竜の王様
第三章 背信への傾斜
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※ここでの『』の言葉は竜人語です
「う・・・・・っつ」
碧香は蹲る龍巳の身体を抱きかかえるようにすると、激しく岩壁にぶつかった背中に視線を向けた。
ごつごつと突き出ていた岩のせいか、龍巳の服は破れたところから僅かな血が滲んでいる。それだけでも、男・・・・・琥珀が力を加減
していなかったということが分かった。
(私に対して・・・・・それ程に憎しみを抱いているのか・・・・・っ)
男が力をぶつけたのは碧香に向けてであって、琥珀は碧香に対しても手を抜こうとはしなかった。
碧香が第二王子と知った上でのこの行為は、どう考えても現王族、紅蓮と碧香への反意だ。
『なぜですっ?東苑はあなた方とは全く関係のない人間なのに!』
『浅葱から聞きましたよ、その男には僅かながら竜の血が混じっているようだと。人間ごときに尊い我らと同じ血が流れているとは不
本意だが、あなたに力を貸すとなれば今のうちに消し去るというのは当然の結論でしょう』
『殺すと・・・・・いうのですか』
『今更我らの仲間になれと言って、その人間が従うとはとても思えない』
『・・・・・っ』
碧香は強く龍巳の身体を抱きしめた。
もちろん、ここで殺させるつもりは無かったし、何より龍巳と約束したのだ。
(私は、容易に命を投げ出すことは・・・・・しないっ)
碧香は何度も十分に落ち着けと自分自身に言い聞かせ、男の顔を真っ直ぐに見据えた。
感情が読み取れない無表情の中で、それでもその目の中には碧香への、そして紅蓮への憎しみを湛えている琥珀の真意は何か、
碧香ははっきり知っておかなければと思った。
『あなた方の目的は、あの朱里という少年を王位に就けることですか?あの者にも力はあるとはいえ、人間だということには変わり
が無いのですよ』
『確かに、朱里には愚かな人間の血が混じってはいるが、それを考えたとしても皇太子が王座に就くよりはよほど竜人界は発展す
るでしょう。碧香殿、あなたにはやっていただきたいことがある』
『・・・・・』
『皇太子紅蓮との交渉役を、あなたに頼みたい』
願いと言いながらも、琥珀の言葉は断定的で、けして碧香に否とは言わせないような雰囲気がある。
どうすればいい・・・・・碧香が唇を噛み締めた時、腕の中の龍巳の身体が身じろぎ、碧香と名前を呼んできた。
「こいつは何と言っているんだ?」
言葉が分からないことがこれほどもどかしいとは・・・・・。
碧香を助ける事に必死で、自分の身体の防御を少しもしなかった龍巳は、岩壁に叩きつけられた時に一瞬息が止まってしまうほど
の衝撃と痛みを感じたが、碧香に抱きしめられているうちにその気が自分の痛みを和らげてくれていることに気付いた。
(琥珀・・・・・こいつは、さっき会った奴らとは違う・・・・・)
先程対峙した浅葱と朱里。
朱里はまだまだ力が定まってはいないようだったし、その言動だけでも子供だということが容易に想像出来た。
浅葱も、確かに敵意は感じたものの、それでも碧香に対しては自分の国の王子というような態度を残していた。
しかし、目の前にいるこの男にとっては、碧香は王子という敬うべき相手とはとても思えない態度だ。
言葉の意味は分からないまでも、碧香に対して何か要求している風で、龍巳は碧香が頷いてしまう前にその内容を自分も知りたい
と思った。
「碧香」
「東苑っ?」
ホッとしたような、泣きそうな碧香の顔に、龍巳は安心させるように笑い掛けながら言った。
「何を言われた?」
「・・・・・」
「俺にも話してくれ」
碧香の逡巡は一瞬だった。2人で考え、解決していこうという言った龍巳の言葉をちゃんと覚えてくれていて、それを律儀に守ってくれ
ようとしているのか、碧香は龍巳の身体を抱きしめたまま呟くように言った。
「私を、兄との交渉役に・・・・・」
「交渉?・・・・・って」
(竜王をあの朱里にしろってことを?)
確かに、弟の碧香が交渉役に立てば、、兄である紅蓮は必ずその席には座らなければならないだろう。あくまでもそれは、紅蓮が
碧香の言うように優しい兄だったら・・・・・だが。
(まさか、自分の世界の為ならば兄弟も見捨てるなんて・・・・・ないよな?)
「碧香、お前、どうする気だ?」
「・・・・・」
「その申し出、受け入れるのか?それとも・・・・・」
「・・・・・どうしたらいいのか・・・・・迷っています」
「迷う?何に?」
「・・・・・この者達と兄が、きちんと話し合うことは大切だと思います。ただ、本当に話し合うだけならばいいのですが・・・・・もしも、も
しも力のぶつかり合いになったとしたら・・・・・」
どうなるのか分からない・・・・・そう呟く碧香の危惧は龍巳にも想像が出来た。
こうして対峙しているだけでも琥珀という男の潜在的な力の大きさは感じ取れるし、次期竜王となる碧香の兄の紅蓮も、相当な力
の主だろう。その2人が対峙したら・・・・・。
(いったい・・・・・どうなるんだ?)
『話し合いはついたか、碧香殿』
『琥珀、私は・・・・・』
『否と言っても、頷いていただくが』
「碧香」
碧香が目の前の男に何か言い掛けた時、龍巳はその腕を掴んで言った。
「交渉すると言ってくれ」
「え?」
「ただし、そこには俺も同席するというのを条件にしてもらってくれないか?」
「東苑?」
碧香が1人で相手方に向かうということは絶対に頷き難い。自分がどれだけ碧香の助けになるかは分からないが、いや、もしかしたら
足手まといになるだけかもしれないが、自分だけが離れて心配で胸が押しつぶされるよりは、その場にいて何時でも碧香の前に立て
るようにしたかった。
龍巳の言葉は嬉しいが、本当にそうしていいのかどうか分からなかった。
(この者達が、東苑に何もしないとは限らないし・・・・・)
『どうするのだ、碧香殿』
『・・・・・』
『諾か、否か』
『・・・・・交渉は、どこで行われるのですか』
『竜人界だ。ここでも十分我らの力は通用するが、清浄な空気の少ない人間界は居心地が悪い。それに、考えれば竜人界は現
王族の為にだけ存在するのではない。我らが逃げる必要は無いだろう』
(竜人界で?)
自分が竜人界へ戻ったら・・・・・。
『今、私の代わりに竜人界に行っている昂也は・・・・・彼はどうなるのですか?』
『・・・・・だから、王族の人間は頭が固く、愚かだというのだ、碧香殿。ここにいる我らの身代わりが、その数だけ竜人界に行っている
と思うか?』
『え・・・・・?』
『存在の入れ替えがなくとも、2つの世界を行き来することは出来るのだよ』
『そ、そんなことが、まさか・・・・・っ』
『もちろん正当な方法ではないが』
確かに、碧香が取った方法は、王族だけに伝わる方法だった。次元を越えることが出来るのは王族だけであったし、その存在の代
わりに、人間が竜人界へ行かなければならないことも決まっていると思っていた。
まさか、他にも方法があったとは・・・・・。
『い、いったい、その方法とは、どういうことなのですか?』
『我らは覚悟もなく、この人間界にやってきたわけではない。この地と竜人界を自由に行き来する為に、この血に自分の欠片を残
している。自分の血がその地にあれば、力のある我らは自由に次元を超えられる』
そう言って、琥珀は碧香の面前に左手を翳してみせる。
そこには・・・・・本来あるはずの指が・・・・・いや、手首が無かった。
『そ、それは・・・・・』
『浅葱』
目を見張る碧香の前で琥珀がその名を呼ぶと、何時の間にか朱里を連れた浅葱が姿を現した。
『お前も見せてやれ』
『・・・・・』
琥珀の言葉に、浅葱は黙ったまま右側の銀髪をかきあげる。そこに・・・・・耳は無かった。
(こいつら・・・・・いったい・・・・・)
碧香に対して何か言いながら、差し出した男の手には手首が無かった。続いて現れた男も、髪をかきあげたらそこにあるはずの耳
は無かった。
そこは醜く引き攣れた痕になっていて、2人共(系統は違うが)美貌の主だけに、妙にその傷痕に目が行ってしまう。
「碧香、こいつら・・・・・」
「・・・・・」
直ぐ側にいた碧香を見上げれば、その顔は真っ青に引き攣っていた。竜人界とは無縁の自分もこれほど驚いているのだ、涙を流す
ことも出来ない衝撃が碧香を襲っているのかもしれない。
「碧香」
「・・・・・竜人界に、行くことになります」
「え?」
「私は、何も見なかったことにはもう・・・・・出来ない。自分の身体を傷付けるほどの覚悟をして兄に対峙しようとしている彼らの味
方などはとても出来ませんが、その意思は兄に伝えないといけないと思います。兄は竜人界を治める立場になるのですから、全てを
受け止めなければ・・・・・」
「・・・・・」
「東苑、私は・・・・・」
「もちろん、俺も連れて行ってくれるよな?」
「・・・・・竜人界になら、兄も・・・・・他の者も、私を助けてくれる者はいますので・・・・・」
その碧香の言葉が指し示すことは龍巳も感じ取れた。それでも、その碧香の優しさに、自分だけが解放されることは受け入れること
が出来なかった。
「それでも、俺は碧香を守ると誓った」
「・・・・・」
「向こうの世界にどれだけお前の味方がいても、俺は自分の手で守りたいんだ」
「東苑・・・・・」
「いいな、碧香。俺の同行が条件だと伝えてくれ」
未知の世界の竜人界。全く怖くないとは嘘でも言えなかった。
しかし、昂也は全く何も知らないままで向こうの世界に行ってしまっているのだ。
(そうだ、昂也とも会えるのか)
どんな土地でも、きっと昂也らしく頑張っているあの姿を見れば、自分の力も勇気も増すはずだ。
龍巳はまだ迷っているらしい碧香の手を握り締めると、促すようにきっぱりと頷いてみせた。
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