竜の王様




第六章 
終わりから始まりへ



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※ここでの『』の言葉は日本語です





 腕の中の青嵐がむずがり、龍巳はその意思に自然と誘導されるかのように地下神殿へとやってきた。
その場にいた、ずぶ濡れのグレンとスオー。龍巳は胸騒ぎを感じたが、彼らに訊ねようとしても言葉が全く通じなかった。
 『いったい、何があったんですかっ?』
 言葉が通じないのがもどかしい。
碧香は日本語を話してくれたし、こちらの世界に来てからは昂也がいれば話は通じた。
(俺は何を・・・・・っ!)
 自分には力がある。不思議な力が無い昂也を自分が守ってやらなければ。そんな風に思っていた自分が情けなく、龍巳はただ呆
然とその場に立っているしか出来ない。
 『昂也!昂也っ、いないのかっ?』
 「・・・・・っ」
 「・・・・・」
 昂也という名前に2人は反応し、その視線が目の前の泉に向けられた。そこは、碧香と共に自分が現れた場所で、人間界とこの
世界を繋げている場所のはずだ。
(ま、さか?)
 昂也はこの泉に落ちたというのか?
 「あー」
 『せ、青嵐っ?』
思わずその場に跪いた龍巳の腕の中からするりと抜け出した青嵐が、小さな両手を泉につけた。
とっさに落ちないようにその腰を捕まえたが、青嵐の身体はビクともしない。
 『!』
 次の瞬間だった。泉につけた青嵐の手から、輝く光がその表面を覆っていく。
 『青嵐・・・・・』
あの時、崩壊しそうになったこの世界を支えたような、眩しい金と銀が交じり合った光。
何をしているのか考えるまでも無い、青嵐はその力を駆使して、昂也をこちら側に呼ぼうとしているのだ。



 底があって、無い時空の扉。
人間界へ行く時通る水の扉は、本来王族しか通れない。他の者はただ溺れてしまうか、底に辿りつくことも出来ずに浮かんでくるは
ずだったが、昂也の姿は欠片も・・・・・いや、その気配さえ残っていなかった。
まるで忽然と消えたというのが当てはまる。
 「・・・・・っ」
(コーヤ・・・・・!)
 今ならば、紅蓮はコーヤの後を追えるかもしれない。しかし、自在に二つの世界を行き来出来るのかどうか分からない状態で、次
期王に決まっている己が勝手をするわけにはいかなかった。
 それでも、心が急いてしまう。今ならばと、もう一度泉の中に身体を投げ出すほどに身を傾ける。
 「あー」
 「!」
唐突に聞こえてきたその声は、不甲斐無い紅蓮を叱咤するように聞こえた。
 「青、嵐」
 『いったい、何があったんですかっ?』
 赤ん坊の姿の青嵐を抱いて現れたのはタツミだった。
タツミは焦ったように何か言っているが、その言葉の意味は全く分からない。それでも、言葉の中にコーヤという響きを聴きとり、紅蓮
はタツミもこの異変に気付いたことを知った。
 「あー」
 『せ、青嵐っ?』
 そんな中、タツミの腕の中から抜けだした青嵐が泉へと這い寄り、その両手を水の中につけた。
次の瞬間、小さな手から放たれた眩い気の光に、紅蓮は青嵐が何をしているのか悟る。青嵐はこの時空の扉の性質を変えようとし
ているのだ。
 「・・・・・」
 止めなければならないはずだった。長い間、王族が守ってきた時空の扉を私欲のために変えるなと、王になる自分が止めなければ
ならなかった。
それでも・・・・・。

 バシャッ

 紅蓮は自分の両手を泉につけた。
(迎えに行くことは出来ないが・・・・・戻ってこいっ、コーヤ!)
青嵐と自分は違う。欲望のままに行動出来る青嵐と、竜人界を背負った自分は同じであるはずが無い。
しかし、今この瞬間、コーヤを求める気持ちは同じだと感じると、頭の中に青嵐の声が響いた。

《後はコーヤ次第》






 青嵐は紫苑から奪った力と、自身が持っている力を時空の扉に注ぐ。
コーヤが自分を置いて帰るわけが無く、これはこの世界が決めた結果なのだろう。それはそれで、青嵐は構わなかった。自分が人間
界に、コーヤの傍に行けばいいだけだ。
 この世界にはコーヤを必要とする者が多過ぎる。青嵐はコーヤを誰かと分け合いたくは無かった。
ただ、この時空の扉をくぐることは、角持ちの青嵐といえど難しい。王家の血を引かない者を拒絶する泉に、自分をちゃんとコーヤの元
まで運んでくれる意志があるかどうかも分からなかった。
 だから、この時空の扉の性質を変えようと思った。多少でも変化が見えれば、少なくともコーヤをこちらへと呼び戻すことは可能なは
ずだ。
 しかし、コーヤが望まなければ、彼はこちらに来れない。それだけは揺るがない真実なのだと、青嵐はどういうわけか自分に協力して
くれようとする紅蓮の頭の中に話し掛けた。

《後はコーヤ次第》








 コーヤが姿を消してから一夜が明けた。
紅蓮は一睡もせず、時空の扉の前に佇んでいた。
 「・・・・・」
 「兄様」
 タツミから状況を聞いた碧香は、昨日の内に一度地下神殿にやってきたが、紅蓮はただ言葉少なく事情を話すことしか出来なかっ
た。
とにかく、体調が万全ではないからと休むように言いつけたが、碧香は再びこの場へとやってきて、泉の傍で布にくるまれて眠ってい
る青嵐の姿に少しだけ笑みを浮かべる。
 「部屋に運びましょうか」
 「ここから動かすと泣き叫ぶ」
 黒蓉やタツミがそうした時の騒ぎを思い出し、紅蓮は眉を顰めた。
 「そうですか」
 「・・・・・こ奴も必死なのだろう。目を離すと飛び込みかねない」
 「それは、兄様もでは・・・・・ありませんか?」
 「・・・・・」
碧香の言葉にようやく視線を向けると、真っ直ぐな眼差しが己を射抜いている。
 「王と定められていなければ、兄様も昂也を追い掛けていきたいと思ったのではありませんか?」
 「私が?なぜそのようなことを・・・・・」
 「兄様はとても責任感の強い方です。だからこそ、自分の思いのままに動くことが出来ないのでしょう?」
 「・・・・・っ」
 さすがにたった1人の弟である碧香には心情を読まれているらしい。
しかし、紅蓮はそれを認めるわけにはいかなかった。ここで同意してしまえば、自分が民を捨てようとしたことになってしまう。
(それだけは、出来ない)
 紅蓮の眼差しは、再び泉へと向けられた。同じように、碧香も視線を向ける。
 「・・・・・昂也は、どうするでしょうか」
 「・・・・・」
 「自分の生きてきた世界で、もうこちらの生活を忘れようとするでしょうか」
 「碧香」
きっと、それは碧香が自分自身に問い掛けたいのだろう。
タツミが共に人間界へ行きたいと願い、碧香もタツミと離れないことを兄である自分にも伝えてきた。
愛する者と共にいることを願ったものの、実際に人間界に行ってしまえば自分の中の竜人界への思いが消えてしまうかもしれないと、
今回のことで碧香の中で小さな恐れが生まれたのかもしれない・・・・・それを恐れているのだ。
(しかし、それはお前自身が決めたことだろう)



 昂也がいなくなり、碧香は初めて自分がこの世界から消えてしまうことを現実のものとして考えた。
玉を探しに人間界に行った時とはまるで違う。あの時は必ず竜人界に戻ってくるということが決まっていたが、今回はそれが叶うかど
うかも分からない。
もしかしたら二度とこの地を踏むことが無いかもしれない・・・・・そう思った時、碧香もまた、足が動かないような気がした。
龍巳を思うこととはまた違う愛情を、兄に、この世界に抱いているのだ。
 「碧香」
 「兄様、私は・・・・・」
 「お前がこの地を離れようとも、私の弟であることには変わりない」
 「・・・・・っ」
 「私自身、コーヤをどうしたいのかいまだに分からない。己の中のコーヤの意味が、掴み切れていない。それでも、このまま手放して
はならないと・・・・・心が叫ぶのだ」
 そう言うと、兄は碧香を抱き締めてくれる。しかし、その手はまるで縋るように強かった。
 「だからこそ、青嵐の力に懸けた。あ奴がコーヤを引き寄せることが出来るのならばと、私の気も合わせて注いだ。・・・・・出来ること
はした。後は・・・・・コーヤがどうするかだ」



 碧香にそう言いながら、紅蓮は自分がすべきことが見えたような気がした。
 「あ、兄様っ?」
このままここにいて、コーヤが戻って来るのを待つつもりだった。しかし、そうしている間にも時間は流れている。王である紅蓮の力を
待つ民がいる。
 「政務に戻る」
 「こ、昂也は?」
 「・・・・・今度は、私には分かるはずだ」
 時空の扉に注いだ己の気が、今度コーヤの存在を感知したならば、必ず自分にも分かるはずだった。
紅蓮は背後を振り向き、まだ眠っている青嵐の姿を見る。
 「あ奴の世話をする者を寄越さなければな」
 ここから動かすことが出来ない青嵐は、力があるとはいえ見掛けは赤ん坊だ。どうしても世話をする者は必要だと、早速神官の1人
を寄越す手筈を考えた。
 「本当によろしいのですか?」
 紅蓮が本当にここから立ち去る意志を固めたことが分かった碧香は慌てたように訊ねてきたが、そんな弟に紅蓮は思いがけず穏や
かな口調で問い掛ける。
 「碧香、王になる私がするべきことは何だと思う?」
 「・・・・・民の幸せをつくり上げること」
 「そうだ」
 ならば、何をすべきかは分かるはずだろう。
(それに、コーヤがここにいればきっと、何をしているのだと怒鳴りかねない)
人間なのに、この竜人界の民のことを心から心配をしていたコーヤ。紅蓮が己に課せられた役割を全うしていなければ、きっと王に対
する言葉とは思えないような物言いで怒鳴るに違いない。

 「グレンッ、ちゃんと仕事しろってば!あんた、王様だろっ?」

 「・・・・・」
(早く、怒鳴りに来い)
 何時まで待たせるのか分からないが、自分はそれほど辛抱強い方ではない。
紅蓮はそう思いながら今度こそ立ち止まらずに地下神殿を出た。再びここに戻って来る時は、必ず大切な存在をこの手にする時だと
信じた。