父親同士が知り合いだった静と森下は、学校でも友人といっていい関係だったらしい。
外見の近寄り難さとは違い、性格はのんびりとして穏やかな静は友人も多かったようだが、森下は自分こそが静の一番の友達
だと公言していて、なかなか他の者を近づけさせようとしなかった。
それが子供らしい独占欲からではないことは、両親と共に海外に行った後、別の友人に静の身辺を調べさせ、その写真なども
送らせていたらしいということからも分かる。
その友人には、静を絶対自分のものにするとまで言ったそうだ。
「大学では表立った行動はしていませんが、小早川君の受ける講義の前後を取っています。今の彼のバックにはあなたがいるこ
とは有名な話ですからね、ただ指を銜えて姿を見ているだけなら別ですが・・・・・」
「見るだけでも静が穢れる」
「・・・・・そうでした」
静の父親の会社でもある小早川商事のバックに江坂が付いている事は、この業界の人間ならば周知のことだ。自分の会社の
為に美貌の次男をヤクザに売ったという陰口を叩かれているらしいが、この不況の中でも小早川商事が確実に利益を伸ばして
いることへのやっかみも多分に含まれているだろう。
江坂自身は、静の耳に入らなければどんなことを言われても何とも思わなかった。
「そいつだけか?」
「他にも小早川君に一方的な好意を寄せている者はかなりいるらしいですが、金を持っていて人を動かせる力があるのはその
男くらいなので」
橘の言葉に妙なニュアンスを感じた江坂は直ぐにピンと来た。
「・・・・・どこの組だ」
「斉京会(さいきょうかい)です」
「・・・・・」
「以前、懇親会で」
「ああ」
そこまで言われて、江坂はようやくその相手のことを思い出した。
関東随一、そして、日本でも有数の広域指定暴力団、大東組。
しかし、もちろん日本には他の組織の暴力団もあり、特に際立った対立をしていない限り、年に1、2度、その代表は内密に会
談をして情報交換をしていた。
ちょうど1年前だろうか。
何時もは酒を酌み交わすだけのくだらない会合には出席しない江坂だったが、ちょうど話してみたい人物が今回はやってくるという
情報を聞いて、他の理事にその出席を譲ってもらった。
その席で、別組織の若頭補佐を勤めていた斉京会の千葉信吾(ちば しんご)と会った。
大東組の規模よりは劣るものの、それなりの組織の若頭補佐という地位に立っているとは思えないほどの頭の軽さに会話してい
るだけでもバカらしくなった江坂は、言葉だけで千葉をやり込めた。
得にもならない出来事を江坂は直ぐに記憶から消し去ったが、恥をかかされたと思っている千葉としては忘れることなど出来な
い出来事のようだ。
「・・・・・くだらない、あんなことをまだ根に持ってるのか」
「馬鹿な人間の脳は、覚える容量が少ないですからね。自分の好んだ記憶しか残していないんでしょう」
江坂に負けず劣らず橘の言葉も辛辣だった。
「お互いの関係は?」
「森下建設の裏の仕事を引き受けているらしいです」
「斉京会が?」
「千葉個人で」
「・・・・・」
「組は関係ありませんので、個人的に話は出来ますよ」
穏やかに橘は言った。
組が絡めば後々が面倒だが、個人的な関係ならば後付の理由も容易だろう。
「決定的な証拠を掴んだら押さえる。それまで静の身辺には十分注意しろ」
「分かりました」
これだけの疑念だけでも動いて構わなかったが、私怨だけで動いていると思われても面白くは無い。否定出来ない証拠を突き
付け、二度と静に近付けさせないようにする為にも、後少しだけ時間を掛けなければならなかった。
「あっ」
「ごめんっ!」
講義が終わり、外に出ようとした静は、中に入ってこようとした男とぶつかってしまった。
夕べの荒淫が祟ったせいか、足腰がふらついていた静はその場に崩れ落ちそうになったが、ぶつかった相手はとっさに静の腰を抱き
止めてくれる。
「ご、ごめんなさい」
「いや、俺が悪かったから。大丈夫?しーちゃん」
「え?」
小学校以来、呼ばれたことが無いその呼び名に顔を上げた静は、自分よりも背の高い、いわゆる今風な若い男の顔をじっと
見た。
「・・・・・」
「分からない?俺だよ、こーくん、森下孝介」
「・・・・・こーくん?」
その呼び名も、随分昔はよく口にしていた気がする。
「ああ、しーちゃんは昔と変わらず綺麗だけど、俺は変わったからなあ、分からなかった?」
「・・・・・分からなかった」
小学校の時、多分誰よりも一緒にいた幼馴染。なぜだか、静が他の友達と遊ぶことを嫌って、周りと何時も喧嘩をしていたよう
な気がする。小学校を卒業すると同時に、両親と共に海外へと引っ越して行ったとは聞いたが、また日本に、それも同じ大学に
通っているとは全く知らなかった。
「俺はしーちゃん・・・・・静のことは直ぐに分かって声を掛けたかったんだけど、何だか昔よりももっと綺麗になっていて声が掛けにく
くて・・・・・でも、今こうして話せて良かった」
「う・・・・・ん」
綺麗になっていたから声を掛けにくかったという理由は静にはよく分からなかったが、それでも懐かしい顔を見れば遥か昔の子供
の頃も同時に思い出してくすぐったくも思う。
静の表情が柔らかく解けたのに気付いたのか、先程から静の腰を抱いたまま放さなかった森下が更に口を開き掛けた時だった。
「静」
いきなり低い声が静の名前を呼んだかと思うと、同時に静の身体は森下の腕の中から離れ、別の大柄の男・・・・・氷室の腕
の中へと囲われていた。
橘から夕べ送られてきたメールで森下の顔を確認した氷室は、その顔をよく見掛けることに改めて気付いた。
学部が違い、他の一般教養も別の授業を取っていたのであまり気にも留めていなかったが、そう言われれば不自然なことはかな
りあった。
静が座った椅子に、何時も座っていた男。
大学院に通っている氷室を待っている静が立っている柱の影で、女とこれ見よがしにいちゃついていた男。
あからさまなアプローチをしてくる人物はチェックしていたが、こんな風に間接的に見つめている目に気づくことが出来なかった。
これはどんな叱責を受けても仕方が無いほどの失態だが、今はもうこれ以上のミスをしないことの方が先決だ。
「どうした?」
何があったのかは、全て見ていた。森下は自分から静にぶつかって行った。多分、じっと見続けていたことで、欲望が抑えきれな
くなってしまったのだろう。
その上で聞いた。森下が何と答えるのか、用心深くその顔を見る。
「静、彼・・・・・」
「えっと・・・・・」
「静の従兄弟です」
「従兄弟?」
森下が怪訝そうに眉を顰めるのは分かる。小学校の時からの幼馴染である彼と、静の従兄弟という立場の自分は当然ながら
会ったことは無い。ある程度の家柄同士、お互いの親戚のことも耳に入っているだろうし、その中で氷室の存在など聞いたことが
無いのだろう。
「静」
「あ、うん、俺の従兄弟なんだ」
「・・・・・へえ」
森下はじっと氷室の顔を見つめ、口元を笑みの形に歪めた。
目の前のこの男が、不自然なほどに静の側にいることは知っていた。ずっと見つめていたのだ、気付かないはずが無い。
(従兄弟なんかじゃない・・・・・多分、噂の男の・・・・・)
静が通うはずの大学を受験し、ようやく再会出来ると思った時に聞いた、小早川商事の危機。森下は直ぐに父親に援助をして
やるようにと頼んだが、父親は今小早川に手を出しているものは厄介だからと動こうとしなかった。
それが、江坂というヤクザだと知ったのは間もなくだ。
静がまるで借金のかたのように男の元に行ったということを、小遣いで雇った探偵が報告してきた時、森下はこれで静が自分の手
の届かない場所に行ってしまったと嘆いたが、それでも・・・・・簡単には諦め切れなかった。
何とか合格した大学で、6年ぶりに再会した静は記憶に残っていたよりももちろん、写真で見たよりも遥かに綺麗になっていた。
とてもヤクザに囲われているとは思えないほどに清楚で、可憐で・・・・・。
(あれは、俺のものなのに・・・・・っ)
誰かに渡すなど、とても考えられなかった。たとえヤクザが囲っているとしても、金と力さえあれば何とかなるはずだ。
(絶対に、俺が・・・・・)
「すみません、俺が余所見をしてぶつかっちゃって。それが静だったなんてな」
「ううん、俺こそぼーっとしてたかも」
「そんなの昔からじゃないか」
「えー」
この数分でも森下の存在に慣れたのか、静の人形のような整った顔が豊かな表情を浮かべる。
その表情に、森下は作っていない本当の笑みを浮かべた。
「なあ、久し振りだから食事でもしないか?」
「え・・・・・」
静はチラッと従兄弟だという男の顔を見上げて、申し訳なさそうに謝った。
「ごめん、家の者がいるから」
「・・・・・家を出てるって聞いたけど」
「うん、お世話になってる人がいて、食事は出来るだけ一緒にって言われているんだ、だから」
「・・・・・それなら仕方ないな」
今ここでは、これ以上しつこくしない方がいいだろう。今までは一方的に見つめているだけだったのが、こうして静に自分の存在を
知ってもらったのだ、これから近付く理由は幾らでも出来る。
「じゃあ、今度」
「うん」
「失礼します」
行儀のいい友人を装って愛想よく男に頭を下げたが、男の目が笑っていないことにはもちろん気付いていた。
(こいつ・・・・・邪魔だな)
手先となって動く相手(金をやっていればいい相手だ)に、この邪魔者をどうにかしてもらおう。森下は笑顔で静に手を振りながら、
心の中で暗くそう考えていた。
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ストーカー・・・・・。
この先の彼の運命が見えるようです。