6
「義仁っ」
大学の門をくぐった瞬間に名前を呼ばれた佐久間は、内心で溜め息をつきながら振り向いた。
「昨日、何時の間にか帰っちゃうんだもんっ。電話にも出てくれないし・・・・・」
「あー、ごめん。ちょっと急用が出来て」
「・・・・・それって、他の女との約束?」
上目遣いに自分を見上げてくる女は、多分この仕草が可愛いのだと自信を持っているのだろう。
自分が遊ぼうと思っただけに、女の容姿は一般的に見て良い方だとは思うが、言動の全てに計算が見えてしまい、ベッド以外で
見たら呆れてしまうしかない。
いや、そもそも、目の前の女に自分の行動を問い詰める権利はあるのだろうか?最初から遊びで、セックスだけの関係だと言っ
てから遊んでいるのに、他の女のことを口に出すなどルール違反のなにものでもない。
自分の行動に文句を言える立場なのはただ一人の恋人だけだ。彼が黙っているのなら、他の人間の言葉など全く耳には入っ
てこなかった。
「義仁ってば!」
「名前」
「え?」
「俺、名前呼ばれるの好きじゃないんだけど」
頬から笑みは消さずに、佐久間は女を見下ろした。化粧をした顔が、見る間に青褪めていくのが分かる。
もちろん、他の女達の中には佐久間の名前を堂々と呼び捨てしている者はいる。それを一々咎められたということは、自分に今
後チャンスが無いのだということに気づいたのだろう。
(少しは利口ってことか)
「じゃあ」
「よし・・・・・佐久間っ」
「・・・・・」
縋るような声を背中に聞きながら、佐久間は足を止めずに携帯電話を取り出す。朝からあまり面白くない声を聞いたので、直
ぐにでも気分転換がしたかった。
「・・・・・あ、俺。おはよう」
尚紀は慌てて廊下を走る。
自分がどうしてここまで焦っているのかよく分からないまま、それでも少しでも早くと心が急いていた。
『ナオ、顔が見たいんだけど』
優しく甘い声で名前を呼ばれて、それでも嫌だと感じる者などいるのだろうか?
いや、本当は心のどこかで浮かれてはいけないと思っている自分がいた。あくまでも尚紀はお試しで佐久間と付き合っていて、そ
こには互いの行動に干渉しないという暗黙のルールがあると感じている。
佐久間本人はそんなことを尚紀には言わなかったし、以前の生活からは考えられないほどに女達と付き合う時間を減らして、
まだお子様な自分を優先してくれている。
嬉しいのに、どこかで無理をしているんじゃないかと思ってしまい、以前から噂で聞いていた奔放な佐久間というのが何時再び
戻ってくるのだろうかと思って・・・・・。
「・・・・・」
尚紀はふと足を止めた。
(慌てること、ないよな)
もしも、佐久間が自分の到着を待ちきれないのならば、勝手に他の誰かを呼ぶだろう。自分だけが彼に気遣っているのはフェア
じゃないような気がして、尚紀は意識して歩みを遅くした。
「・・・・・」
呼び出されたのは図書室。後十数分で講義が始まるせいか、廊下には人影は無く、多分この中にも・・・・・。
(まだ、いるかな)
確か、今日は二時間目の講義から出ると言っていた。それが本当ならばいるはずだが。
ガラ
そっとドアを開けると、途端に飛び込んでくる本の匂い。
どちらかといえば読書が好きな尚紀はホッと安堵の息をつき、静寂の支配する本棚をかいくぐって一番奥へと向かうが、自然とそ
の歩みは速くなっていた。
長机に頬杖をしながら視線を入口の方へと向けていた佐久間は、ドアが開いた音にフッと口元を緩めた。
「少し遅かったな」
もっと早く駆けつけてくるのではないかと思っていたのだが、予想していた時間よりは少し遅い。
(俺を焦らせるなんて・・・・・まあ、無意識なんだろうけど)
まだ、尚紀と付き合うようになってから時間は経っていないが、思った以上に子供なんだというのは直ぐに分かった。
それは恋愛に関することだけではなく、人に対する行動全般を見てそう感じるのだ。面白いことがあれば笑い、腹が立てば怒る。
当たり前だが、この歳になるとどこか斜めに構えて隠したくなる感情を、尚紀は素直に見せてくれていた。
裏表が無いその態度はとても好ましかったし、変に媚を売ってこない姿がいい。顔だけ、身体だけだと擦り寄ってくる女達と尚
紀は違うのだと、佐久間は初めに感じた直感で尚紀に交際を申し込んだ自分は正しかったと思っていた。
ただし、未だ全てを許してくれない尚紀に、多少の不満はある。
声を掛ければその日の内にでもセックスをしていた佐久間にとって、尚紀の慎重さはどこか物足りなく、寂しく感じていた。
「ナオ」
「さく・・・・・義仁」
ようやく姿を現した尚紀は、佐久間の名字を呼ぼうとして直ぐに言い直してくれる。
(本当に、素直)
「今日は早かったんだな」
「うん、ナオの顔が早く見たくて」
「お、俺なんかの顔見たって仕方ないじゃんっ」
「ふふ」
(顔を真っ赤にして言っても説得力ないのに)
素直に嬉しいと言ってくれたら、直ぐにキスをすることも出来るのに、尚紀のそれにはどうしてもワンクッション言葉が必要になる。
ただ、佐久間はそれを手間だとは感じていなかった。
「じゃあ、ナオは俺に会いたくないわけ?」
「そ、そんなこと・・・・・」
「そんなこと?」
「・・・・・そんなこと、ない」
「合格」
(もっと早く言ってくれたらもっといいんだけど)
佐久間は笑いながら、来い来いと手で招く。尚紀は他人の目を気にしたのかキョロキョロと周りを見て、少しずつこちらへと近
付いてきた。臆病な兎みたいだなと思いながら、手が届く場所までその身体が近付いてきた時、
「うわあっ」
腕を掴んで引き寄せると、バランスを崩した身体が腕の中に倒れこんできた。
「しっ」
抱き心地は柔らかくない。華奢ではあるが、骨ばった身体に豊かな胸も無い。
チュッ
「!」
本当はもっと濃厚なキスがしたかったが、何だか場所が、時間がと尚紀が騒ぐことは目に見えていたので、佐久間は軽く唇を触
れるキスだけに止めた。
キスをされた。
初めてではなかったが、それでも誰の目があるとも(入ってきた時には誰もいなかったと思うが)分からない公の場所で、男同士の
自分達がキスをしていたら大変だ。
「・・・・・っ」
思わず佐久間の胸を突き飛ばして身体を離した尚紀に、佐久間は笑いながら酷いなと言った。
「恋人同志なのに、キスもしたらダメなわけ?」
「え・・・・・あ、えっと・・・・・」
「別に、俺がここでナオにキスしてたって、ただの冗談だとしか思われないんじゃない?」
「・・・・・」
(た、確かにそうかも・・・・・)
佐久間の女好き・・・・・いや、派手な女遊びは有名だ。そんな佐久間が男の自分にキスしていたとしても、単にからかっていると
しか思われないというのも当然だろう。
なぜか、尚紀は肩から力が抜けた。誤解を受けないということが寂しいと思うと同時に、どこかでホッとしている自分もいて、尚
紀はハ~っと息をついてから、佐久間と椅子一つ分空けてから座った。
「止めろよな、こんなことするの」
「ナオ」
「俺達は一応付き合ってるけど、TPOっていうの、考えるだろ?」
「・・・・・はいはい」
佐久間は一瞬じっと見つめてきたが、直ぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いてくれる。何時もの雰囲気に戻って、尚紀は安心し
て笑った。
「それより、何時も時間ギリギリに来る義仁が、一つ前の講義にまで間に合うように来るなんてさ。俺に会いたいって言うの、本
当は嘘だろう?」
「それはホント」
綺麗な笑みを浮かべながらそう答えるだろう佐久間に、自分は次に何と言えばいいだろうか。
「バレた?」
「え?」
しかし、佐久間の次の言葉は尚紀の予想したものとは全く違っていた。
「相手の部屋から直接来たからさ。慣れない場所に長くいることは出来ないだろう?」
「・・・・・相手って・・・・・」
「昨日セックスした相手」
「・・・・・」
(それを・・・・・俺に、言う?)
仮にも付き合っている相手に、恋人以外とセックスをしたということを堂々と言う男など・・・・・。
(ああ、ここに、いたっけ)
一瞬だけ、尚紀の顔は青褪めたが、次に出てきた言葉は呆気ないものだった。
「・・・・・ふ~ん」
「それだけ?」
「だって・・・・・俺、エッチ無しのお付き合いって言ってるし、さ。義仁は、エ、エッチしたいんだろう?」
「・・・・・」
(別に、セックス依存症じゃないんだけど)
あまりにも素直な、そして残酷な言葉を吐く尚紀に、佐久間の頬には自嘲の笑みが浮かんだ。
驚きとか、嫌悪とか。出来れば嫉妬して欲しいと思っているのに、尚紀はそんなことも思いつかないほど初心らしい。いや、もっと
はっきり言えば、そこまで佐久間のことを想っていないということだ。
「・・・・・」
こちらから強引に始めた関係だというのは自覚していたが、流されたといっても付き合うことを決めた相手が他の誰かを抱いたと
聞いてこんなに素直に頷かれるとは・・・・・。
(情けないなあ)
女遊びが激しいとか、セックスが好きだとか。そう思われるのは今までの自分の言動のせいだし、今だって現に尚紀以外の相
手を抱いている自分に尚紀のことを責める資格などないが、面白くないと思ってしまうのは・・・・・。
「俺の方が、執着し始めてるってことか」
「え?」
「なんでもない」
目の前の尚紀は先ほどの自分の言葉に動揺しているのか、今の言葉は聞こえなかったようだ。良かったと、妙なプライドが守ら
れてホッとした。
「・・・・・昼、一緒食べれる?」
「義仁は、他に約束無いのか?」
「あっても、ナオが優先」
「く、口上手いな」
それが本気なのだと、どうして当の本人には伝わらないのかと、佐久間は手強い尚紀の攻略方法を練り直す必要性にかられ
た。
![]()
![]()