昔日への思慕
12
慌しいノックの音がして、海藤は顔を上げた。
腕の中にいた真琴はビクッと身体を揺らしたが、今この場所に誰かが襲ってくることは100%無いといってもいいだろう。
入口付近に立っていた護衛が慎重にドアをスライドさせると、そこに立っていたのは僅かに髪を乱した綾辻だった。
「遅くなりました」
「・・・・・いや」
連絡を入れてから1時間もしない間にここに来たのは十分優秀だ。
頷く海藤に軽く頭を下げた綾辻は、普段は見せないような硬い表情のまま病室の中に入ってきた。
護衛達が真琴を襲った男を連行した後、すっかり腰が抜けてしまった真琴を取りあえず空いている特別室に連れて行った。
貴之との病室からは1つ間をあけてあるので気配は漏れないだろう。
「医者を」
海藤は真琴をソファに座らせると、青褪めた表情で立っている倉橋を見ながら言ったが、倉橋ははっきりと言葉で拒絶した。
「大した怪我ではありません」
「倉橋」
「本当に、大丈夫です」
「倉橋さん」
頑強に拒んでいた倉橋だったが、真琴の泣きそうな声にハッと視線を向けた。
「ごめんなさい、俺のせいで・・・・・」
「真琴さんのせいではありませんよ」
「ちゃんとお医者さんに見せてください。何かあったら・・・・・俺・・・・・」
頑固な倉橋も、真琴の真摯な思いには弱いらしく、渋々ながら治療を受けることを了承し、医者が来ると上着とシャツを脱
いでいった。
細身ながら滑らかな筋肉を付けた倉橋の背には、今は見えないが綺麗な龍の刺青が彫ってある。
自分の主の代わりに墨を入れた倉橋に、事後報告を受けた海藤は何も言うことが出来なかった。
ただ、自分の命が二つに分かれた・・・・・自分と一心同体の存在だと、倉橋という人間を痛烈に実感した。
恋愛感情ではなく、肉親の愛情でもなく、共に存在する・・・・・そんな人間を見付ける事が出来た自分を幸運だと思った。
「・・・・・っ」
麻酔を嫌う倉橋は、火傷するような熱さと痛みに耐えながら傷を縫われている。
鋭いメスで切られた傷は思ったよりも深かったようだが、余りの刃の鋭さに皮肉にも傷跡は綺麗なもので、この分ならば痕は目
立たなくなるだろうと医者が言った。
そして、切り裂かれた服の代わりを用意させている間に、連絡を取った綾辻が現われたのだ。
無言のまま歩いてくる綾辻の息は乱れてはいなかったが、うっすらと額に浮かんでいる汗で、綾辻が相当急いでここに駆けつ
けてきたのだということが分かった。
真琴は倉橋の怪我は自分のせいだと口を開きかけたが、海藤はその頭を抱き寄せて自分の胸に引き寄せた。
「海藤さん・・・・・」
「お前のせいじゃない。全ては俺の責任だ」
「・・・・・」
淡々と言う海藤に何も言えず、真琴はギュッとその背にしがみ付いた。
(綾辻のこんな顔は初めて見る・・・・・)
自分が傷付けられたよりも痛そうな顔。
普段の人当たりの良い雰囲気が一変し、まるで近付く者の肌を突き刺すような冷たいオーラを纏っている。
これほど怒っている綾辻の姿を、海藤も初めて見た気がした。
綾辻と倉橋・・・・・この2人が同じ幹部の中でも親しい間柄だとは分かっていた。倉橋は口では文句を言いながらも綾辻を
尊敬し頼っていたし、綾辻の方は人目も憚らず倉橋に懐いていた。
「・・・・・」
そんな2人の自分の目が届かない所での関係は知るよしもないが、今回のことで綾辻にとっての倉橋の存在がどれ程大きな
ものか、海藤は改めて見せ付けられた。
「・・・・・克己」
「綾辻さん」
ベットに腰を下ろしている倉橋は、肩にシャツを羽織った姿だった。
「お前・・・・・」
「すみません、みっともない姿で・・・・・」
バツが悪そうに目を伏せる倉橋を、綾辻はその前に立って見下ろした。
そしてそのままシャツを取ると、包帯を巻いてある右腕を見る。
「・・・・・っ」
眉を顰め、舌打ちをする・・・・・こんな綾辻の姿は誰も見た事がないだろう。
躊躇うこともなく倉橋の足元に跪いた綾辻は傷付いた右腕をそっと取ると、包帯の上から静かに唇を寄せた。
「あ、綾辻さん!」
珍しく大声を出した倉橋が慌てて綾辻から身を引く。
それには何も言わなかったが、海藤は綾辻の唇が紡ぎ出した声無き声を聞いた。
「野郎・・・・・地獄を見せてやる・・・・・っ」
その時、海藤はああと得心がいった。
綾辻にとっての倉橋の存在の意味を。
「マコちゃん」
しばらくして、真琴はポンと頭に手を乗せられた。
海藤の胸から顔を上げると、そこには何時もの笑みを浮かべた綾辻が立っていた。
「怖い思いしちゃったわね。でも、もう大丈夫だから」
「綾辻さん」
「この私がいれば100万力よ。少なくとも、克己よりは腕っ節に自信あるから」
先程垣間見た無表情さは跡形もなく、綾辻は真琴に罪悪感を抱かせないように柔らかい笑みを浮かべて言った。
「でも・・・・・」
「私と・・・・・何より、会長を信じて。絶対にもう誰も傷付かないから」
「・・・・・はい」
それがこの場を和ませる為の口からでまかせではないと真琴にも分かった。
「よし、いい子ね」
「あ、あの、でも」
「ん?」
「俺、倉橋さんも強いと思います」
「真琴さん」
ベットに腰掛けている倉橋は、真琴のその言葉に苦笑を浮かべた。
そして、チラッと綾辻を見ると、なぜか肩から落ちていたシャツを再び羽織ながら言葉を続けた。
「まあ、確かに綾辻は私よりは武道の心得がありますからね。頭よりは身体を使うタイプですし、真琴さんも遠慮なくこき使っ
てやってください」
「なに、それ、酷い言い草ね、克己」
「本当のことです」
2人の掛け合いを聞いていると、平和な日常が戻ってきたような気がする。
真琴はやっと強張っていた肩の力を抜いて、隣に座る海藤の腕にそっと身を預けた。
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