peril point
8
発信機の印が一つの場所に止まった時、その場所に向かおうと思ったのは一つの賭けだった。
もしかしたら、静に付けていた3つの発信機や携帯が同じ場所に捨てられた可能性もあるが、江坂は自分の勘に掛けてみようと
思った。
そして・・・・・。
「止めろ!」
駐車場に車を滑り込ませた瞬間飛び込んできた静の姿に、江坂は反射的に鋭く叫ぶと、まだ車が止まりきっていないまま飛び下
り、駆け寄った。
「静っ!」
「江坂さん!」
静の視線が自分に向けられると同時にその身体を抱きしめた江坂は、その温もりに確かに静が生きて自分のもとへと戻ってきてく
れたことを実感した。
「無事でよかった・・・・・っ」
しかし、次の瞬間には、江坂は静の身体を自分から少し離すと、その身体に異常が無いかを鋭い視線で確認する。見た目は
どこにも傷は無く、服の乱れも無かったが、きっとその心には深い傷が刻み込まれたに違いないだろう。
「・・・・・」
一応の無傷を確かめた江坂は、次に自分の部下達が抑えた男達に視線を向けた。
首謀者である男、森下は氷室の手によってアスファルトに押さえつけられている。
「橘」
「はい」
江坂は静の身体を橘に預けると、ゆっくりと森下に近付いていった。
腰の上に氷室の片足が乗り、顔を地面に押さえつけられているというのに、森下の視線はじっと江坂の顔に向けられている。
その目の中にあるのが激しい嫉妬だということを十分感じ取りながら、江坂は真上から森下を見下ろした。
「自分が何をしたのか分かっているんだろうな」
「静は俺のものだ!小さい頃から、ずっと見てきたんだ!お前が横から掻っ攫っただけだろう!」
「横から?馬鹿なことを言うな。お前は初めから静の視界に入っていなかっただろう」
「・・・・・お前!」
「どちらにせよ、私の大切なものに手を出した報いは受けてもらおう。簡単に終わるとは思うな」
江坂が取り押さえられている森下に向かうのを見た時、静はとっさにその後を追いかけようとした。ヤクザという職業ながら、冷静
で紳士的な江坂が無茶なことをするとは思わなかったが、それでも本能的に止めなければならないと思ったのだ。
しかし、そんな静の腕を掴んで止めたのは橘だった。
「小早川君、疲れたでしょう?さあ、車で休んでください」
「あ、で、でも」
「さあ」
柔和な表情の橘はとても力があるとは思えなかったのに、自分の腕を掴んでいる手は少しもぶれることは無い。
静は半ば強引にだが、たった今江坂が降りてきた車の後部座席に押し込まれ、ドアは閉められてしまった。
(何を話しているんだろ・・・・・)
江坂は森下の側まで歩み寄って足を止め、押さえつけられている森下は辛うじて顔を上げて何か話しているように見える。
その様子が気になって仕方がなかったが、隣に座った橘は全く違う話を切り出した。
「ここに寄ったのは偶然ですか?」
「え?あ、いいえ、俺がトイレに行きたいって言って寄ってもらいました。運転している人はあまり気が進まない感じでしたが、森
下君が強引に言って・・・・・」
「向こうに人垣が出来ていたようですね」
「それは、俺がトイレでマッチを貰ったんです。火を付けるなんて本当は犯罪なんだけど、どうしても見張っている人達の視線を
逸らして氷室さんを助けたくて・・・・・」
無我夢中だった。
トイレで初めに声を掛けた初老の男性はライターしか持っていなかったが、静が車で待っている知人に持って行きたいと言うと、周
りに聞いてマッチを持っていた男性がそれを譲ってくれた。
放火が罪だということは分かっているが、どうしても切っ掛けを掴みたかった。一番ゴミが少なそうで、周りに燃えそうな物が無い
のをとっさに見てからマッチを擦ったが、もしかしたらそれが大きな惨事になった可能性もゼロではない。
静は今更ながら自分がしでかしたことに青褪めたが、そんな静に橘は穏やかに声を掛けてきた。
「小早川君のとっさの判断には敬意を表しますよ」
「でも・・・・・」
「放火の件についてはこちらの方で始末をつけます。大丈夫、放火などといえない小さなものですよ」
「・・・・・すみません」
小さな声でそう言った静は再び窓の外を見る。
先程からほとんど動いていないような江坂と森下の話が気になって仕方がなかったが、車から降りることは出来なかった。
マンションまで静を送り届けた江坂は、玄関に入った瞬間にその唇にキスをした。
車の中では静が人の目を気にするだろうと思い、手を握り締めるだけにしていたが、こうして誰の目も気にしない2人だけの空間
に入った途端、江坂はどうしても静の温もりをもう一度確認したかったのだ。
「んっ」
静も江坂の背中に手を回し、その口付けを甘受している。
かなり長くお互いの口腔内を貪った江坂は、静を抱きしめながら言った。
「私は後始末があるのでどうしても出掛けなければなりません。でも、今夜中には戻ってくるので・・・・・それまで1人でも大丈夫
ですか?」
本当は、このまま静の身体を抱きたかった。他の何も考えず、愛しい者の身体を貪り、ただ快楽の波に溺れていたかった。
しかし、今回のことは人任せにはせず、全て自分で決着を付けたいと思っていた江坂は、静を一時1人にしても、もう一度あの男
達と対峙することにした。
「大丈夫です、あのっ」
「何ですか?」
「彼・・・・・森下君は・・・・・」
「・・・・・」
静の唇からあの男の名前が出るのは面白くない。
自然に不愉快そうな表情になった江坂に、静はお願いしますと続けた。
「何か、きっと勘違いしているだけなんです。昔は、少しは強引なところもあったけど、優しいところも・・・・・っ」
「静さん」
それ以上静が森下を庇う言葉を聞きたくなくて、江坂は思わず強くその名前を呼んでしまった。
「あなたの気持ちは分かりました。ただ、私も立場上、こんな強引なことをされて黙って見逃すことは出来ません。大丈夫、素人
相手に無茶なことはしませんから」
「江坂さん・・・・・」
「疲れているでしょうから早く休みなさい」
そう言ってもう一度軽く唇を合わせた江坂は、戸惑う静を置いて自分だけ再び外へと向かっていった。
冷たいコンクリートの床に転がっている塊は2つだ。
一つはまだ若い、それなりに見目の良い男だったが、もう一つは既に中年といっていい、少しハゲ掛けた中年太りの男だった。
「こちらに」
2人共散々に殴られ、蹴られしているが、その顔だけは無傷のまま、声のした方へと怯えた視線を向けてきた。
「・・・・・」
短い階段から下りてきたのは、高価なブランドスーツを着こなした、怜悧な容貌の男だった。
眼鏡の奥の切れ長の目は冷たい光を帯びていたが、その中に深い怒りの炎が燃えていることに2人共が感づいた。
自分達がこれからどうなるのか、それは2人共に想像は出来ない。
若い男の方は、今だ未練を捨てきれない存在があるが為に、その目の光を失ってはいないが、中年の男の方は既に自分の行く
末に想像が付いているのか、顔面を蒼白にしていた。
自分が生きているこの世界で、すみませんと謝ったら許して貰えるということは無い。
相手の領域に踏み込んだのなら、それ相応の代償というものを払わなければならないのだ。
「・・・・・」
表情も無く自分達の方へと歩いてくる男がまるで死神に見えて、男はただガクガクと身体を震わせ、それでも視線は逸らすこと
が出来ずに、美貌の男をじっと凝視していた。
久し振りに千葉を見ても、江坂はそれが本当に会合で会った男だとは分からなかった。
元々興味が無かった相手だ、こんなことが無ければ顔を見ようとも思わなかった。
「・・・・・千葉」
名前を呼び捨てにすると、さすがにムッとしたような表情になった。自分よりも年下の、規模に違いはあるとはいえ、若頭の自分
と理事の江坂では自分の方が地位が上で、本来ならば敬称が付けられてもいいと思っているのかもしれない。
(自分の今の立場をわきまえていないな)
こんな男にわざわざ自分が引導を渡すことも無いとは思うが、静に手を出されたのだ、他の誰にもその役目を任せることは出来
なかった。
「弐織組が、各組に対して絶縁状を通達した。昨日付けで、千葉信吾とは一切関わりがないそうだ。同日付で、斉京会も組
長の代替わりを発表した・・・・・この意味は分かるな?」
「・・・・・」
「弐織組も斉京会もお前を切り捨てた。お前をどうしようが、どこの誰にも文句は言われない」
「なっ・・・・・!」
まさかここまで江坂が素早く動くとは思わなかったのだろう。
ますます顔面蒼白になった千葉を見下ろした江坂は、そのまま容赦なくその顎を革靴で蹴りつけた。
「ぐああぁ!」
凄まじい呻き声と同時に、鈍い響きが江坂の足に伝わった。多分、その顎の骨が砕けたかどうかしたのだろうが、こんなことで死
ぬことは無いはずだ。
「お前が他のどんな人間に手を出しても私は一切無視が出来たし、無能な人間だとしても自分に関係がなければ何と思うこと
も無かった」
「うあ・・・・・あがぁ・・・・・」
「はした金で、私の大切なものに手を出そうとした自分の判断を悔やめ」
顎の骨が駄目になったせいで、締まりきらない唇の端から血が混じった涎を流し続ける千葉を眉を顰めて見ると、江坂は床の
上の、握り締めた千葉の右手の拳の上にそのまま足を振り下ろした。
「ひぎゃああ!」
「利き手はどちらだ?左だったか?」
「や、やめ・・・・・っ」
「・・・・・私に抵抗する気概も無いのか?・・・・・つまらん」
「うがっ・・・・・ああぁぁ」
吐き捨てるように言い放った江坂は、千葉の腹を蹴った。
千葉の口から鮮血が溢れ出て、内臓が傷付いたことが分かったが、江坂はもうそれ以上この男に用は無かった。
「弐織組と斉京会にはそれなりの慰謝料を頂くことになった。千葉、私はお前を殺さない。面子を潰された組織が、私の代わ
りにお前の始末をしてくれるだろう。汚い血でこの手を汚したら、静を抱きしめることが出来なくなってしまうからな」
江坂が目線で合図をすると、部下が血を吐きながら呻いている千葉を無理矢理立たせ、外へと連れて行った。
今からあの男を斉京会の縄張りに連れて行き、放置させることになっている。後は、こちらが何もしなくても、向こうの組織が勝手
に千葉を始末するだろう。
面白くは無い出来事だったが、これで弐織組の中でも自分の名前が浸透することになるはずだ。江坂の情夫には手を出すな、
そんな当然のことがそのまま広まればいい。
「・・・・・」
そして、江坂はもう一つの塊、森下に視線を向けた。
本来、千葉よりももっと憎悪を向けなければならない相手だ。
「静は私のものだ」
「・・・・・っ」
そう言った瞬間、森下の射るような眼差しが向けられる。
部下達に相当痛めつけられたはずなのにまだそんな表情が出来るのかと、森下の中での静の存在の大きさに江坂は舌を打ちた
い気分だった。
「静は私のものだ」
「・・・・・っ」
憎い男は自分を見下ろしながら宣言するように言い放った。
「お前が幾ら静に想いを寄せても、あれの目がお前を見ることはないし、あの身体を抱くこともお前は叶わない」
「お前!」
「分かっていたことだろう?私は静を抱いている。あの白く細い足を大きく広げ、小さな尻の穴に私のペニスを捻じ込んでいる。
静の中は、心地良く、熱く、私を締め付けてくれるぞ」
「言うな!」
静の綺麗な身体は自分が手に入れるはずのものだ。たとえ今目の前の男が静の恋人の位置にあったとしても、静の身体はまだ
綺麗なままだと思っていたかった。
それが、こんな風に際どい表現で静とのセックスを感じさせられると、森下の頭は嫉妬と怒りで沸騰しそうだ。
「お前のような言葉の通じない者には、実際に私が静を抱いているところを見せた方が早いんだろうが、あの身体をお前などに
見せることはしたくないしな」
「う・・・・・」
「・・・・・静にとっては、お前はもう過去の人間だ」
「・・・・・」
「過去の人間が、ここにこうして生きていることは不思議じゃないか?」
男の表情は全く変わることが無い。
淡々としたその物言いの中でも、静に対しての情熱だけは感じ取れるのが悔しかった。自分にとって静が特別な存在であるよう
に、この男にとっても間違いなく静は特別な存在なのだろう。
(ヤクザ・・・・・なのに・・・・・っ)
静を幸せに出来る位置にいるのは自分で、この男は他人から後ろ指を指されるような立場にいるはずだ。
だが、この自信に満ちた男に自分が勝てるかどうかと言われれば、直ぐに頷くことは出来なかった。
「・・・・・そっ」
「本来は、お前の指を全て切り落とし、目を潰して、船にでも乗せるところだがな、一応お前は素人で、後々厄介なことになっ
ても煩わしい」
「こ、殺さないのか?」
「死ぬほど楽な罰は無い。お前の親にも、それ相応の制裁はさせてもらうつもりだし・・・・・お前にはどんな罰が一番その身にこ
たえるんだろうな」
「あ・・・・・あぁぁぁ・・・・・っ」
表情を動かさずに自分の処罰を口にする男が、森下にはまるで悪魔のようにさえ思えた。
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これ以上書くかどうかは検討中(汗)。
次回は2人の甘い時間も書くと思います。危機の後は燃えるものですよね。