昔日への思慕
10
真琴達が再び病院に戻った時、付いているはずの淑恵の姿がなかった。
ちょうど医師に呼ばれて席を外していると見張りの人間に聞くと、海藤は黙ったまま軽くノックをしてドアを開けた。
「・・・・・」
視線だけこちらに向けた貴之は、ぞろぞろと中に入ってきた真琴達を見ても何も言わない。
「こいつがあなたに話があるそうなので」
海藤に促され、真琴は枕元に近付いた。
「あの、さっきはいきなり現われたくせにバッとものを言って・・・・・すみませんでした」
本当は思ったことの何分の一も言うことが出来なかった。
実際に苦労してきたのは海藤で、その大変さも知らない自分が生意気にそれを代弁していう事も出来ない。
ただ・・・・・海藤が無意識に感じている寂しさを、少しでも目の前の男に分かって欲しいと思ったのだ。
「理解、してもらえないかもしれないけど、俺は、海藤さんとずっと一緒にいるつもりです・・・・・いえ、います」
「・・・・・」
「これからの海藤さんには俺がいて、役にはたたないだろうけど、少しでも一緒にいて楽しいって思われるように、俺、頑張るつも
りです」
「・・・・・」
返事が返ってこない相手に、ずっと話し掛けるのはとても勇気がいる。
それでも、真琴は言葉を続けた。
「でも、俺は今と、そしてこれからの海藤さんとしかいられなくて、昔の・・・・・過去の海藤さんの傍には行けなくて」
「・・・・・当たり前だ」
貴之が静かに口を開いた。
その言葉の内容よりも、答えてくれたという事実に気持ちを振り起こして言う。
「だから、だから、お父さん、ありがとうって、言ってください」
「・・・・・」
「来てくれてありがとうって、海藤さんに言ってください。本当に・・・・・凄く、心配していたんですよ」
言葉にするだけが気持ちではないのは分かる。その空気を悟れと言われれば、どうにかして読み取ろうと頑張る。
それでも、空港で待ち合わせをした時の海藤の顔・・・・・まるで能面のように無表情になっていたその海藤の顔を思い出せば、ど
うしても一言でも言葉を掛けて欲しかった。
「お父さん」
「・・・・・来ることはなかった」
「な・・・・・っ?」
「親の死に目に会えないのはこの世界の常識だ」
「・・・・・なんでっ」
「真琴」
「海藤さん!」
「出るぞ」
「でもっ!」
「いいから」
悔しかった。
口先だけでも労わる言葉を言ってくれない貴之に対して、真琴は思わず叫んでしまった。
「ガンコ親父!!」
そして、そのまま病室を飛び出してしまった。
飛び出した真琴の後を追って倉橋が素早く病室を出た。
残った海藤と貴之はしばらく無言のままだったが、やがて海藤は我慢が出来なくなったようにクッと笑みを零してしまう。
「・・・・・なんだ」
「いえ・・・・・あなたに対してガンコ親父と言える人間がいるとは思わなくて」
「・・・・・」
不思議と、父親に会ってからずっと胸の底に溜まっていた澱のようなものが少し薄くなったように感じた。
今までは自分という存在の上に、常に圧し掛かっていた姿の見えない父親という存在。
一生逃れることは出来ないと思ったが、こうして久し振りに会った父親は頭の中に残っていた印象よりも随分歳を取っていた。
確実に、今の海藤の方が全ての面で上になっているだろう。
「来て良かったと思ってますよ」
「・・・・・」
「少なくとも、俺の古い記憶を塗り替えることが出来た」
(大きくて、圧倒的な存在だった父親を、記憶の中でも歳相応にすることが出来た)
真琴に感謝をしなければならない。
海藤が1人で来たとしたら、こんなにも客観的に父親を見れなかっただろう。
「3日・・・・・いや、2日で帰ります。今回の事は俺の責任のようですから、きっちり始末をつけますので」
軽く頭を下げて背を向けた時、
「貴士」
珍しく、名前を呼ばれた。
「何ですか?」
「あの子は・・・・・お前にとって有益な存在なのか?」
貴之ほどの年齢になれば、大学生の真琴も子供のような総称になるのだろう。
「有益かどうかは分かりませんが、必要な存在であることには間違いないですよ」
「・・・・・」
「あなたにとっての、伯父貴の存在のように・・・・・」
病院内で走ってはいけないことは分かっているが、真琴の足は直ぐには止まらなかった。
(俺はなんてことを〜っ!)
未明に手術が終わったばかりの病人、しかも、真琴にとって大切な恋人である海藤の父親に向かって、《ガンコ親父》と叫んで
しまったのだ。
腹がたってしまったとはいえ、言うべきではなかった言葉だ。
真琴は自己嫌悪を抱いたまま、エレベーターに乗り込もうとした。
「あっ」
「あら」
タイミングよく開いたエレベーターの中には、海藤の母親である淑恵の姿があった。
「来て下さっていたの?」
「あ、はい、度々すみませんっ。あの、今病室には海藤さ、た、貴士さんがいます」
中にいる2人とも海藤だと気付き、真琴は慌てて名前を言い換える。
「そう」
「あの」
「なに?」
「あの・・・・・すみません、貴士さんの相手が・・・・・その、俺みたいなので・・・・・」
色々な意味を含めて、とにかく謝らなければと思った真琴が頭を下げると、綺麗な細い指がそっと真琴の肩を叩いた。
「謝ることはないわよ」
「でも、本当ならちゃんと結婚して・・・・・」
「本当に、それは全然構わないのよ」
そう言って微笑む淑恵の目元は、少しだけ海藤に似ている感じがする。
「自分でも可笑しいと分かってるくらい、私にとっては貴之さんだけが大切なの。自分で産んだ子供を簡単に手放してしまえる
くらいに」
シンと静まり返ったエレベーターホールに、凛とした淑恵の声だけが響いた。
「・・・・・」
「今更私があの子に対して何かを言う資格なんてないわ。ただ・・・・・あの子が選んだあなたが・・・・・あなたにとって、あの子
が唯一の存在だったら、それで何も言うことはないのよ」
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