昔日への思慕



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 夕方、綾辻がホテルに来たと同時に、海藤の元には菱沼からの電話があった。
 緊張の糸が切れてしまったのと身体の心地よい疲れの為に、真琴はずっと眠っている。
その眠りを妨げないように、海藤と綾辻は倉橋の部屋に向かった。
 「・・・・・お疲れ様です」
 海藤に続いて入ってきた綾辻を見て、倉橋は一瞬間をおいて言った。
その言葉に小さく笑った綾辻は、海藤が座るなり口を開いた。
 「波多野と接触しました。郷洲組を解散させないという条件付で、菊池の首を差し出すそうです」
 「見切ったのか?」
 「元々、九州の人間は情が厚いみたいですからね。菊池のように汚いやり方で組を継承した人間について行く者も少ないよう
です。今回のことも、波多野は知らされていなかったと言いました。まあ、言葉通りに受け取ってもいいかは分かりませんが、そん
なに馬鹿な人間ではなさそうなので、知っていたとしても止めていたか・・・・・関知せずといった立場でしょう」
 郷洲組は小さいながらも良質のシマ(縄張り)を持っていたので、資金的には豊かな組であった。
だからこそ、周りの大手の組からも一目を置かれていた位だったが、先々代が亡くなってその子供が跡を継いだ頃から少しずつ傾
き始めたようだ。
 先代は昔気質の人間で、変わってきているヤクザ社会になかなかついて行けず、組の財状は下降線を辿るばかりだった。
そこにつけ込んだのが菊池らしい。
 「多分、薬に手を出してますね。去年辺りから急激に羽振りが良くなってます」
 「薬か」
 「うちはご法度ですけどね」
 「そんなリスクの多い稼ぎは能無しがすることです」
 黙って聞いていた倉橋がポツリと零す。
辛辣だが、的を得た言葉だ。
 「組の中でも、薬に関しては賛否分かれているそうです。合が、組長である菊池で」
 「否が波多野か」
 海藤は零れそうになる溜め息を押し殺した。
どんな組でも大なり小なり問題を抱えていて、それらにどう折り合いを作るのかは長である者の力量だ。
今回のように長であるはずの菊池が暴走してしまっては止める者もいないだろう。
 「まあ、言える事は、菊池は相当な馬鹿だということですね。元開成会の若頭に手を出したんですから」
 「引退した者に銃を向けるなんて何を考えているのか・・・・・」
 「そのままの勢いで関東に進出する気だったんじゃないか?」
 「・・・・・馬鹿ですね」
 それ以外言いようがないというように倉橋は吐き捨てた。
内輪揉めと、有り得ない夢のような関東進出。名を上げる為に取った菊池の行動は完全な破滅に向かってしまった。
 「会長、御前は何と?」
 「三和会の方にSOSをしてきたらしい。うちが戦争を仕掛けてきたと」
 「うちが?・・・・・よくもまあ、そんな」
 「既に伯父貴には連絡していたからな。鼻で笑って門前払いにしたそうだ」
 「当然です」
 「当然だな」
 あまりにも呆れた菊池の行動に、綾辻も倉橋も呆れるしかない。
勝手に向こうから仕掛けておいて、開成会のせいにするとは開いた口がふさがらなかった。
関東でも1、2を争う勢いのある開成会が、わざわざ地方の、それもそれほど大きくもない組に戦争を仕掛けるなど、誰が聞いて
も可笑しいと思うだろう。
 「醜いですね」
 「三和会以下、こちらの主だった組の人間は菊池から手を引くそうだ。後は好きにしていいと」
 「へえ・・・・・楽しみだな」
ニヤッと笑った綾辻の顔は、間違いなくヤクザの顔だった。



 目が覚めた時、真琴は部屋に1人だと気付いた。
(・・・・・海藤さん、どこ行ったんだろ・・・・・)
身体を重ねた後、そのまま気を失うように眠りに落ちたが、汚れていたはずの身体は綺麗に後始末をされ、ホテルの浴衣を着せ
られていた。
 「・・・・・あ」
 改めて、自分がどこにいるのか思い立った真琴は、急いで服に着替えるとそのまま部屋のドアを開けた。
 「あっ」
 「どちらに行かれますか?」
ドアの前には、まるでSPのような体格のよい男が2人立っていた。
 「あ、あの」
 「お部屋からは出ないようにと言い付かってます」
 「あ・・・・・あの、海藤さんは・・・・・」
 「真琴」
 海藤がどこに行ったのか聞こうとする前に、真琴は隣の部屋から現われた海藤の姿を見付けた。
どこも、何ともないことが分かると、やっとホッとして顔が緩むのが分かる。
 「悪かった。お前が気付く前に戻ろうと思ったんだが」
他の人間の目など気にせずに、海藤は真琴に歩み寄ってその頬にキスを落とした。
普段ならば恥ずかしくてすぐ身を離す真琴も、今は少しでもその体温を感じていたいので直ぐにその腕に縋った。
 「あ、マコちゃん」
 「綾辻さん」
 続いて姿を現せた綾辻は、にっこり笑いながら真琴に手を振ってみせた。
 「お肌ツヤツヤ。何したのかな〜」
 「あ、綾辻さんっ」
たちまち真っ赤になる真琴だが、次に倉橋に視線を向けると、慌てたように海藤から離れて駈け寄った。
 「大丈夫ですか?熱は出ませんでした?」
 「ええ、ご心配お掛けしました。痛みもほとんどありませんし、大丈夫ですよ」
穏やかに答える倉橋の顔色は悪くはなく、熱で火照って赤いという事もない。
しっかり自分の足でも立っているし、眼鏡の奥の目の力もしっかりと見て取れ、真琴は倉橋の言葉が強がりではないと知って
安心した。
 「少し早いが夕食にしよう。その後、俺は少し出る」
 「え・・・・・」
不安そうな目になったのが分かったのか、海藤は頬に笑みを浮かべる。
 「心配ない。時間はそう掛からないだろうし、綾辻も連れて行く」
 「マコちゃんは克己とお留守番よ」
 「倉橋さんと?」
 「不本意ですが、今の私ではお役に立てないので。でも、真琴さんのことはしっかり守りますのでご安心下さい」
 「そーよ、こう見えても克己は強いし」
 「こう見えてもとはなんですか」
 「・・・・・」
(何・・・・・するんだろ・・・・・)
本当は、どこに行くのか、何をするのか、聞きたいことは山ほどあった。
しかし、それは多分真琴の分からない海藤達の世界のことで、海藤もそんな自分達の事を真琴には見せたがらないだろう。
(大丈夫・・・・・大丈夫だよね?)
 今回、海藤の父親が銃で撃たれたり、実際に自分が刃物で襲われ倉橋が怪我をしている。
実害があっただけに絶対大丈夫だとどこかで信じきれないものの、真琴は分かったと頷くしかなかった。