竜の王様
第一章 沈黙の王座
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※ここでの『』の言葉は竜人語です
「あ、お帰りなさい、東苑」
「ただいま、碧香」
祖父である東翔の家の玄関の開きを開けた瞬間、にこやかに掛かる声。
龍巳は少し気恥ずかしい思いをしながらその声に答えた。
「ただいま、碧香」
碧香が龍巳の目の前に現れてから10日程経った。
その間碧香はかなりのスピードでこの人間界の・・・・・と、言うよりも日本の常識を吸収していった。
(ここまでくれば、少し変わった箱入りぼっちゃんで通るな)
ちょっとした日常生活のことから。
簡単な読み書きまで。
それまで龍巳や東翔の名を呼ぶ時も少したどたどしい発音だったが、今は漢字の形や意味も理解している。龍巳という苗字が竜と
同じだと知った時は、目を輝かせて嬉しそうに笑っていた。
そして、龍巳も、碧香から竜人界の事を色々聞いた。
龍巳の場合は全て想像になってしまうが、碧香から聞く竜人界はとても興味深いものだった。
先ずは、碧香の名前のこと。
碧く香るという意味は、碧香にピッタリの名前だと思った。
碧香の亡くなった父親の事、厳しいが優しい兄の事、そして、側近といわれる4人の話や、民のことなど。
龍巳はそれを昂也に教えてやりたかった。
日本にいる自分が竜人界の事を知るよりも、今現在向こうの世界にいる昂也の方がどれだけこれらの情報が必要なのか・・・・・。
(でも、碧香にはこれ以上無理を言えないしな)
「トーエン、私はコーヤと意思の交感が出来ました」
碧香の言葉は、龍巳にとっても驚くことだった。
竜人界に行ってしまった昂也とは容易に連絡などとれないと思ったが、この事実は龍巳にとっても一筋の眩しい明かりだった。
しかし、この交感というものは、碧香の身体にはとても負担になるものだということも、今回の事で分かった。
昂也も碧香と同じ様に細身だが、幼い頃から喧嘩慣れして今も走り回っている元気者と、いかにも家の中から出たことが無いような
大人しやかで繊細な様子の碧香とは体力は全然違うのだろう。
碧香は何とか直ぐに再度昂也と連絡を取ろうとしてくれたが、龍巳は直ぐにそれを止めた。
昂也と連絡を取る手段があるということが分かれば安心で、先ずは碧香の体力が戻ることが最優先だと告げたのだ。
それから。
東翔の家から一歩も外に出ないまま、碧香は知識を吸収していった。どうやらそろそろ本来の目的である紅玉を探そうと思っているら
しい。
もちろん、龍巳も手伝うつもりだった。
「お疲れ様でした」
「お疲れって・・・・・学校に行ってただけなんだけどな」
「・・・・・」
学校・・・・・同じ年頃の人間達が数多く学問を学ぶ場所。
竜人界にも、神官や役人を目指す神学院と、武術全般を学ぶ武学院があるが、年齢もその期間も統一性は無い。
はっきりとした能力主義なので、力が無いとみなされれば、直ぐに学院を追われてしまうのだ。
それに、学院は学ぶ為の場所で、そこで友人を作ったり、誰かと一緒にどこかへ行ったりということもほとんど無い。
碧香は龍巳が教えてくれる学校の話が、今は何よりも楽しかった。
「じい様は?」
「御神体に祈りを捧げられるそうです」
「ああ、奥に行ってるのか」
そう言いながら中に入ってきた龍巳が、すっと碧香の横を通り抜けた。
「・・・・・」
(東苑は日の匂いがする)
竜人よりは幾分小柄ながら、この人間界では大きな方だという龍巳。碧香を軽々と運んでくれる力もある。
兄紅蓮以外とこんなにずっと一緒にいた記憶がない碧香は、すぐ隣にいる龍巳の気配に途惑いながらもどこか安心していた。
「碧香、今朝じい様とも言ってたんだけど」
「はい?」
「碧香の探す紅玉は、この日本・・・・・それも、結構近くにあると思うんだ」
「え?」
目を丸くして聞き返した碧香に、龍巳は上着を脱ぎながら振り返った。
「碧香の話からすれば、この人間界には数ははっきりしないけど、竜人の末裔がいるということだろう?それは多分、俺が住んでいる
日本だけではないだろうし、世界中のどこにいてもおかしくは無い。それなのに、碧香がここの滝の中から現れたんなら、紅玉の何かが
碧香を引き寄せたんじゃないかって」
「・・・・・そうですね」
(確かに、私がここに来たのには意味があるはず・・・・・)
何人いるかも分からない竜の末裔。その中からこの地を選んだのならば・・・・・。
「何か探す手掛かりはあるのか?」
「それが・・・・・はっきりは分からないのです」
「分からない?」
「竜人界にそれがあった時は、綺麗な球の形をしていました。でも、その玉が輝くのは次期王となるものが現れた時と、その者が近
付いた時だけ。ただの竜人である私が近付いても何の変化もありませんでした」
「王族なのに?」
「翡翠の玉は王の証。王が手にして初めて力を発するものですから・・・・・」
(兄様だって、今頃は・・・・・)
全く未知の世界といってもいい人間界で紅玉を探すのと。
何時どこに裏切り者が潜んでいるかも分からない竜人界で蒼玉を探すのと。
いったいどちらがより大変なのかは碧香にははっきりと分からなかった。ただ、兄は玉探しだけではなく、父王亡き今の竜人界の政も
全て取り仕切っている状態なので、その大変さは碧香の想像以上だろう。
(兄様・・・・・)
碧香は龍巳に見られないように小さな溜め息をついた。
「え?外に?」
「・・・・・大丈夫なのか?」
奥の神殿から戻ってきた東翔が、龍巳を見るなり碧香の外出を進言した。
「もうそろそろ外に出てもかまうまい。どうだ、碧香」
「私は・・・・・」
碧香はチラッと龍巳を振り返った。
いずれはそうしなければ・・・・・いや、それは一刻も早い方がいいとは分かっていても、見知らぬ世界に飛び出す勇気は相当必要な
のだろう。
龍巳は一瞬、まだ早いのではないかと言い掛けて・・・・・止めた。
これは自分がどうこう言うのではなく、碧香自身が決めなければならないことだからだ。
「・・・・・」
碧香はしばらく龍巳の顔を見ていたが、龍巳が何も言おうとしないのが分かると少し間を置いてから答えた。
「では、明日から」
「いいか?」
「はい。私はこの人間界に紅玉を探しに参りました。何時までも東苑や東翔殿の手を煩わすことは出来ません」
「碧香」
「・・・・・ただ、一番初めだけは、東苑、私と一緒にいて下さいませんか?1人でも大丈夫だと、私自身が思う為に」
「もちろんだ」
龍巳は碧香と共に紅玉を探すのは当然だと思っていた。
今回の件に自分が無関係ではないと自覚しているからだ。
(碧香が俺の前に現れたのも、昂也が向こうの世界に行ったのにも、きっと意味があるはずだ)
毎日行く学校の友人達の頭の中からは、昂也の存在はすっぽりと抜け落ちていた。
ポツンと空いた机が教室の中にあっても、誰も不思議だと思う者はいない。
(あれは、昂也の席なのに・・・・・)
頭の中にしっかりと昂也の存在を覚えている龍巳にとって、皆に合わせてそれを無視することは苦痛で仕方が無かった。何気ない言
葉の中で昂也の名前を言いそうになるのも一度や二度ではない。
その度に、唇を噛み締めていた龍巳は、一刻も早く大切な存在を自分の側に取り戻したいと思った。
その為に自分が出来ることは何でもしたい。
「早く紅玉を見つけよう」
「東苑・・・・・」
「碧香も、早く自分の世界に戻りたいと思っているだろう?」
「・・・・・はい」
一瞬、言葉が詰まったような気がしたのは気のせいか・・・・・。
「碧香?」
「ありがとうございます、東苑。宜しくお願いします」
「ああ」
「じい様、心当たりの場所は?」
小さな玉を探すのには、何らかの作戦は必要のはずだ。その助言を素直に問うてきた龍巳に、東翔はもったいぶることも無く自分
の考えを述べた。
「とりあえずだが、先ずはこの山をくまなく探そう。碧香はその方法は無いと言ったが、竜人界の王族の人間が側に近付けば何らか
の変化があったとしてもおかしくは無い」
「そうか」
祖父東翔の言葉に思わず身を乗り出しながら話を聞いている龍巳。
これからのことを話すのに夢中だった龍巳は、碧香の表情が少し寂しそうに曇ったことに気づくことが出来なかった。
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