竜の王様




第六章 
終わりから始まりへ



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※ここでの『』の言葉は日本語です





 コーヤの可愛い顔が、聖樹の汚い血で汚れている。それを見た蘇芳は、眉間の皺を消さないまま自分の服の袖でそれを拭ってやっ
た。本当はもっと綺麗な布でふいてやりたかったが、この場にはそんな都合の良いものはない。
 「コーヤ、頑張ったな」
 「・・・・・」
 「お前は、本当に良くやった」
 それは、慰めでも何でもない、蘇芳の心からの讃辞だった。
力の無い人間であるはずなのに、コーヤは自分達の中で一番動いてくれた気がする。
(本当に、目を覚めさせられた気分だ)
 コーヤがいなかったら、自分はきっと今回の問題があったとしても動かなかった。影で、何をしているのだと毒を吐いても、これまでそ
の存在さえ認められていなかった自分が出ていくなど、悔しくて恥ずかしくて出来なかった。
 だが、コーヤが引っ張ってくれたせいで、紅蓮に文句を言いながらも、蘇芳はこの竜人界のために動くことが出来た。
結果、この世界は守られたのだ。
 「お、俺・・・・・」
 「・・・・・」
 「俺、俺、何も・・・・・」
 「馬鹿」
(お前を責める者なんていない)
 「お・・・・・んっ」
 付け込んだとは思うが、蘇芳はそのまま自分を責め続けるコーヤの言葉を止めるために唇を合わせる。
 「!」
こんな場面でいきなり口付けをした蘇芳に、コーヤの目が丸く見開かれた。その目がしっかりと自分に向けられたことに満足した蘇芳
は、音を立てて唇を離した。
 「な、なに、何をするんだよっ」
 「頑張ったコーヤへの褒美だ」
 「はあ?」
 「・・・・・本当は、俺がしたかっただけ。お前がちゃんと生きてそこに立っていることを確認したかった」
 「スオー・・・・・」
 「無茶ばっかりして・・・・・お前のせいで、俺の命は確実に縮まったぞ」
 笑って、今度は髪をクシャッと撫でると、コーヤは泣き笑いのような表情になり、ごめんと言う。
謝るなと言いたいのに、蘇芳自身も何だか胸が詰まり、ただ小さなコーヤの身体を抱きしめることしか出来なかった。



 「そのまま力を注いでっ」
 「はい!」
 江幻の声にも直ぐに頷いたタツミは、紅蓮の手に自身の手を添えて蒼樹の身体に気を注ぎ始めた。
いくら力を使いきっていたとしても、紅蓮ほどの能力者が蒼樹の傷を塞ぐことが出来ないとは考えられなかった。そこに何か秘密がある
と考えた江幻は、横に倒れている聖樹の身体を上向きに返し、身体に手を当てた。
 「・・・・・」
(こんな所で命を落とすなんて考えてもいなかっただろうな)
 あれほどの紅蓮への、いや、王族への憎悪を抱いていた聖樹が、呆気なく命を落としてしまうなどどうして考えられただろうか。
彼の誤算は、角持ちの存在であり、
(多分・・・・・コーヤだ)
そう、強く思った。
 本来はこの世界に来るはずが無かったコーヤという存在が、思った以上に・・・・・いや、想像もしていなかったほどに大きな存在となっ
たのだろう。
 「・・・・・」
(何も無い)
 ざっと見ただけでも、聖樹の身体の中には何も無い。そもそも、良く生きてこれたなと思うほどに、聖樹は空っぽだ。それが、どういう
理由からなのか、今の江幻にはよく分からなかった。
 「江幻っ、聖樹はっ?」
 蒼樹の延命に気を注ぎながら紅蓮が話し掛けて来る。
もう分かっているのだろうが、医師としても名を知られている自分がちゃんと告げた方が良い。
 「駄目だ」
 「・・・・・っ」
 紅蓮の顔が苦痛に歪んだ。紅蓮が竜王になるのに、これほどまでに時間が掛かってしまった要因の一つである男の死。
それがかつて叔父と呼んでいた身内同然の男であることが、紅蓮にどんな感情を呼び起こしているのか分からないが、どちらにせよこ
れで竜人界の危機は確かに去った。
 後は紅蓮本人がどれほど立派な竜王になるかに掛かっている。
 「江幻っ、蒼樹を見てくれっ、傷が全く塞がらないっ!」
 「・・・・・」
死んだ者を生き返らすことはさすがの江幻にも出来ず、紅蓮が言うままに蒼樹の身体を見る。
先程からずっと紅蓮とタツミの気を注いでいるというのに、蒼樹の腹の傷が塞がっているようにはとても見えなかった。
(何が影響をしている?)
 江幻も手を翳してみる。だが、少しも手ごたえを感じない。
 「・・・・・」
このままでは、多分蒼樹の命は助からないと思えた。



(・・・・・終わった・・・・・)
 紫苑は目を閉じた。
聖樹の気が周りから消え、先程からこの竜人界の崩壊を立て直してくれている青嵐の力が勢いを増しているのが分かる。
もう、自分自身がやることは何も無かった。勝手な思い込みと絶望感で、紅蓮を竜王にしないということだけの共通意識で聖樹と手
を組んだが、結局は自分がしたことは、この竜人界を滅ぼす手助けをしてしまっただけだった。
 結果的には滅亡は防がれたが、自分が産んでしまったこの混乱の責任は取らなければならない。
(生きて恥を晒すことなど出来ないが・・・・・)

 「この場で死ぬことこそ、最大の裏切りだと思えっ」

尊い紅蓮の言葉も、そのまま素直に受け止めることなど出来ない。
 「・・・・・」
 紫苑は自分の腹に手を置いた。
先程まで紅玉を隠していた自分の身体の中は、驚くほどに衰弱している。見掛けはただの玉なのに、さすがは竜王となるものが持つ
力の象徴だ。
頂点に立たない者に対する報復は、こんな所に出てきているのかもしてない。
(この場を・・・・・去らなければ・・・・・)
 これ以上、紅蓮に迷惑はかけられない。
自分の始末は自分でつけると紫苑が立ち上がろうとすると、
 「・・・・・っ」
いきなり、その腕を掴まれた。
 「・・・・・碧香、様」
 「紫苑、どこに行くのですか?」
 目が見えるようになって、次々と目に飛び込んできたであろう悲しく、辛い出来事。
紫苑が知っている心優しい碧香ならばその場に泣き伏せてしまっていたはずだが、人間界に行って変わった彼は、しっかりと自分の足
で立っていた。
 そればかりか、自分のことを気遣ってさえくれている。裏切り者の自分の顔を碧香に向けることさえ恐れ多いと、紫苑は碧香から顔
を背けた。
 「手を、お放し下さい」
 「嫌です」
 「碧香様」
 「私は・・・・・これ以上、大切な竜人を失いたくありません」
 「・・・・・っ」
 その言葉は、こんな風に兄の紅蓮を裏切った聖樹さえ、碧香は大切な民だと思っていたという証だろう。
 「紫苑、お願いします」
乞われるような存在ではないのに、腕を掴む碧香の手を振り払うことなど出来ない。
紫苑は力が抜けてしまい、その場に膝を折ってしまった。



 「聖樹殿が・・・・・」
 「・・・・・ああ」
 呆然とした浅葱の声に、琥珀は淡々と応えた。
もしかしたら、自分は途中からこの顛末を予期していたのかもしれないと琥珀は思っていた。
 自分や浅葱、そして他の竜人達が感じている紅蓮への不満と、聖樹が持っている思いが、どうも方向性が違い、もしかしたら聖樹
は味方である自分達のことさえも考えていないのではないかと思うようになった時、琥珀は全力で紅蓮に対するのを諦めた。
 遠くから聞く皇太子紅蓮の噂は酷く、琥珀も傲慢で、自分の私欲しか考えていないと思っていたが、実際に会った紅蓮は反旗を
上げた自分達にも真摯に対し・・・・・。
もしかしたら今の彼ならば・・・・・そんな思いが、心のどこかにあったかもしれない。
 「私達はどうすれば・・・・・」
 「・・・・・」
 「琥珀・・・・・っ」
 良くも悪くも、自分達を強力に引っ張ってくれた聖樹がいなくなってしまった今、自分達がどうすればいいのか分からないというのは
琥珀も感じている。
ただ、心の中は意外にも落ち付いていた。
 「始めから覚悟はしていただろう」
 「・・・・・っ」
 「どんな罰でも私達は受ける。ただし、それはこの竜人界が良い方向へと変化することが前提だ。胸を張って訴えよう」
 琥珀はそう言った後、少し離れたところで腰が抜けて座り込んでしまっている朱里を振り返った。
(この少年も哀れな・・・・・)
信念を持っていた自分とは違い、聖樹の言葉だけを信じてこの竜人界に来た少年の処遇はきちんと考えてやらなければならないだ
ろう。
能力者ということだけでも目をつけられてしまうかもしれないが、それでも、聖樹の私怨に引きずられてしまった朱里は無事に元の世
界に帰してやらなければ。
 「朱里」
 「・・・・・コ、ハク」
 縋るような眼差しを向けてきた朱里に、琥珀は少しだけ笑みを浮かべた。
朱里が驚いたように目を見張ったのは、もしかしたら彼に笑みを見せたのがこれが初めてだったからかもしれない。
 「心配はするな。お前の身柄は私が責任を持って守る」
 「ほ・・・・・ん、と?」
 次から次へと目の前で展開された出来事に、朱里はすっかりと怯えていた。聖樹の傍で傲慢なほどに嗤っていた姿が嘘のようだ。
(いや、その姿も、聖樹によって作られたのかもしれない)
 「ああ」
聖樹とは違い、自分はこの少年に嘘は言ってはいけない。琥珀はそう思いながら、力強く頷いて見せた。



 ギャアオゥ!!!

 『あ・・・・・っ』
 嘶きがさらに大きくなり、昂也はスオーの腕の中から顔を上げた。
 『青嵐!』
 『コーヤ、急に動くな』
(そうだった!)
自分の感情で一杯一杯だったが、空ではまだ竜になったままの青嵐が一生懸命力を放ってくれている。
 『スオーッ、まだ青嵐の力は必要なのかっ?』
 『いや、もう気は鎮まってる。後は竜に変化していなくても、あいつならば相応の力を発揮出来るはずだ』
 その言葉に頷いたコーヤは、何とかスオーの腕の中で体勢を変えると、両手を空に向かって広げて見せた。
 『戻ってこいっ、青嵐!』
この声が届くかどうか心配だったが、金の竜は何度か大きく尾を揺らした後、地上に向かって急加速に下りてくる。
 『う、うわっ、ぶつかるっ』
 『大丈夫だ』
 焦る昂也に、スオーは呑気にそう言うが、あの巨体であのスピードだ。地面にそのまま叩きつけられるという可能性だって無いとは言
えない。
あんなに大きな竜でも、昂也にとってはその正体はまだ可愛い青嵐で、保護者のような気持ちはどうしても消えなかった。
 『青嵐っ、ゆっくりでいいから!』
(慌てて、お前まで怪我なんてしないでくれよっ!)
思いがどうか青嵐に届くようにと、昂也は拳を握り締めながら空を見上げた。