竜の王様
第一章 沈黙の王座
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※ここでの『』の言葉は竜人語です
「トーエン、先程の滝に行ってもいいでしょうか」
碧香に着せるという服を取りに立ち上がったトーショーの背中を見送りながらそう言うと、トーエンは直ぐに自分も一緒に行こうと言っ
てくれた。
「いいえ、1人で参りたいのです」
「何か、あったのか?」
碧香の事を心配してくれる気持ちがヒシヒシと伝わり、それだけで嬉しくなる碧香だったが、今からすることはまだトーエンには見られた
くなかった。
(私が、コーヤと意思が通じるかどうか、今はまだ分からないから・・・・・)
きっと、竜人界に行ってしまったコーヤと連絡が取れるかもしれないと言えば、トーエンは喜んでくれることは分かっている。
だが、今はまだ出来るかもしれないという段階で、はっきり出来るとはまだ言えないのだ。
(トーエンも一緒にいて、出来なかったとしたら・・・・・きっと悲しんでしまう)
トーエンのそんな顔は見たくない碧香は、先ず1人で試してみたかった。
「あの場所の気はとても心地良いのです。お願いです、トーエン、1人で行かせてください」
「・・・・・」
「この場所には危険は無いのでしょう?」
「・・・・・分かった」
じっと碧香の顔を見つめていたトーエンは頷いてくれた。
どう言っても碧香の気持ちが動かないであろうと思ったらしい。
「ただ、側までは俺も付いて行く。滝が見える場所まで行ったらそこで待っているから」
「はい」
アオカが何を考えているのかは龍巳には分からなかった。
ただ、頼りなげな見掛けとは違い、彼がとても意思の強い人物であることは分かる。
あれだけ縋るように自分を見ていたアオカが、こんな風に言うということは、1人であの滝に戻ることに何らかの意味があるのだろう。
龍巳はそれを邪魔するつもりは無かった。
「おじい様、とても優しい方ですね」
「アオカにだけだ。俺には厳しいよ」
「そうなのですか?」
「ああ。あ、昂也も優しいって言ってた。子供には好かれるのかな」
「・・・・・」
「・・・・・」
(あ、拗ねた)
柔らかなアオカの容貌・・・・・その綺麗な眉が少しだけ顰められた。
見た目は14,5歳で、龍巳が子供といってもおかしいのだが、アオカ自身も自分を子供とは思っていないようだ。
こんなちょっとした表情が、なんだか自分達と近いと思わせてしまう。
(本当に・・・・・竜人なんているのか・・・・・?)
「トーエン、ここまででいいですよ」
何時の間にか、少し先に滝壺が見えた。
アオカは立ち止まると、龍巳を見上げながら言った。
「ここでお待ちください」
「ああ」
そのまま、アオカはゆっくりと滝壺に向かっていく。
彼が今から何をしようとするのか、龍巳はじっとその後ろ姿を見送っていた。
(ああ・・・・・やはりここが一番良い)
慣れればどこでも可能になるという意思の交感だが、一番最初はやはり澄んだ気の場所が最適だろう。
この滝壺は竜人界の地下神殿と同じ様な気を発しているので、碧香はこの場所からコーヤに呼びかけてみようと思った。
「・・・・・」
冷たい水の中に、そっと足を踏み入れる。
この冷たさが心地良くて、碧香の足は迷い無く腰が浸かるまで滝壺の中に入っていった。
「・・・・・」
ゆっくりと、目を閉じる。
滝の水音と、木々のざわめき。
耳に届いていた音が、神経を研ぎ澄ませて行くうちにどんどん小さくなっていく。
(コーヤ)
碧香は、頭の中で昂也の名前を呼びかけた。
今、コーヤがどういった状態にあるのかは分からないが、自分達の心が同調すれば、きっとこの声は届くはずだ。
碧香が人間界に来て、その代わりのように竜人界へと呼ばれたコーヤ。
コーヤが選ばれたのには意味があり、自分とコーヤはきっと共通する何かがあるのだ・・・・・そう、信じた。
(コーヤ)
会ったこともない相手の名前を、碧香は何度も呼んだ。
トーエンも、トーショーも、愛おしそうに呼んだあの名前の主に、何とか自分の声を届かせようと一心に祈った。
そして・・・・・。
「・・・・・っ」
自分の身体の中に同化したはずの鱗石が熱くなったと感じた瞬間、
《うわあぁ!》
聞き覚えの無い少年の声が頭の中に響いた。
(・・・・・これが、コーヤ?)
《うわっ、何で頭の中に響くんだっ?》
トーエンの言葉から想像していた通りの、元気が良い、生き生きとした声。
目を閉じた碧香の頭の中には鮮やかにその姿が浮かび、思わず頬に笑みを浮かべてしまった。
(コーヤ、聞こえますか?)
《ま、またっ?》
だが、声が通じて嬉しい碧香とは違い、コーヤは何の意味も分からないのだろう。焦って途惑う気配が感じ取れるが、碧香はとにか
く早く兄と話をしたかった。人間界の言葉が分かるようになった碧香とは違い、コーヤは多分混乱している状態だ。
少しでも早くコーヤにとって居心地の良い環境を整えてもらわねばならなかった。
わけが分からないと動揺するコーヤに、碧香は口を貸して欲しいと伝えた。
本来は気味が悪いと思っても仕方が無い状況を、コーヤは一瞬で受け入れてしまったらしい。
柔軟なその思考に感謝して、碧香は更に自分の意識をコーヤと同調させる為に研ぎ澄ませ・・・・・。
【兄様】
自分の声ではなかったが、ちゃんと自分の意思で話すことが出来た。
「碧香!碧香なのかっ?」
【兄様・・・・・】
まだ竜人界を出て間もないというのに、既に懐かしく聞こえてしまう兄の声に、碧香は閉じた瞼の裏で涙を浮かべてしまった。
姿は見えないものの、兄の心配する顔は見なくても分かる。
【兄様、碧香は無事に人間界に来る事が出来ました。とても優しい協力者にも出会えています】
「碧香・・・・・」
【私の代わりにそちらに行ったのは、コーヤという少年です。兄様、コーヤに優しくして下さっていますか?】
兄、紅蓮の返事は無い。
碧香はああやはりと思ってしまった。
なぜか極度の人間嫌いである兄なら、たとえ自分達の都合で呼び寄せてしまった人間に対しても最低限の世話しかしていないだろ
うと。自分がトーエン達にとても良くしてもらっているので、兄には出来るだけコーヤに優しく接して欲しいと思う碧香は、哀願するよう
に兄に訴えた。
【兄様、どうかコーヤを労わってください。私達の勝手で、彼は理不尽にもそちらの世界に行ったのです。私達には彼をもてなす義
務があるのですよ】
「・・・・・分かった」
あからさまに渋々という感じの声が返ってきた。
兄が碧香の言葉に同意したくないと思っているのは良く分かるが、口だけでも一度頷いた事を兄は翻すことは無いだろう。
次期竜王としての矜持がそうさせるのだろうが、今はその矜持の為でも構わない。
(とにかく、兄様にはコーヤをその視界の中に入れていただかないと)
先ずはそこから始めなければ先に進めない。
【それでは、兄様、そろそろコーヤに肉体を返さなければならないので】
「碧香っ」
【コーヤと意思の交感や同調が出来ることが分かりました。また、コーヤが許してくださったら、お話をしましょう】
「碧香!」
【お身体、お気をつけてくださいませ】
碧香はそう言うと、ふっとコーヤとの同調を解いた。途端に、碧香の頭の中に、コーヤの途惑いが流れ込んでくる。
(コーヤ、勝手に身体を使ってごめんなさい)
《それは、いいけどさ・・・・・俺、いったい何が何だか・・・・・》
(コーヤが分からないのも当然です。これは私達竜人の勝手な都合なのですから。本当は説明をきちんとしたいのですが、初めての
交感をあまり長く続けてはあなたが疲れてしまうので・・・・・また、時間を置いて)
《お、おいって!》
そこまでが、限界だった。
コーヤ同様、碧香にとってもこの交感はかなり精神を消耗するものらしく、そこでプッツリと昂也との交感が途切れてしまった。
「アオカ!」
誰かが、名を呼んでいる。
力強い手が崩れ落ちる寸前の自分の身体を抱きとめてくれたと思った途端、碧香は意識を失ってしまった。
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