この出来事を自分だけで処理をするには、尚紀はあまりにも経験値が低かった。
いや、もっと言えばほぼゼロに近く、初恋が中学3年生で、ファーストキスが高校2年生という奥手な尚紀にとって、大学で随一
のヤリチン・・・・・いや、人気者の、それも自分と同じ男である佐久間の提案に直ぐに頷くことは出来なかった。
 強引なキスの後、辛うじて佐久間を振り切った尚紀は、逃げるように走りながら伊丹の携帯に電話する。
 『ハッチッ?』
伊丹は直ぐに電話に出てくれ、大丈夫かと咳き込んだように聞いてくる。その声が嬉しくて、尚紀は思わず鼻を鳴らしながら辛う
じてと答えた。
 まさか、キスをされたなどとは言えるはずが無い。
拒むことも出来なかったのかと言われたら、何と答えていいのか分からないからだ。
 「い、伊丹っ、はなっ、話がっ」
 『分かってる。構内は今目立つから、何時もの店、【風か(ふうか)】に来いっ』
 「わ、分かった」
 電話を切った尚紀は落ち着かなかった。構内が目立つというのは、学食で佐久間に告白された様子をかなりの人数に見られ
たからで、そこからどんどんと話は広がって行き、今頃は・・・・・。
 「う・・・・・想像したくない」
 つい先ほどまで平凡に生きていたはずなのに、どうしてこんな風に渦中の人間になってしまったのだろうか。
ワイドショーは見るのは楽しいが当人にはなりたくないと変なことを考えながら、尚紀は俯き加減のまま急いで学校を出た。




 伊丹も急いでくれたのか、2人が店で落ち合ったのはほぼ同時だった。
ここは大学の生徒も良く来る喫茶店なので、2人は一番奥の席の、外からも中からも目立たない場所で顔を突き合わせた。
 「じゃあ、ヤリキングが言ったことって冗談じゃなかったのか?」
 「わ、分かんないけど」
 「けど?」
 「・・・・・分からないって〜」
 キスしたことは除いて、ほぼ全ての佐久間との会話を話した。それと同時に、先日構内で見てしまった佐久間と女生徒のエッ
チのことも話すと、伊丹ははあと深い溜め息をつきながら椅子に座り直してしまう。
 「多分・・・・・あれだ」
 「あれって?」
 「ほら、美味いものばっかり食ってると飽きるっていうだろ?肉ばっか食ってたら、梅干しが食べたいっていう」
 「俺が梅干しって言うのかっ?」
 「例えだよ、例え」
 苦笑しながらそう付け加えた伊丹は、手を伸ばして尚紀の髪をクシャッと撫でてきた。
 「俺にとっちゃ、ハッチはかわいーけどな」
 「・・・・・男に可愛いって言われても嬉しくない」
 「言うね〜」
 「それよりも、俺どうしたらいいんだよ?冗談だとしても、こっちが嫌だっていうのに納得してくれないんだぞ?あんな目立つ男に
周りをうろうろされたら、それこそ変に目立って・・・・・」
 「いや、目立つって言うよりも、女達から苛められるだろ。あいつは無節操に手を出すけど、本命は作らないって噂だ。そもそも、
自分から付き合おうなんて言ったの、ハッチが初めてじゃないのか?」
光栄だろうと言われても、女ではないので嬉しいはずが無い。
自分が望んでもいないのにあんなふうに捜され、あろうことか不特定多数の前で交際を申し込まれるなど、趣向の変わった苛め
としか思えなかった。
 「やっぱあれかな、エ、エッチを見ちゃったから、口止めしたいとか?」
 「それも今更だろ。あいつが公開セックスしたとしても不思議じゃないんだし。まあ、教授達に見られたら問題になるかもしれな
いけど、ハッチみたいな一般生徒が見たからって慌てるタイプじゃないな」
 「・・・・・じゃあ、どうして・・・・・」
 わざわざ自分を捜して、あんなふうに交際を申し込んで来るとは、佐久間の考えが全く分からない。
 「とりあえず、しばらくは奴を避けることだな。いいか、ハッチ、どんなに口が上手く説得されたって、相手がヤリキングであるの
は変わらないんだ。本気であるはずが無いと、無視だ、無視」
 「う、うん」
もちろん、単にからかうだけなら今日のことだけでも十分だろうし、万が一本気だとしたら・・・・・それこそ、考えるのが怖い。
(逃げるが一番だな、うん)
それが卑怯な手段だと分かっていても、尚紀はもう絶対に佐久間に係わらないぞと心の奥深くで決意していた。




 佐久間には絶対に係わらない。
 「よ」
 「あ」
と、決めていたはずなのに・・・・・。
 「な、な、なんでここに・・・・・?」
 「ハッチが取っている講義を教えてもらったんだ。お願いって頼むと、皆協力してくれるんだよ」
優しいねと甘い笑顔で言われても、女ではない尚紀はドキッとすることもない。いや、全く別な意味でドキドキと心臓が高鳴って
いるものの、それはけして嬉しさからではないということは確信出来た。
 「・・・・・なん、の、用?」
 「ん?だって、好きな相手とは少しでも長く一緒にいたいもんじゃない?」
 「・・・・・は?」
 「だから、好きな・・・・・」
 「ストーップ!!」
 笑いながら同じ言葉を繰り返そうとしている佐久間を慌てて止めると、尚紀は恐る恐る周りを見た。
(うわ・・・・・)
その瞬間、何人もの目と視線が合う。自分と佐久間との会話を周りが興味津々で聞いていることがそれだけでも分かった。
(に、逃げたい・・・・・)
 目立つことが嫌いな一般人な尚紀は今すぐにでも席を立ちたかったが、もう間もなく講義が始まるという時間に立ってしまえば
欠席扱いになってしまう。隣にいるド派手なヤリチン男から逃げるのと、自分の講義のどちらを取るかと言われれば、小心者の
尚紀はここで無になることを選んだ。
 いくら佐久間でも、講義中は大人しいはずだ。何とか時間をやり過ごし、終わったならば速攻で教室を出て行ってやると、鞄も
膝の上に置いてじっと俯いていた。




 「ねえ」
 「・・・・・」
 「ハッチ」
 ピクピクと、机の上に置かれている指先が震えている。
(声だけで感じてるのかな)
それだったら楽しいなと思うものの、尚紀はなかなかこちらに顔を見せてくれない。
さすがに今この場でキスをしてしまえば泣き出してしまうかもしれないと思って自重しているものの、反応が初々しく面白い尚紀
をからかうのは止められなかった。
 片肘をついてじっと尚紀の横顔を見ていると、その頬がジワジワと赤くなっていくのが分かる。この反応は、もしかしたらと思わ
ず笑みを浮かべた時、
 「あら」
直ぐ近くで女の声がした。
 「よし、佐久間君」
 わざわざ言い換えているのは、きっとわざとだ。自分が馴れ馴れしい人間は嫌いだと公言しているので、きっと名前を呼ぶのも
控えたのだろうが、そんな風に気遣って貰っても嬉しいという気持ちは起こらない。
(・・・・・あ、確かこの間)
 何週間か前、偶然街ですれ違った。肩がぶつかって、謝れば同じ大学の学生だと言われ。

 「私、前から佐久間君と話がしたかったんだけど、何時も隣に誰かいるでしょう?今日は1人なんだ、ラッキーかも」

嬉しそうに笑いながらそう言った言葉を聞けば、この出会いも偶然ではなく仕組まれたものかと疑ってしまう。
 それでも、たまたま身体が空いていたのでそのままホテルに行ってセックスをした。自分から声を掛けて来るだけになかなか気
持ちが良いものだったが、終わってしまえばそれだけだ。
 セックスが上手いだけでは特に印象には残らない。
(むしろ、ハッチのように堕ちそうで堕ちない方が楽しいし)
その上、これは計算ではないのだ。
 「この講義、取ってた?」
 「いや、時間が空いてたから」
 「あ、じゃあ」
 そう言って、女の手が肩に置かれた。鈍感ではない佐久間にはそれが誘いの合図だと直ぐに分かる。
きっと、講義中に話し掛けても尚紀は視線も向けてくれないだろう。赤い頬をじっと見ているのも楽しいが、それだけでは満足出
来ないのが男の性というものだ。
 「暇なの?」
 目を細め、意識して声を落として訊ねると、女は顔を赤くして頷く。
 「じゃあ、遊んでくれる?」
 「え、ええ」
返事と共に立ち上がると、佐久間はチラッとこちらを見た尚紀に笑い掛けた。
 「また後でね、ハッチ」
 自分を待っている女の肩を抱きながら教室を歩くと、いっせいに視線が集まるのが分かる。どんなふうに噂されているのだろうと
興味が湧かないわけではないが、それを知っても多分自分は何も気にしないだろうなと思った。




 「な、何だ、あれ?」
 確か、自分に付き合ってくれと言ってきたのは昨日だったはずだ。その相手を目の前にして、他の女の子と堂々と出て行くとい
うのは一体どういう神経だろう。
 (いやいやいやっ、別に全っ然気にはならないんだけど!)
 冗談かもしれないが、それでも尚紀は佐久間の気持ちを受け入れられないと決めたのだ。男の行動に気持ちを動揺させられ
ることもないはず・・・・・なのに。
 「・・・・・くそっ」
(だから、相手にしたくないのにっ)
 身近に知らなかったら、こんな風に気になることなどなかった。例え目の前で女の子の肩を抱かれたとしても、ふ〜んと思うだけ
で終わったはずだ。
やはり、ヤリチンの男はどうしようもないのだと改めて自分に言い聞かせた時、前方の扉が開いて教授が入ってきた。




 昼食。
尚紀は伊丹を誘って、何時も通りに食堂にやってきた。
 「聞いたぞ」
 「え?」
 「浮気されたって?」
 うどんをぶっと噴き出した(今日はカレーうどんにした)尚紀に汚ねえと文句を言う伊丹だが、尚紀の方こそ変なことを言って驚
かせるなと文句を言いたかった。
 「俺はあいつとはっ!」
 「ハッチ、声を落として」
 「・・・・・っ、あいつとは、何でもないんだよっ。だから、浮気とか関係ないから」
 確かに、直前まで話し掛けられていたが、自分は全く反応しなかったはずだ。その内に佐久間は教室に入ってきた女の子と出
て行ってしまって・・・・・その後2人がどうしたなんて気にもしていない。
(あの後、まだ視線がチクチクと痛くって・・・・・)
 その上、講義が終わって教室を出ようとした時、見知らぬ女の子から、
 「負けないでよっ」
 「頑張って!」
などと、意味の分からない声援を掛けられた。意味は分からないものの、素直に喜んでいいものではないというのは何となく感じ
て、尚紀は答えることはなかったが・・・・・。
 「全部、あいつのせいだよっ」
 「あ」
なぜか、伊丹が後ろを見て声を上げる。次の瞬間、
 「あいつって?」
 「・・・・・!」
 突然に耳元で囁かれた声。その声の主が誰なのかなんて考えなくても分かってしまう自分が嫌で、尚紀は動揺する気持ちを
隠しながら睨むように後ろを振り返った。