竜の王様




第三章 
背信への傾斜



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※ここでの『』の言葉は日本語です





 「来ます」

 碧香の言葉の翌日、早朝からどこか落ち着かなかった紅蓮は、紫苑の言葉に急いで地下神殿へと向かった。銀色に鈍く光る扉の
奥には本来王族しか入れないのだが、今回は特別に四天王とコーヤ、そして江幻と蘇芳も同行している。
 「・・・・・」
 紅蓮以外は初めて足を踏み入れた場所。豪奢な造りでもない、岩肌が剥き出しの中で、そこだけ神秘的な輝きを持っている深い
碧色の小さな滝壺に、一同の視線は集中していた。
(碧香・・・・・)
 いったい、どんな思いで碧香が戻ってくるのか、それは紅蓮にも分からない。ただ、何かよほど切迫した事態になったからこそ戻ってく
るのだろう。

 【・・・・・兄様の即位を・・・・・望まない者がいます】
 【・・・・・彼らは、兄様と交渉をしたいと言っています】
 【いいえ、竜人界でということでした。兄様、彼らは自由に2つの世界を行き来する事が出来るということです。自分の身体の一部
を人間界に置いて・・・・・兄様、彼らの力はとても大きい。こちら側も気を引き締めないと・・・・・】

 碧香の言葉は一々衝撃的で、紅蓮は全てをどう受け止めていいのか迷うほどだったが、分かっていることははっきりとしている。
碧香が帰ってくること。
自分に反旗を翻している者がいること。
コーヤが、ここにいるということ。
 「・・・・・」
 紅蓮は江幻と蘇芳に挟まれた形で立っているコーヤに視線を向ける。
何も分かっていないらしい暢気そうな表情で、興味津々にこの地下神殿を見ている様子が少し気持ちを苛立たせるが、それでもコー
ヤが自分の目の前からいなくなってしまうことを考えれば幾分ましのような気がした。



(ここって、俺がこっちに来た時に現れた場所だよな。あの時は全然余裕がなくって周りを見ることも出来なかったけど・・・・・こうしてみ
ると雰囲気ある場所だよなあ)
 そうでなくても、竜人界という場所はファンタジーゲームの中に出てくるような場所だ。文明的には栄えていなくても不思議で面白い
事がたくさんあって、これで何時でも元の自分の世界に帰れるのならばいてもいいかとさえ思えるようになった。
 それは、多分こちらの世界で出来た新しい友人や知り合いの存在が大きいのかもしれないが・・・・・。
 「俺達がここに足を踏み入れることが出来るなんてな」
 「紅蓮も成長したってことじゃない?」
 「本人に言ってやれよ、喜ぶかもしれないぞ」
 『?』
頭上でコーゲンとスオーが話している。どこか面白そうに、それでも時々鋭い眼差しを目の前の水溜りに向けているのを見て、昂也も
いったいここから何が出てくるのかとドキドキし始めた。
(碧香がここに戻ってくる・・・・・のか?だったら、俺が入れ替わって元の世界に戻るって・・・・・こと?)
 『・・・・・俺って、帰っちゃうのか?』
 「コーヤ?」
 呟いた昂也に、コーゲンが声を掛けてくるが、昂也は自分の考えに没頭していてそれに返すことが出来ない。
(そりゃ、元の世界に帰りたいけどさ、玉も見つけないうちにそんなんじゃ・・・・・俺って、この世界に来た意味がなくない?)
自分の存在の理由が何も無いというのは寂しい気がして、昂也は眉を顰めた。






 ・・・・・・・・・・

 鏡のように静かだった滝壺の表面が波立ってきた。
紅蓮は思わず身を乗り出す。
 「紅蓮様っ、もう、碧香様の気はこちらに戻っておいでです」
 「分かっているっ」
愛しい弟の気を間違えるわけもなく、紅蓮は目を凝らして水面を見つめる。
すると、
 「!」
 水底から、明るく輝く色と、漆黒の色が浮かび上がってきた。それが髪の色だと分かった瞬間、紅蓮は水の中に両手を差し入れて
碧香の身体を引き上げる。
 「・・・・・っ?」
(何者だっ?)
 その碧香の身体を抱きしめるようにしていた人物を見て一瞬眉を顰めるが、それよりも碧香の無事を確かめる方が先だと、紅蓮は
腕の中に抱きしめた碧香に呼びかけた。
 「碧香!碧香!」
 「・・・・・」
 「碧香!」
 微かな胸元の上下で生きていることは分かるものの、なかなか目を開けないのが不安だ。
竜人界から人間界へと行き、そしてまた、人間界から竜人界へと時空を越えてきたのだ。その身体に掛かる負担は相当に強いもの
だろう。
 紅蓮は強く碧香を抱きしめたが、

 バシャッ

水音と共に滝壺の中から自力で出てきた者を見て、紅蓮はさらに険しい表情になる。
黒髪に、黒い瞳。そして、自分達とよく似ていても、どこか違った雰囲気の男。
(まさか・・・・・人間?)
 「お前は・・・・・」
声を落とした紅蓮が目の前の男を問い詰めようとした時だった。
 『トーエン!!』
いきなり歓喜の声が聞こえたかと思うと、紅蓮の横をすり抜けたコーヤが男に飛びついた。



 水の底からゆらゆらと金色と黒色が浮かび上がってきた時、昂也はいったい何が出てきたんだろうと思った。
しかし、直ぐにそれが髪の毛だと分かり、紅蓮が何かを叫びながら金色の髪の人物を抱き上げたのを見て、もしかしてそれがアオカだ
と思った次の瞬間、自力で水の中から出てきた黒髪の男の顔を見た昂也の声は歓喜で震えた。
 『トーエン!!』
 懐かしい幼馴染に抱きつくと、自分まで水で濡れてしまう。
なんだかそれさえもおかしくなって、昂也は龍巳の髪をクシャクシャにかき混ぜてしまった。
 『お前っ、何時もと同じ!』
 『・・・・・昂也?』
 どこか、呆然とした口調で昂也の名前を呼んだ龍巳は、やがてジワジワとその頬を驚きと喜びに緩めた。
 『なんだよ、元気そうじゃん』
 『お前こそ!』
元の世界と竜人界と、別れていた日数はそれ程に無いかもしれない。それでも昂也にとっては、いや、龍巳にとっても、それは生まれ
てから初めて経験する、幼馴染との長い別離の時間だった。
 『どうしてここにっ?あ、だって、お前、来れちゃうのっ?』
 『前にも言ったろ?俺、何か竜の血を引いていたらしくって・・・・・』
 『あ!』
(確かにそんなこと言ってたっけ!)
 改めて言われるまで、昂也の頭の中からはすっかりとその事実が抜け落ちていた。
確かに碧香と交感をした時、龍巳が遥か昔、竜人界から人間界へと行き、そのまま人間界で生を終えた竜人の血を引いていると
聞いた。凄くカッコいいと、本当にそう思っていたはずだった。
(俺って記憶力無いのかなあ)
 『でも、本当にここまで来れる自信はなかったんだ。良かった、またこうして昂也に会えて』
 『当ったり前!』
昂也は笑って、更に強く龍巳にしがみ付いた。



(なんだ・・・・・あ奴は?)
 碧香と共に、この神聖なる地下神殿の時空の扉から現れた男、それが人間だということは分かったが、いったいどういう男なのか分
からない。
ただ、碧香と一緒に来たということは意味があるのだろうし、何より・・・・・。
(どうしてコーヤが・・・・・)
 まるで、ごく親しい、深い愛情を抱いている者同志の抱擁に、紅蓮の顔は次第に怒りにも似た表情に変化した。
 「・・・・・様?」
 「・・・・・っ」
その時、か細い声が自分の名を呼ぶのに気付き、紅蓮はハッと腕の中の碧香の顔を見つめる。
 「大丈夫かっ?碧香?」
 「・・・・・申し訳ありません、少し、疲れてしまって・・・・・あの、東苑・・・・・私と共に来た人間は無事でしょうか?」
 なぜか、目を閉じたままの碧香の表情は青褪めていて、本当に疲れきっていることが感じられた。
紅蓮は大切な弟の身体を抱き上げながら、チラッとコーヤと抱き合っている男を見る。
 「・・・・・ああ」
 「怪我は?」
 「お前が気にすることは・・・・・」
 「怪我は?されていないですか?」
 「・・・・・していない。忌々しいほどに無事だ」
 人間嫌いの紅蓮らしい物言いがおかしかったのか、碧香の頬には僅かな笑みが浮かぶ。それでもまだ目を開けない碧香が、もしか
したらかなり身体が弱っているのかと心配になり、紅蓮はそのまま地下神殿から出ようとした。
 「紅蓮様っ」
 「紫苑、直ぐに医師を。碧香の身体を・・・・・」
 「私が見ようか」
 その場にそぐわないようなのんびりとした声を出したのは江幻だ。確かに、この男はいいかげんだが、神官として、そして医師としての
力はかなり優秀なことも確かだった。
 「・・・・・」
 「他から呼ぶよりは早いだろう?」
迷いは一瞬だった。紅蓮は江幻に向かって低く言い放つ。
 「・・・・・それならば、急げ」
 「はいはい」
 「・・・・・」
 碧香が無事に戻ってきたのならば、もう今はここに用はない。
取りあえずは早く碧香をゆっくり休ませてやりたいと、紅蓮は碧香をしっかりと腕に抱いたまま、その場にいる者達に一瞥も残さずに地
下神殿から出て行った。