グイ

 「痛っ」
 いきなり眉間に強く指を押し当てられてしまい、尚紀は口に運ぼうとしたスプーンを止めて目の前の伊丹をジロッと睨んだ。
 「何するんだよ」
 「気になったから」
 「はあ?」
午後1時過ぎ。昼食のピークの時間は過ぎたので学食の中はかなり空席が目立つ。
 直前にあった講義が少し伸びてしまい、どうせならば時間をおいてからゆっくりと昼食を取ろうと決めて、2人は今の時間にやっ
てきていた。
最近は佐久間に遠慮してか、伊丹は授業以外で尚紀とあまり一緒にいなくなったが、今日は久し振りに時間を合わせ、静か
に安くてボリュームのある食事をとっていたのだが。
 「気になったって?」
 唐突に言った伊丹の言葉の意味が分からなくて首を傾げると、はあと溜め息をついた伊丹はカツ丼を運んでいた手を止めて
言った。
 「皺だよ、皺」
 「皺?」
 「どんなにテストの成績が悪くったって、飯だけは笑って食っていたお前がそんな風に難しい顔してカレーを食ってるなんてさ。ハッ
チ、・・・・・やっぱり、無理してるんだろ?」
 その言葉が何を指しているのか、尚紀は何となく予想がついて苦笑を漏らした。
(顔に出ちゃってるのかあ)
確かに、参っている。
しかし、それは多分伊丹が思っているのとは違う問題だ。
 「あ、カレー君」
 「・・・・・」
(・・・・・来た)
その原因が、またこうして向こうの方からやってきた。




 「あ、カレー君」
 見知らぬ女生徒2人組に、伊丹は内心舌をうった。
今時の女子大生らしく、髪は茶髪に染め、化粧もバッチリとして。ミニスカートは屈めば下着が見えそうなほどに短く、上も胸が
強調された服で、どう見ても尚紀の知り合いには見えなかった。
 「・・・・・」
 尚紀自身も、困惑したような表情をしているので、きっと見知らぬ相手なのだろう。
 「どうしたのー?佐久間は?」
 「え・・・・・今日は、昼からだと思うけど」
 「へえ、知ってるんだ」
 「・・・・・」
(嫌な感じだな)
伊丹は人の外見にとらわれない性格だが、それでもこの何かを含んだような言い方はどこかチクチクと胸を刺激してくる感じで不
快だった。
 「義仁が付き合ってるってふいてたけど・・・・・それなら、もっとそれらしい相手を選べばいいのに」
 「でも、相変わらず誘いにはノッてくれるってエミが言ってたわよ」
 「・・・・・ぷっ、だって、この顔じゃあ、ねえ。男同士って言うだけでもハンデが大きいのに、佐久間ならもっと綺麗な相手が選べ
るじゃない。やっぱりこれはしつこい女対策のダミーなのよ、ね?」
 「え・・・・・っと」
 ねえと相槌を促されても、尚紀が答えられるはずが無い。
口篭ってしまった尚紀の表情は先程よりも辛そうに歪んでいるのに、目の前の女生徒達は全く気にしていないようだ。
 「私、今日誘ってみようかなあ。番号変わってないよね?」
 「そうじゃない?じゃあ、私は明日にしちゃおうか」
 何がおかしいのか笑いあいながら、自分達から話し掛けて来たというのにさっさと離れていってしまう。
 「・・・・・なんなんだ、あれ」
思わず口に出てしまった言葉に、尚紀はさあと曖昧な返事をした。




 眉間に皺が出来てしまう理由。
それは、今のような女達の存在だった。そうは言っても、当初危惧していたように、何か危害を加えられるとか、罵詈雑言を浴び
せられるとかとは少し違う。
 今の女達のように勝手に話しかけてきて、勝手に佐久間の考えを想像し、結局尚紀はフェイクなのだと結論付けて去っていく
だけなのだが。
(案外、くるんだよなあ・・・・・)
 ジワジワと、言葉の重みが心に降り積もってきて、どうしても尚紀の中からモヤモヤとした思いが晴れない。
いっそのこと、佐久間には似合わないとか、別れて欲しいとか感情をぶつけてきてくれればいいのだが、そうする価値も無いような
反応をされてしまうと、怒るに怒れないし、泣くに泣けない。
 「なんなんだ、あれ」
 伊丹も、何か不快な思いを抱いたらしい。自分の傍にいたせいで申し訳ないなと思い、尚紀はごめんなと謝った。
 「何でお前が謝るんだよ」
しかし、そんな尚紀の行動がさらに伊丹には面白くなかったらしく、眉を顰めて睨まれてしまった。
 「だって、伊丹やな思いしたろ?」
 「お前のせいじゃない」
 「でも、俺といたからだし」
 佐久間ほどではないものの、伊丹もモテる要素を持った男で、本当ならばさっきの女生徒達も誘いをかけてきてもおかしくない
ほどの男だ。今は多分、尚紀の存在に気を取られてしまって、彼女達の視界に伊丹は映らなかったのだろう。
 「・・・・・もしかして、初めてじゃないのか?さっきみたいなの」
 「・・・・・まあ」
 「どうして言わなかった?」
 「害は無いし」
 そう、気にしなければいい話なのだ。冷静に聞けば、彼女達の話は正論で、尚紀だって本当にあの佐久間と付き合っているの
かと未だに考えることの方が多い。
あれ程モテ、魅力のある男が、よりによって自分のような男に手を出さなくったって、男に興味があるのならばもっと外見が良い者
は大学には何人もいる。
 「尚紀」
 「・・・・・ん?」
 「遅くないんだぞ?」
 「え?」
 「お前ら、その・・・・・」
 なぜか、少し口篭ってしまった伊丹は、意を決したように身を乗り出して囁いた。
 「してないだろう?・・・・・セックス」
 「・・・・・っ」
こんな場所で何を言うのだと、尚紀は頬が熱くなった。それでも、ここで大声を出さないだけの理性は残っているつもりだ。
 「変なこと言うなよ、馬鹿っ」
 「変なことじゃないって。セックスしたら嫌でも情が移るからな、今のうちなら絶対傷付かない。尚紀、1日でも早くあいつと別れ
ろ、いいな?」
 「・・・・・」
 うんと言えたら、多分凄く楽だと思う。今だって付き合っている自覚が無いのだ、別れるといってもただ言葉でそれを告げるだけ
で全て終わることが出来る。

 「ナオ」

(・・・・・そうしたら、あんなふうに呼ばれなくなるのか)
 失うものなんてほとんど無いのに、どうしてそれを惜しいと思ってしまうのか。佐久間が与えてくれたものはそこまで大きいのかと、
尚紀はどうしてもその場で頷くことが出来なかった。




 「じゃあ、また誘うわね」
 「うん」
 細い腰を抱き寄せて、軽く唇を合わせる。その拍子に豊かな胸が腕に押し付けられたが、さっきまで直に触れていたので胸が
高まるということも無かった。
(・・・・・あ)
 女とのキスを解くと、タイミングがいいのか悪いのか、尚紀が廊下の向こうに姿を現した。
キスをしているところは見られてはいなかったと思うが、今こうして女を抱き寄せている姿はその目に映っているだろう。
 「・・・・・」
(妬いてる?)
 遠目のせいか、尚紀の細かな表情は分からないが、きっと怒っているはずだ。
 「佐久間?」
 「じゃあね」
佐久間は怪訝そうに訊ねてくる女からあっさりと手を離すと、そのまま尚紀が立っている方へと歩み寄った。

 だんだんと近付いてくる尚紀の姿を見て、佐久間は自分の方が顔を顰めてしまう。
(どうして笑っているんだ?)
全開の笑顔ではない。どこか、諦めたような表情なのだが、それでも口元が笑んでいるのが分かり、佐久間は少しだけ声を低く
してその名を呼んだ。
 「ナオ」
 「邪魔じゃなかった?」
尚紀は首を傾げる。佐久間の方こそ、首を傾げたい気分だ。
 「え?」
(どういうことだ?)
 「さっき、話中だったろ?」
 「・・・・・終わってた」
 あの体勢で、どうして話をしていただけだと思うのか・・・・・いや、もしかしたらカマをかけているのかとも思ったが、尚紀はそんな
回りくどいことをするタイプには見えない。
 「そう?」
 「セックスが」
 「・・・・・」
ピクッと、尚紀の頬が引き攣った。
 「・・・・・怒った?」
 「・・・・・ううん。分かってるし」
 「分かってる?」
(俺の何を分かっているって言うんだ?)
人の気持ちというものを、当人でない者が傍から見たとしても分かるはずが無い。特に、尚紀のような鈍感なタイプは絶対に無
理だと、佐久間は凄みを帯びた笑みを向けた。




 やはり、佐久間は自分とは別次元の人間だなとしみじみと思う。
同じ男だから、肉体の欲求が強まり、そこで誘われたら断りきれなくなる可能性もあることは分かる。
 ただ、尚紀は恋人がいる者ならばどんな誘いがあってもそこは理性で断るものだと普通に考えていた。それが、佐久間にとって
は誘いを受け入れることが普通なのだ。
 「あのさあ」

 どうして俺と付き合ってるんだ?

 根本的なことを聞こうと思った尚紀だが、そう言う前に突然佐久間に腕を掴まれ、
 「んむっ」
いきなりキスをされてしまった。話しかける寸前だったので緩んでいた唇からは簡単に佐久間の舌が入り込み、濃厚なものに変
化していく。
 「あっ!」
 「・・・・・っ」
(廊下、だった!)
 耳に入り込んできた第三者の声に尚紀の身体がビクッと震えたが、佐久間は少しだけ唇をずらし、
 「気にしないで、目を閉じててよ」
そう、呟くように言うと再びキスを再開する。
有名人である佐久間と、ごく平凡な自分が、学校の廊下で堂々とキスをしている。明日になったらどれくらいの人間がそれを知
るのかと思うと、尚紀は眩暈がするような気がした。