peril point












 森下と別れ、彼の姿が完全に視界から外れて間もなく、氷室が言葉短かに訊ねてきた。
 「彼とは仲が良かったんですか?」
 「こーくん?・・・・・あ、森下君とは小学校まで一緒で、幼馴染なんです。お互いの父親同士も仲が良くて、パーティーとかでは
子供は退屈でしょう?よく遊んでもらっていたんですよ」
昔から少しのんびりとした(おっとりとも言えるが)方だった自分を、森下は多少強引ながらもよく面倒を見てくれていた。何でも出
来る友達はその当時はスーパーマンにも思えて、静は多分なついていた方だと思う。
(引っ越してから何回かは手紙は貰ったけど、何時の間にか途絶えて・・・・・寂しかったよな)
 それが、静に対するあまりにも暗い想いのせいで、森下自身がジレンマを感じていたせいだからというのは当然静は知らない。
子供の頃に仲が良くても、成長するにつれて疎遠になるという話はよく聞くので、正直さっき話し掛けられて名乗られるまで、静の
頭の中には森下の名前は全く無かった。
 「では、最近連絡を取られていたということは」
 「無いですよ」
 「・・・・・そうですか」
 「あの、彼が何か?」
 「いえ、私も初めて見る方なので、どういう方なのかなと思って」
 自分を守る立場の彼としては、それは当然の思いかもしれない。隠すことでもないしと、静は昔の森下の姿を頭の中に思い浮
かべた。
 「ん〜・・・・・子供の頃は、とにかく目立っていたかな。どんなことでも率先してやるし・・・・・いい子なガキ大将って感じ?」
 「・・・・・」
 「雰囲気・・・・・少し変わったかな」
 見た目は、あの頃の面影は残っていたし、話し方なども思い出せばああと直ぐに繋がったが、その眼差しが・・・・・少し暗くなっ
たような気がする。
 「大人になったら、みんな変わっちゃうのかな・・・・・」
思わず呟いてしまった静に、氷室は何も言わなかった。



 目の前に差し出された書類に、江坂は無言のまま目を通した。
それは斉京会の今現在の収支情報と、千葉が関わったとされる森下建設の裏の仕事の明細だった。
相変わらず素早い仕事をする橘に褒め言葉は与えないが、橘もそれを当たり前だと思っているので何とも感じていないようだ。
 「・・・・・」
 一通りそれに目を通した江坂は、呆れたように書類をデスクの上に投げた。
 「ずさんだな」
 「弐織組(にしきぐみ)でも、内々で調べているようです。先代の組長が千葉を可愛がって若頭にまでしたようですが、代が代
わって今の組長はあまり千葉と合わない様で。それで、金が必要だったのかもしれませんね」
 どちらかといえば関西から西に多くの拠点を持つ弐織組。
大東組よりも規模は劣るものの、かなり古い歴史を持つ弐織組はどちらかというと資金繰りは潤沢ではない。
昔からの任侠道に拘り、内部の改革が遅れてしまったせいで、この不況でシノギ(縄張り内で営業を行うものに対して、その営
業を認める代わりに、また用心棒的な意味も持たせて徴集する金)は減り、それに連動して上納金も減っていく一方で、弐織
組は大東組の組織状態を見本に改革を始めている矢先だ。
 もちろん、弐織組の中でも能力が高く、この不況にも負けないくらいの上納金を納める者もいて、能力の無い若頭を追い落と
すことは十分考えられた。
 「少し話しただけでもバカだったしな」
 「先は見えてますね」
 「・・・・・向こうで話が通じる者はいるのか?」
 「弐織組の関東支部長に面識があります」
 「直ぐに連絡を取ってくれ」
 「はい」
 千葉のことは橘に任せていれば大丈夫だろう。
江坂はそれっきり千葉のことを頭の端に追いやり、先程の氷室の定期連絡のことを考えた。
(直接接触してくるとは・・・・・身の程知らずが)
 どういった心境の変化か、森下が静に顔を晒した。それだけでも面白くないというのに、男は更に静を食事に誘ったという。
今回は氷室が遮ったが、次はどうだろうか。江坂に忠実な氷室はこの先も森下の誘いは断るだろうが、それがあまりに続けば静
が不審に思うだろう。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「橘」
 「はい」
 「明日の予定は全てキャンセルしろ」
 「夜の会合もでしょうか?」
 「全てだ」
 「分かりました」
 久し振りに幼馴染に再会した静の頭の中は、いやでも森下のことが思い浮かべられているだろう。そんな男のことなど欠片も思
うことなど許さないと、江坂は静の思いを全て自分に向ける為に動くことにした。



 翌日は朝から快晴だった。
 「本当に大丈夫ですか?仕事忙しいんじゃ・・・・・」
 「静さんとこうしてゆっくりする時間くらいありますよ。ほら、帽子をちゃんと被らないと日焼けしてしまう」
 「男なんだから、少々の日焼けくらいいいですよ。そうでなくても俺、色が白いから男らしくないし」
 「綺麗なんだからいいじゃないですか」
優しく目を細め、口元に微笑を浮かべながら言う江坂に、静の方が照れてしまって俯いてしまった。
(綺麗なのは、江坂さんの方なのに・・・・・)
けして女のような容姿ではないのだが、江坂の容貌は男らしいというよりは綺麗と表現した方がピッタリだ。自分より身長も高く、
体付きも細身ながらきちんと筋肉もついていて、手も・・・・・大きい。
(指は、細くて綺麗だけど・・・・・)
自分の身体に触れる江坂の指先の感触を思い出してさらに赤面してしまった静は、慌てて手元のジャリメ(釣餌)を針に付けた。

 「明日、釣りに行きませんか?静さん、行きたいと言っていたでしょう?」

 昨日の夜、帰宅してきた江坂にいきなりそう言われ、静は嬉しいというよりも驚いてしまった。
確かに静は釣りは嫌いではないが、そうかといってアウトドアが似合いそうにない江坂に連れて行ってもらおうとは思ってもいなかっ
た。
年少者の友人の中には、そういったことが好きな者もいるので、どうしても行ってみたいと思えば彼らを誘えばいいと軽く考えていた
のだ。
 それでも、江坂が誘ってくれたことが嫌なわけではない。
むしろ、大好きな江坂とこうして青空の下で堂々とデートが出来るのは嬉しい。
 「・・・・・」
 何時もの隙の無いスーツ姿ではなく、明るい色のカジュアルな服装。
髪も洗いざらしという感じで、眼鏡も掛けておらず、こうして見るとかなり若く見えた。
 「・・・・・あ」
 静が視線を向けると、江坂は案の定というか・・・・・また、餌箱を前に手が止まっている。
いや、止まっているというよりは、微妙に視線も避けているようだ。
(こんな江坂さん、みんな知らないんだろうな)
自分だけに見せてくれるこんな表情が可愛い。
 「はい」
静が笑いながら手を差し出すと、江坂は苦笑を零しながら静に餌箱を差し出した。



 静の綺麗な指先が、グロテスクな小さな虫を摘んで躊躇無く針に刺す。
釣りをするのにそれは当たり前の行動なのだろうが、江坂の眉間には僅かな皺が寄っていた。
 「はい、これ」
 「ありがとうございます」
 「たくさん釣れたらいいですよね?俺、簡単になら捌けるし」
 「じゃあ、静さんの手料理を食べる為にも、最低一匹は釣らないといけませんね」
 「頑張りましょう」

 釣りに誘った静は、江坂の予想以上に喜んでくれた。
出来れば、以前キャンプで見せたような情けない姿を見せたくはないと、マンションに帰る前に釣餌を買ってこさせ、それを摘む練
習をしたのだが・・・・・どうしてもあの見た目で挫折してしまった。
 別に釣りをしなくても生きていくことには全く困らないものの、静の笑顔が見れるのならばそれも必要かもしれないと思ったのだが
・・・・・人間出来ないことはあるようだ。
 「・・・・・理事」
 「下げろ」
 「よろしいのですか?」
 「視界に入れておきたくない」
 わざわざ買って来させたくせにとは言わず、橘は直ぐにそれを下げるように言うと、何時もの無表情に更に輪を掛けて険しい表情
になっている江坂に向かって穏やかに言った。
 「よろしいのではないですか?」
 「何?」
 「大事な人に、一つくらいの弱みを見せることは、です」

 橘の言葉通りにしたわけではないが、仮に手袋をして餌を掴めたとしても、針に突き刺すことはとても無理だと思った江坂は、素
直に静の手を借りることにした。
 「たまには、いいと思いませんか?」
 「釣りが、ですか?」
 「こうして、昼間にデートすることです。釣りじゃなくっても、ただの散歩でも、俺、江坂さんと一緒にいられたら嬉しくて、楽しいん
ですよ」
 「・・・・・そうですね、これからは2人でこうしてデートしますか。次は釣りじゃなくて」
 「はい」
 くすくす笑う静はとても楽しそうで、彼が本当に2人で過ごす穏やかな時間を楽しんでいることが分かる。
もちろん江坂も、同じ気持ちだった。夜、食事をし、その後セックスをするのももちろんいいが、こうして2人きりでゆっくりと時を過ご
すのもいい。
(もちろん、静と・・・・・だが)
静以外の人間とこうしていても楽しいことなどあるわけが無い。彼以外とならば、リフレッシュするだろうと思われるこの時間も、ただ
の無駄な時間でしかないだろう。



 岩場でのんびりと釣りをしている2人に気付かれないように(もちろん江坂は知っているが)、周りには幾人もの護衛が配置され
ていた。
休日、それも恋人と過ごすプライベートな時間とはいえ、江坂は1人で行動することは無かった。
大きな組織の中枢を担っている彼は何時誰に狙われているとも限らない。命をというだけではなく、優秀なその頭脳を欲する別
組織が彼を拉致する可能性も否定出来ない。
 江坂の存在価値を正当に評価している大東組の現組長は、彼の為にかなり優秀な人材を割り振っているのだ。
 「氷室」
 「橘さん」
静から一時も視線を逸らさなかった氷室は、近付いてきた僅かな足音に振り向いた。
こんな場所まで江坂の片腕である橘が現れるのが不思議な気がする。
 「変わったことは?」
 「ありません」
 「千葉の降格が決定した」
 普通の会話の続きのように、橘は何時もの口調を変えずに言った。
 「多分、近いうちに動くはずだ」
 「理事を直接狙うでしょうか?」
 「手負いの獣は正常な判断をしないものだ」
 「・・・・・分かりました」
何の確信も無く、橘が物事を言うはずが無いことは知っている。彼が言葉にするということは、それも、氷室のように地位のない者
に言う時は、それなりの理由があるはずだった。



 「・・・・・」
 江坂は不意に視線を後ろに流すと、側にいる静に言った。
 「コーヒーでも買ってきましょう」
 「あ、俺が」
 「駄目ですよ。大きな魚を釣り上げた時、私には魚の口から針を抜くことが出来ませんから」
 「あー、分かりました」
笑って頷いた静に、気をつけてと一言言い残して江坂は立ち上がった。
 「・・・・・」
静に背を向けた江坂の表情は、通常彼が何時も浮かべている表情・・・・・無表情になっている。
そのまま歩いた江坂は、静から死角になる岩場に立っていた橘の側へと歩み寄った。
 「千葉の降格が決定したそうです。ここ一週間以内に本人に通達、それから下部組織、そして他系列にも連絡が来る手筈の
ようです」
 「動くなら2、3日のうちというところか」
 「今のうちなら金さえ積めばどうとでもなると思っているんでしょう。それには森下建設の資金は彼にとって魅力的なのかもしれま
せん。一応あそこは上場企業ですから」
 「身柄は?」
 「千葉と、その配下数名、それと森下には見張りを付けています。連絡は私の元に入るようにしていますが」
 「分かった」
 「・・・・・釣れていますか?」
 「夕食は静の手料理だ」
 「それは羨ましいですね」
 橘の言葉には答えず、江坂は手を差し出した。その意図を汲み取った氷室が、直ぐに熱い缶コーヒーを2つ渡すと、江坂はそ
れを持って静のもとへと戻っていく。
 「静さん」
その名を呼んだ時、江坂の顔には自然に笑みが浮かんでいた。






                                            







今日はちょっとブレイク的な話になりました。
普段の、というより、静と一緒の江坂さんは可愛いですよね(苦笑)。