竜の王様
第六章 終わりから始まりへ
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※ここでの『』の言葉は竜人語です
「ぐふぁっ」
いきなり口の中に水が入ってきて、昂也は慌てて吐き出しながら身体を伸ばした。
バシャッ
「・・・・・え?」
まるで深い海の底にいるかのような気がしていたのに、そこは立っている昂也の胸ほどの深さしかない滝壺。
昂也にはとても馴染みのある、龍巳の家の神社の奥の滝壺だった。
「・・・・・うそ」
(俺、戻ってきたわけ?)
地下神殿の泉に落ちたことは覚えていた。いや、あれは落ちたというよりは水の向こう側から強烈な力で引き寄せられたような感じ
で、そのまま水を飲み、苦しくなって・・・・・。
「は、はは」
(嘘みたいだ・・・・・)
あれほど元の世界に戻りたいと思っていたのに、いざ本当に帰って来ても純粋に喜ぶことが出来なかった。
あんなにいきなり置いて来てしまったスオーの存在や、傍にいると伝えていた青嵐のことはもちろん、龍巳やアオカにも何も言わない
まま帰ってきてしまった自分は、なんと薄情な人間なのだろうか。
「クシュッ」
不意にくしゃみが出て、昂也は機械的に滝壺から上がった。
全身びしょ濡れのままその場に座り込み、深い溜め息をついてしまう。
「・・・・・どうする・・・・・?」
ここは見慣れた場所ではあるが、自分が消えて以降のこちらの世界がどうなっていたのか昂也は知らない。
あれからどのくらい経ってしまったのか、まさか浦島太郎のように遥か未来に来てしまったということはないだろうか。
全く違う世界にいたのだ、自分の感覚では分からないうちに、こちらの時間の流れが違っていたとしてもおかしくは無い。
いや、それどころか、今こんな風にこの場にいると、あの世界でのことが全て夢だったように思える。
(トーエンちに行ったら、トーエンが出てきたりして・・・・・)
「なんだ、昂也、遊びに来たのか?」
優しく、大人びた幼馴染の声を聞けば、自分の中のモヤモヤは全て消え去るような気がして、昂也はパッと立ち上がると龍巳の家に
向かって走り始めた。
「・・・・・」
昂也は見慣れた古い建物を見上げた。
「・・・・・ぼろっちい具合は変わんないな」
この龍巳の家を見ただけでは時間の流れが分かんないなと思っていると、
パシッ
「あてっ」
いきなり背後から頭を軽く叩かれた。
パッと振り向いた昂也は、そこにいた人物を見てゆるゆると頬を緩めた。
「じいちゃん!」
龍巳の祖父、東翔(とうしょう)は最後に見た時と同じで髪も髭もほとんど白髪に近かったが、肌の色艶や目の光は変わらずに強く
て、大きな時間の差がそこにあったとは思えなかった。
それに、
「コウ、何度言ったら分かる。この家はぼろいんじゃない、古めかしいと言いなさい」
「うんっ、ごめん!」
「よし」
そう言って深い笑い皺を作った東翔は昂也を抱き締めてくれる。
「お帰り、コウ」
「じ、じいちゃん、まさか・・・・・」
「東苑と碧香の話程度は知っている。まさか、お前1人で戻って来るとは思わなかったがな」
「・・・・・っ」
昂也はそのまま東翔に抱きついた。自分よりも遥かに年上なのにもかかわらず、身長も、腕の逞しさも負けていることが何時もは悔し
いと感じるのに、今日だけはとても頼もしくて仕方が無かった。
(じいちゃんは知ってるんだ・・・・・!)
自分が今までいた世界のことを、夢ではなく現実のものとして認識してくれている東翔の存在が嬉しかった。
「男は泣かないんじゃないのか?」
「・・・・・今、はっ、特別・・・・・っ」
「そういうことにしてやろうか」
それからしばらく、昂也は東翔の胸に強く顔を押し付けていた。
しばらくして、昂也は子供のように東翔に手を引かれて家の中に入った。
そして、そのまま風呂場に連れて行かれ、龍巳の物らしい少し大きめの浴衣を手渡される。とにかくこのずぶ濡れの状態を何とかし
なくては話も出来ないということなのだろう。
「あ、あの、じいちゃん」
「今はわししかおらん。ゆっくり入れ」
「・・・・・うん」
(そっか、じいちゃんしかいないんだ)
なんだかホッとした。他の人に、もちろん家族にも龍巳の両親にも会いたいと思う気持ちはあるものの、なんだか今のこの状態で顔
を合わせても何て言ったらいいのか分からなかった。
そんな複雑な気持ちを抱えている状態では、何時も自分達に昔の話を聞かせてくれ、不思議な現象も見せてくれていた東翔だけ
の方がいい。東翔ならば、自分の突拍子もない話を信じてくれそうな気がするのだ。
「・・・・・とにかく、風呂に入るか」
こんな風に、ちゃんと湯が張られた風呂に入るのは随分久し振りのような気がして、昂也は濡れて肌に張り付いていた服を一枚一
枚脱いで行くうちに早く温まりたいなと思った。
東翔に言われた通りゆっくり風呂に入って上がった昂也は、無造作に浴衣を着た。
何時もなら龍巳が着せ直してくれるのだが、今日はその相棒は隣にいない。
「・・・・・」
昂也は手を止めて自分の隣を見た。こんな時に寂しさを感じてしまうなんて、何だかもう龍巳に会えないと感じているのだろうか。
(そんなことあるはずが無い)
昂也は唇を噛みしめた。
居間に向かうと、テーブルの上におむすびがあった。
こんな時にと思うが、ググ〜っと腹が鳴る。
「ちゃんと挨拶してから食べなさい」
「はい。いただきます」
少々の悪戯には何も言わない東翔も、礼儀にはとても厳しかった。面倒臭くなって挨拶を省略したりすると平気で食事やおやつを
抜かれる。
だから、昂也も龍巳も、どんなに腹が減っていても挨拶だけはちゃんとしてから手を伸ばしていた。
「うわ〜、久し振りの白米!」
「コウ」
「んぐ?」
「食べながらでいい、わしに話すことをまとめておけ」
「・・・・・」
昂也は頷いた。どちらにせよ、東翔には全て話して意見を聞きたいと思う。
(俺1人じゃ考えられないし・・・・・)
おむすびと温かい味噌汁を飲んだ後、
「ご馳走様でした」
手を合わせてそう言った昂也は、改めて東翔に向き直る。
「じいちゃん、話す前に1ついい?なんだか、俺が来るって分かってるみたいに風呂を沸かしてくれてたの、なんか意味がある?」
「・・・・・わしは、碧香に会っている」
「あ、そうなんだ」
「碧香が現れる前、あの滝壺の滝が吹き上がった。その日の朝に一匹の竜が玉を抱いている夢を見て、その数日後、碧香がここに
現れた」
初めて聞く話に、昂也はただ黙って耳を傾けた。東翔が何か重要なことを言ってくれるような気がしたのだ。
「昨日、同じことが起こった」
「え、じゃあ、またあの滝が?」
昂也の目にはあまり変わらないように見えたが、知らない間にそんなことがあったのだ。前回のこともあり、東翔は翌日、少なくとも数
日のうちに何かが起こると予想して待っていてくれた。
「すげぇっ」
「孫達が帰ってくるのかもしれんと、こうして風呂を沸かしていたんだが・・・・・」
「じいちゃん・・・・・ご、ごめん、俺1人で帰ってきちゃって・・・・・」
しかし、昂也の高揚感は直ぐさま萎んでしまった。東翔が望んでいたのは自分ではなく龍巳なのだと思い、こうして呑気に風呂に入
り、龍巳の浴衣を着ている自分がどんなに場違いなのかと落ち込む。
すると、東翔は馬鹿者と昂也に言った。
「コウもわしの孫だろうが」
「じ、じいちゃん!」
「今言ったように、こちらにも変化があったからわしは動けた。コウ、今度はお前の番だ。竜人界とやらでどんなことがあったのか、わ
しに話してくれんか」
話をまとめると言っても何から話していいのか分からなかったので、昂也は滝壺に落ちた時から順に話した。
もちろん、紅蓮に乱暴されたことはさすがに言えず、少し暴力を受けた程度にとどめたものの、その後は自分の目で見、耳で聞いたこ
とを全て話す。
そうして話しているうちに、自分でも忘れていたことを幾つか思い出してもいた。
(俺、アオカと交感出来たんだっけ)
もしかしたら、今からアオカに呼び掛けたら2人の心の声は通じるのではないかと思ってしまった。東翔と話した後、1人で確かめよう
と心に誓う。
それと、自分がこうなってしまうことをどうしてスオーが分からなかったのかも不思議に思えた。
未来を視ることの出来る彼には、自分がこうして人間界へ帰ることも視えていたはずだ。もしも、それが視えていなかったとしたらスオー
の身に何かあったということだし、故意に隠していたとしたら昂也が元の世界に帰ることを止めなかったということで・・・・・。
(あれだけ一緒にいたんだけど・・・・・)
『コーヤッ?』
(・・・・・違うよな)
必死になって自分の名を呼んでいたスオーの声は耳に残っている。あんなふうに叫んだ彼が、自分との別れをあっさり納得していたと
はやはり考えられなかった。
「・・・・・コウ」
「・・・・・え?」
「楽しかったのか?向こうの生活は」
「じいちゃん?」
「涙を流すくらい、別れを寂しいと思っているんだろう?」
「・・・・・」
東翔にそう言われ、自分の頬に指先を触れた昂也は、ようやく涙を流していたことを知った。
東翔が言っていたように、楽しいことばかりではなかった。怖い思いもしたし、寂しい思いも、悔しい思いも、身を震わすほどの怒りだっ
て感じた。
それなのに、こんなにも心を締め付けられる理由は何なのだろう。
「・・・・・じいちゃん、俺、俺ね、何か・・・・・忘れてきたみたいな感じなんだ」
「忘れものか・・・・・それは気になるな」
「うん」
(全部が、これで終わりとかって・・・・・あるのか?)
「お前の話を聞いて思ったが・・・・・コウ、良く頑張ったな」
「・・・・・」
「よく、戻ってきてくれた。何も言わずにいきなり顔を見ることが出来なくなって寂しかったぞ」
「・・・・・う・・・・・くっ」
頬を伝う涙が、今度は自分でも分かった。それは先程の比ではないほどにボロボロに零れているからだ。
自分が一番安心する場所に帰ってきて、大好きな人にそう言ってもらって。昂也はようやく我慢せず、誰にも遠慮などしないで泣くこ
とが出来た。
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