昔日への思慕



11







 「貴之さんが起きているといけないから」
 そう言いながら立ち去る淑恵の後ろ姿を見送りながら、真琴ははあ〜と深い溜め息を付いた。
 「・・・・・難しいな」
思わず、そう零してしまう。
まだ20歳にも満たない真琴には、大人の事情というものはなかなか理解出来ないものだった。ましてや、女の考えることは全く
想像も出来ない。
(海藤さん・・・・・淋しいよな・・・・・)
両親が仲がいいのは嬉しいことだが、それも度を過ぎてしまえば笑うことも出来ない。
 「真琴さんっ」
 「あ」
 その時、少し焦ったような口調で名を呼ばれた真琴は、早足で駈け寄ってくる倉橋の姿に気付いた。多分、突然病室を飛
び出した真琴を心配して追いかけて来てくれたのだろう。
慌てて駈け寄ろうとした真琴は、タイミングよく開いたもう1つのエレベーターから出てくる白衣の人間を視界の隅に捉えた。
(お医者さん?)

 「真琴さんっ!」
(え・・・・・?)

 一瞬、真琴は何が起こったのか分からなかった。
グッと腕を取られたかと思うと、誰かが全身で覆い被さってくる。焦って頭を上げようとしたが、強い力はそれを許してはくれなかっ
た。
 「・・・・・っ」
声は漏れなかったが、息を詰める気配を耳元に感じ、真琴はそれが倉橋だということにやっと気付いた。
 「く・・・・・」
 「顔を上げないでっ」
 何時もの倉橋とは別人のようなきつい口調に、真琴はビクッと身体を硬直させる。
全く見えない視界の代わりに、荒々しく乱れる複数の足音と、争うような気配を耳で捕らえた。



 病室を出た海藤は足早に真琴を追いかけた。
倉橋が直ぐに追ってくれたので心配はいらないとは思っていたが、たとえ病院の中だとしても敵の現状を把握していない今は完
全に安心とは言えなかったからだ。
 この階は特別室が並ぶ階で、今は貴之が入院しているので他の患者はいないように手筈を整えたはずだった。
人影も全くない廊下の先に、倉橋の背中を見付けた・・・・・と、
 「!」
 いきなり走り出した倉橋を追うように、反射的に海藤も走った。
嫌な予感がする。
(真琴っ!)
 「!!」
直ぐに追い付いた海藤の目に、エレベーターホールで床に蹲った真琴に覆い被さる倉橋と、直ぐ傍に鋭いメスを手にして立って
いる白衣の男が映った。
 「くっ!」
 海藤の姿を見付けた白衣の男は直ぐに踵を返そうとしたが、海藤は素早くその手を蹴り上げてメスを落とさせ、勢いのまま背
中に蹴りを入れた。
耐え切れず男が膝をついた時、階段を駆け上がってきた警備の男達が数人で男を捕らえる。
両手を拘束して抵抗を塞ぐと同時に、口には白衣の裾を突っ込んで舌を噛んで自害させないようにさせた。
それは本当に一瞬のことだったが、海藤にとっては気が遠くなるような長さに感じた。
 「真琴っ」
 蹲っていた2人の傍に膝をつくと、上にいた倉橋が直ぐに身体を避けた。
 「真琴」
 「・・・・・か、かいど・・・・・さ・・・・・」
素早く身体を見たが、どうやら怪我はしていないようだ。
それでも、いきなりの襲撃に相当ショックが大きかったのか、顔色は真っ青で身体も細かく震えていた。
 「・・・・・すまない」
 こんな、誰が狙っているとも分からない地で、一瞬でも目を離してしまった事を後悔したが、起こってしまった事を今更考えて
も遅い。
海藤は真琴の身体を抱き上げ、しっかりとその腕の中に抱きしめると、傍に立つ倉橋に視線を向けた。
 「怪我は」
 「大丈夫です。申し訳ありませんでした」
 倉橋は深々と頭を下げて自分の対応を詫びるが、もちろん倉橋に落ち度がなかったことは分かっている。
 「・・・・・」
ふと、倉橋の右袖が切り裂かれていることに海藤は気付いた。
包丁やナイフのような大きさはないものの、肉体を裂くことが出来るメスはスーツも綺麗に切り裂いてしまっていた。
床に落ちているメスには赤い血が付いている。
怪我をしているのは間違いないだろう。
 「医者に見せろ」
 「いえ、掠り傷ですから」
 「・・・・・」
見掛けによらず頑固な倉橋は、海藤や真琴をこのまま置いて治療など受けようともしないだろう。
 「綾辻を呼び戻そう」
 「会長」
 「何の為の幹部連だ。あちらにはまだ任せられる奴もいる」
 「・・・・・はい」
 眉を顰め、硬い表情になってしまう倉橋の心情は容易に想像がつく。
 もちろん、腕力的に倉橋が劣るというわけではなかった。
細身の身体ながら一通りの護身術を身に付けているはずの倉橋ならば、1人であったら先ずこんな怪我を簡単にすることはな
かっただろう。
ただ、そこには真琴がいた。海藤の次に最優先で守らなければならない存在の為には、自分の身を挺して守る方法しかなかっ
たのだろう。
 「・・・・・感謝する」
 腕の中のこの存在を守ってくれたことに何よりも感謝し、海藤はギュッと強く真琴を抱きしめる。
胸元にしがみ付いてくる手の強さで、真琴がどんな恐怖を感じていたか・・・・・想像するだけで海藤は自分が傷付くよりも胸が
痛いと感じた。
 「何をしていた」
 腕の中の温もりを確かに感じながら、海藤は白衣の男を取り押さえている護衛達に言った。
 声を荒げることはなかったが、その言葉は氷のように冷たい。
警備の男達の顔はたちまち色を無くした。
 「申し訳ありませんっ」
言い訳など必要なかった。たとえどんな理由があったとしても、護衛と名の付く使命を果たせなかったことには間違いがない。
貴之や海藤が傷付かなかったからいいというわけではないのだ。
 「真琴に掠り傷一つ付いていたら、お前達に明日はなかった」
 「・・・・・っ」
 「殺すな」
 「・・・・・」
 「全て吐かせるまで生かしておけ。何も知らない雑魚なら、死んだ方がましだという目にあわせろ」
 「はっ」
 「大事な幹部に傷をつけられた落とし前はきっちりつけさせてもらう」
 「!」
その言葉に反射的に顔を上げた倉橋は、傷付いた腕を押さえながら深々と頭を下げた。