竜の王様
第四章 勝機を呼ぶ者
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※ここでの『』の言葉は日本語です
普段ならば、細身でもかなりの威力があるはずの蒼樹の拳。しかし、今は下半身に力が入っていないせいか、浅緋にとっては撫で
られたというような感覚しかなかった。
「・・・・・蒼樹殿」
「これで、今のことは全て無かったことにする」
「・・・・・っ」
そんなことが出来るはずがなかった。鮮明に覚えているわけではなかったが、今目の前の蒼樹を見れば、自分の暴挙がどれだけその
身体を苛んだかは想像がつく。そんな自分の行為と、たった一発殴っただけの蒼樹の行為が同等だとはとても言えなかった。
それに、浅緋にとっては、自分の明白な意識からではないが、蒼樹に対して特別な思いを抱いていたということは今となってははっき
りと自覚していて、その自分の想いまで全て無かったことにされるのは、今ここで胸に剣を突き刺されることよりも辛いことだ。
「蒼樹殿っ、私は忘れることは出来ない・・・・・っ」
喉の奥から絞り出すような声で言うと、蒼樹は冷淡に言い捨てた。
「忘れろ」
「蒼樹殿!」
「お前は、私が暴力に屈したということを認めろというのか?武人である私がそんな辱めを受けて・・・・・のうのうと顔を晒して歩けると
思うのかっ!」
荒立てた感情的な言葉に、浅緋は言い返せない。
これが、立場が逆であれば・・・・・もしも自分が同じ様な辱めを受けてしまえば、それこそ恥辱に耐えかね、命を絶とうとするかもしれ
ない。
それは、見た目がどうこうではなく、武人としての矜持があるからだ。
「・・・・・っ」
浅緋は拳を握り締めた。
こういうことがなければ、きっと自分の蒼樹に対する気持ちの種類など気付かなかったかもしれないが、気付いたと同時に壊れてしまう
関係もある。
取り返しのつかないことをしでかした自分を、浅緋はただ愚かなと思うことしか出来なかった。
声は震えていなかっただろうか。
恐怖を感じていたのだと浅緋や周りに気取らせなかっただろうかと心配になるものの、これ以上の声も表情も今は作れない。
「・・・・・ソージュ」
そんな自分に声を掛けてきたコーヤを振り返れば、今にも泣きそうな顔をしていて・・・・・まるで自分の代わりに負の感情を感じてく
れているような気がして、蒼樹は無意識のうちに口元を緩めた。
「気遣いは無用だ」
「・・・・・」
「それよりも」
コーヤの存在のおかげて、自分の波立った感情が静まっていく。
汚れ、傷付いた身体を何時までも人目に晒しているのは面白い気分ではないが、蒼樹はどうしても気になったことがあり、それをコー
ヤの後ろにいる江幻と蘇芳にぶつけてみた。
「浅緋は突然変貌した。明らかに何かに操られていたか・・・・・術のようなものを掛けられたのではないかと思う」
「どうしてそう思う?」
「私が常のこの男を知っているからだ。たとえ、どんな切っ掛けで感情が爆発しようとも、こんな方法で相手を屈服させようと思う男で
はない」
自分をこんな目に遭わせたのは、きっと浅緋の本意ではないはずだ。今目の前の光景だけが真実ではない、それだけは分かっても
らいたいと、蒼樹は言葉を重ねた。
「きっと、何らかの力が左右されたはずだ。思い当たることはあるか?」
様々な知識が豊富なこの2人に聞けば、きっと何らかの糸口が見付かるはずだ。浅緋を憎しみの目で見ないためにも、自分が弱者
に堕ちてしまわないためにも、蒼樹ははっきりとした理由を知りたかった。
理由はどうであれ、浅緋が蒼樹を陵辱したのは事実だろうと思う。
下地が無い限り、暗殺という方法ではなく身体の支配、それも同性を相手にしたそれには、少なからず、掛けられた本人の意思が
あるはずだ。
常から、浅緋が蒼樹に対して憎からず思っているという気持ちが利用されたと思うのが普通だが、他の理由が欲しいと言っているの
だ、可能性を口にするのに江幻は躊躇いはなかった。
「理性を崩壊する術はあるよ」
「・・・・・っ」
江幻の言葉に、蒼樹だけではなく、浅緋も顔を上げた。
「寸前まで、その態度に変わりはなかったんだろう?」
「そうだ」
「それならば、多分ある言葉や動作を切っ掛けにして、術の効力を発揮させたんじゃないかな。心当たりは?」
「心当たり・・・・・」
蒼樹は何かを考えるように目を閉じた。
選ばれた神官にだけ許された術。道を外れた罪人達の邪悪な思念を打ち破る為に使われることが多いが、その方法を少し変えれ
ばこんな風に遠くからでも誰かを操ることが出来る。
だが、そのためには切っ掛けとなるものが必要で、それは言葉でも、動作でも、物でも、これと決まったものは無かった。
「・・・・・あの男か」
「え?」
呟くような蒼樹の言葉に、江幻は聞き返した。
「・・・・・変貌する寸前、浅緋はあの男の名前を言った。その途端、様子が変わって・・・・・っ、あいつか!」
「・・・・・」
(紫苑、だね)
江幻は直ぐに分かった。
蒼樹は術を掛けさせたのは自分の父親、つまり今は敵方の聖樹だと思っているらしいが、いくら聖樹でも遠く離れた場所の人物にい
きなり術は掛けられない。その時には、対象となる人物に直接術を仕掛けなければ意味が無いのだ。
そして、この王宮内でそんなことが出来る力の主は紫苑しかいなかった。
(・・・・・だが、多分紫苑もこんな結果になるとは思わなかったかもしれないな)
切っ掛けを口にした時、たまたま蒼樹が傍にいたのだろう。
理性を崩壊させた時、王宮内を破壊して回る前に、蒼樹という存在が目の前にあった。彼を憎からず思っていたはずの浅緋は、本
能のまま、欲しいと思ったその身体を貪ってしまったはずだ。
王宮内の混乱を回避したのは良かったかもしれないが、結果的に聖樹の血を分けた息子が傷付いた。これはどんな皮肉なのかな
と江幻は考えてしまった。
論理的に説明をするコーゲンの言葉は耳に入ってくるものの、昂也にとってはそのどれもが理解し難いものだった。同じ竜人同士が
争うというのも嫌だったが、こんな風に誰かの人格を傷付けることまでしていいとは思わない。
もちろん、人間の世界だって様々な争いごとが起こっているが、昂也はそれを今まで遠い世界のことだとしか感じていなかった。
(ソージュ・・・・・辛いはずなのに・・・・・っ)
しかし、今こうして自分の知っている者達、ソージュやシオン、そして、同じ人間の朱里が、目の前で巻き込まれていくのを見てしま
えば、傍観者になり続けることは出来ない。
『行くぞ!!』
そう思った時、昂也は叫んでいた。
『あっちに、乗り込む!』
『コーヤ、よく考えろ。お前に何が出来る?』
勢い込む昂也を馬鹿にするように(多分、止める為だというのは分かっている)言うスオーに、昂也は少しも勢いを衰えさせない激し
い眼差しを向ける。
『条件闘争!』
『はあ?』
『確かに俺は力は無いけど、話し合うことは出来るって思ってる!向こうが何のためにこんなことを仕出かしたのか、どうしたら止めて
くれるのか、直接会って聞いてみる!』
今となっては、コーゲンと共にあちらに捕まってしまった時、こんな風に考えればよかったと思った。
あの時はとにかく逃げ出すことしか考えなくて、向こうの考えを聞くなどということは全く頭の中に無かったが・・・・・。
(でも、俺達あっちの陣地分かってるんだし、一度は中まで入れたんだしな!)
『コーヤ、あのね』
『そう思うだろっ?コーゲン!』
『・・・・・確かに、コーヤの言うことは理想だとは思うけれど、一度引いた弓を下ろすことは出来ないと思うよ』
『どうしてっ?』
『どうしてって、面子というものがあるんじゃない?』
『そんなのっ、条件が合えばいくらだって下ろせるじゃん!』
今、この時になっても、昂也はどうしてグレンとセージュという男が争っているのか、明確には見えてこない。しかし、争い・・・・・戦争
となったら、大変なのは一般市民だ。仮にも王になろうというグレンは、そんな人達のことを考えて引くことも選択肢に入れた方がいい
と思うし、セージュだって、名前だけの大義名分だったら降ろせばいい。
口で言うほど簡単なものではないということは分かっているが、それでも、昂也はこれ以上誰かが犠牲になってしまう(命を奪われると
いう意味だけではなく)前に、一歩、動き出したかった。
『グレンのとこに行く!』
あの男の許可を強引にでも取ってやると、昂也は憤然と胸を張ったまま神殿に背を向けた。
(面白いな)
コーヤの思考は至極単純明快で、周りから相手の心理を考えたり、作戦を練ったりという正攻法な戦いの法則には当てはまらな
い。
それでも、意外にこの方法はいいのではないかと思えた。
「江幻」
「仕方ないね、乗りかかった船だ」
江幻も同じ気持ちなのか、苦笑しながらもその腕には青嵐を抱いて、コーヤの後を付いて行く。
蘇芳も続こうとして・・・・・ふと、まだその場に呆然と立っている浅緋に声を掛けた。
「おい、コトの後は配慮も大事だぞ」
「え?」
「蒼樹を部屋に連れて行ってやれよ。嫌だって言われても、多少強引にな」
後の言葉は小声で言って、蘇芳は少しだけ足を早めて江幻の隣に並んだ。
「経験者は言うねえ」
話が聞こえていたのか、江幻が笑いながら言ってきた。自分の方も負けないくらい艶っぽいことをしてきたくせにと言いたいが、ここで下
手に言い返すと、コーヤの前で更なる醜態を晒すかもしれない。
自分以上に口が上手く、考えを読ませない穏やかな微笑が曲者だと思いながら、蘇芳はまあなと受け入れて見せた。
「あの朴念仁よりは、多少女心が分かる」
「蒼樹は男だろう」
「女に負けない容貌だからいいだろ」
「そういう所が、心配りが足りないというんだよ」
今までも言われたことがあるだろうと言われても、煩いと心の中で否定した。
(コーヤは気にしないからいいんだよ)
まだ幼く、可愛らしい見掛けのコーヤは、その実、男らしくて細かなところは気にしない。自分とは合っているのだと、江幻に対して心の
中で言い返すと、それにしてもと話題を変えた。
「紅蓮が許可すると思うか?」
「ふふ、しないだろうねえ」
「どうする?」
「コーヤがどうにかするんじゃないかな」
「・・・・・確かに、な」
面白くは無いが、紅蓮がコーヤに一目置いていることは確かで、今までのことを顧みると、結局は紅蓮もコーヤの意思に従ってきたよ
うに思えた。
「石頭の皇太子も、コーヤの前じゃ我が儘なガキだしな」
「そういう言い方は年寄りに聞こえるけど」
「・・・・・」
どちらの味方か分からないような江幻の助言に、蘇芳は眉を顰めて口を閉ざしてしまった。
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