竜の王様
第三章 背信への傾斜
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※ここでの『』の言葉は竜人語です
碧香の話に龍巳はもう驚くことは無かった。
それはある程度予想出来ていたことだし、自分も覚悟をしていたことだからだ。
ただ、やはり身体の一部というと、どこにすればいいのかと考えてしまう。それは、自分の恐怖や躊躇いというよりも、そんな自分の姿
を目の当たりにした周りの人間の反応を気遣ってだ。
事情を察することの出来る父や祖父はまだいいが、何も知らない母はどう思うだろうか。
これから会えるだろう昂也が、自分のその姿を見てどう思うだろうか。
そして・・・・・なにより、そんな龍巳の姿を自分の責任のように思ってしまうだろう碧香の気持ちを考えて・・・・・龍巳は自分の身体の
どこを犠牲にしていいのか迷った。
(出来れば、目に見えない・・・・・)
「碧香」
「はい」
じっと、龍巳の反応を待っていた碧香は、緊張した面持ちで答えた。
「それは、五感でもいいんだろうか?」
「ゴ・・・・・カン?」
「見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。人間にとって、あ、碧香達もそうかもしれないけど、この5つの感覚って凄く大事なんだよ。その
中の1つを、代償に出来ないかな」
目が見えないことも、話せないことも、匂いも味も分からないことも、触れる感触が分からなくても。
どれも、身体の一部を無くすということと同等に大変なことだが、外見的に分からないだけに、周りにとって多少いいかもしれない。
「味覚・・・・・俺の中のその感覚をこの地に留めて、向こうの世界に行くことは出来るか?」
真剣な眼差しを自分に向けてくる龍巳に、碧香は一瞬言葉に詰まってしまった。
身体の一部を犠牲にすることはもちろん大変なことだが、人間が、いや、竜人も持っているその感覚というものを失ったとしたら・・・・・
それも大変な喪失感のはずだ。
「碧香」
「・・・・・東苑は、本当にそれでいいのですか?」
「絶対に碧香の傍にいる。碧香が駄目だって言っても、絶対に離れない」
嬉しい龍巳の言葉。
それが、龍巳にとってどれ程の犠牲を払うか分からないことであっても、自分を守ってくれるという気持ちが嬉しくてたまらない。
「・・・・・やってみましょう」
「うん」
「・・・・・」
(東苑が共に来てくれるのならば・・・・・私は、東苑以上の覚悟をするつもりだ)
先ほど龍巳に伝えた、傷付けたくないという言葉は取り消すつもりは無い。
今回のことで龍巳が自分の身体を傷付けることはないし、かといって、龍巳が望むように、碧香も共に竜人界へと戻りたいと思う。
別々の2つの身体を、自分だけの力で何とか竜人界へと運び、そして再び、人間界へと戻れるように出来ないだろうか。
もう、時間は無い。
碧香はその手段を必死で考えた。
その夜、父と祖父には、明日竜人界へと旅立つことを伝えた。
昂也と違い、龍巳はいなかった存在ということではなく、行方不明という形になるはずだ。その間の母や学校へのフォローは2人に頼
むしかない。
もちろん遊びに行くわけではないし、自分達が住むこの日本とはまるで違う世界へと行くことは頭の中では分かっているのだろうし、心
配もしているだろうが、それでも行ってこいと言ってくれた。
「お前は少々傷付いても構わんが、碧香はちゃんと無傷でここに連れて帰りなさい」
祖父の言葉を思い出して思わず苦笑した龍巳に、碧香はどうしたのですかと首を傾げた。
「いや・・・・・うちの連中は美人には弱いと思って」
「え?」
「心置きなく竜人界へ行けるなと思って」
今、龍巳と碧香は、昨日琥珀が指定した時間に再び山へと足を向けていた。
そろそろ、空が赤く染まる時間で、周りには誰かがいる気配もない。
「少し、冷えるな」
「・・・・・気が高まっています」
「もう準備を始めているってこと?」
「時空の扉を開かねばなりませんから。今回は昨日の地下洞窟の・・・・・多分、あの水の中に開くつもりなのでしょう」
「じゃあ、あの水の中に飛び込むのか」
感覚としては、そのままでは溺れてしまうのではないかとも思うが、多分、そんな意識を感じないほど一瞬のうちに移動をするのだと
思う。
碧香の話でしか知らない竜人界。昂也がたった1人で頑張っている未知の世界。
龍巳はもう、恐怖や不安を抱く暇も無かった。
洞窟の口は昨日と変わらずに開いていた。
碧香は龍巳に手を引かれて、ゆっくりと地下へと進んでいく。
(兄様は、考えてくださっているだろうか・・・・・)
昂也の口を借りて戻ることを伝えたが、兄はちゃんと万全の態勢を整えてくれているだろうか?
(紫苑のことを話せなかったけれど・・・・・多分、話さなくてもいいのかもしれない。紫苑が、兄様を裏切るはずが無い)
兄の周りを固めている四天王。その実力もそうだが、彼らの王家に、いや、皇太子紅蓮に対する忠誠心は驚くほどに強い。その一
角を担う紫苑が、裏切るはずがないと信じたかった。
そして・・・・・。
「あ、来た」
「・・・・・っ」
楽しそうな少年の声。
『本当に来たのか』
僅かに揶揄するような琥珀の声。
『・・・・・仮にもまだ我が竜人界の王子でいらっしゃる。言葉を慎むように』
そして・・・・・そこには、叔父、聖樹の姿があった。
『叔父上・・・・・』
本当は、ここにいて欲しくなかった人物、聖樹の存在に、碧香は思わずというように溜め息を漏らした。
(やはり、今回のことは全て叔父上が・・・・・)
聖樹は顔を歪める碧香を平然と見ていたが、やがてその視線を碧香の直ぐ隣に立つ龍巳へと向けてきた。
『人間の同行を求めてきたと聞いたが、やはりその男か』
『・・・・・っ』
はっとした碧香が反射的に龍巳を庇うようにその身体の前へと立ちふさがった。
緊迫した空気の中、男・・・・・確か、碧香が叔父だと言っていた男が自分の方へと視線を向けてきた。
ただ見られているだけなのに、背中まで粟立つような緊迫感が襲ってくるが、碧香が自分の前へ庇うようにして立つのを見ると、龍巳
はその身体をそっと押し退けた。
「大丈夫だから」
「東苑」
『碧香、ここに時空の扉を開いておるが、その人間を本当に連れて行く気か?幾らかは王族の血を引いている者とはいえ、幾度も
2つの世界を行き来出来るという保障は無い』
『・・・・・分かっています。その方法は、昨日そこにいる琥珀より聞きました。自分の身体の一部をこの地に残せば、身代わりなど関
係なく行き来が出来るようになるとのこと』
『いかにも・・・・・』
そう言った聖樹は、片手で自分の身体に触れた。
『私は臓器の一部を犠牲にしている。力が無い者ならば死ぬこともあるだろうが、そのようなことを恐れていてはこの大事は成功せぬ
ということだ。碧香、お前のようなただ守られてきただけの者にその覚悟はあるのか?』
揶揄するというよりも、碧香の覚悟の程を確かめるような口調。もちろん、碧香は直ぐに頷いた。
『我が竜人界の為ならば、この身を傷付けることは厭いません。叔父上、私も竜人界の王子として生を受けた者、その覚悟は何
時でも出来ております』
『・・・・・では、我らは先に。朱里』
聖樹がその名を呼ぶと、朱里は軽い足取りで駆け寄ってその身体に手を回す。
次の瞬間、
『!』
朱里を腕に抱いたまま、聖樹は地下水の中に飛び込んだ。
続いて、琥珀、浅葱が、水の中へと足を踏み入れる。
波立った水面は、直ぐに何も無かったかのように穏やかになった。
(本当に・・・・・あれで向こうの世界に行ったのか?)
そうだと言われていても、たった今見た光景はかなり衝撃的だった。
だが、驚いてばかりはいられない。自分達も続いてこの水の中に入っていかなくてはならないのだ。
「碧香、方法を教えてくれ、俺のこの五感の一つをこの地に留める方法を」
「ええ」
碧香は頷くと龍巳の手を取った。
「東苑、私がすることを黙って見ていて下さい」
「ああ」
やり方の分からない龍巳は碧香に教わるしかない。
素直に頷くと、碧香は一瞬にこっと笑って、いきなり長い爪先で龍巳の腕に切り傷をつけた。それ程深い傷ではないが、赤い血が滲
んでくる。
次に、碧香が同じ様に自分の腕にも傷をつけた。そこから滲んできたのは、初対面の時に見た不思議な濃い青い血だ。
「東苑、あまり気分がいいものではないでしょうが、私のこの血を口に含んでもらえませんか?」
「血を?」
気持ち悪いなどとは思わない。好きな相手のどんなものも、愛しいと思いこそすれ嫌だとは思わないが、いったい碧香が何をしようと
しているのかが見当がつかない。
「東苑」
「分かった」
とにかく今は碧香の言う通りにしようと、龍巳は碧香の腕を取ってそっと口を付けた。血の味というものはどんなものなのか具体的に
は言葉に出来ないが、碧香への思いがあるせいか、その青い血は不思議と甘い気がした。
「・・・・・ありがとう、東苑」
しばらく、まるで記憶の中に刻み込むかのようにじっと龍巳の顔を見つめていた碧香は、やがて自分も同じ様に龍巳の血に口を付
けると、
「これで・・・・・私とあなたの気は通じた」
「・・・・・っ」
胸騒ぎがした龍巳は自分の腕を碧香の手から振り払おうとする。しかし、それよりも一瞬早く碧香の気が増幅したかと思うと、
「ふぐ・・・・・ぅぅぅ・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・!」
パッと龍巳から手を離した碧香は、自分の両目に向かってその力を放った。
「碧香!!」
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