昔日への思慕



18







 綾辻が海藤を連れて行ったのは、中央区の繁華街天神の一角、賑やかな人通りがポツンと空いてしまったかのようなビルだっ
た。
 「菊池の姉の夫の持ち物だそうです」
 「羽振りがいいのか?」
 「先代の組長の恩恵でしょうね。かなり立地のいい物件を所有しています。取りますか?」
 「三和会の方へ行くようにしろ。ここまで面倒見れない」
確かに、幾ら割りのいい物件でも、東京と福岡では距離がある。信頼する人間に預けたとしても、全ての案件に目を通すのは
結果的に海藤自身なので、無駄なことは極力排除をしているのだ。
 「分かりました」
 綾辻は直ぐに了承すると、そのままビルの中に足を踏み入れる。何件か飲み屋が入っているのに、どの店もまるで人気が感じ
られなかった。
もちろんそれは、事前に綾辻が手配を済ませ、ビルの中から人間を排除したのだ。
今、このビルの中には、数日前から潜伏しているはずの菊池と数人の組員しかいない状態だった。
 「綾辻」
 「はい」
 「殺すなんて優しいことはするな」
暗に、殺す以外のことはしてもいいという海藤に、綾辻は口元に笑みを浮かべて頷いた。
 「もちろんです」



 エレベーターの電源は既に切ってあるので、2人は階段を使って最上階の5階までやってきた。
そこは他の階とは違って1フロアーに作られているようで、綾辻が大きなドアの取っ手に手を掛けると、ドアはそのまま簡単に開い
た。
チェーンや補助錠もされていないのは、中に内通者がいるからだ。
普段の綾辻からは考えられないほど、全ての下準備が緻密になされていた。
 「・・・・・」
 2人きりのこの場では、海藤のボディーガードも兼ねる綾辻は、自らが先頭になって長い廊下を歩く。
その手は自然にコートの内側に入れられ、引き出された時には黒光りする拳銃が握られていた。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 廊下の突き当りには、再びドアがある。
綾辻は一度海藤を振り返ってから、無造作にドアを蹴り開けた。



 「だっ、誰だ!お前は!」
 「何もんだ!」
 ドアの向こうは広いリビングだった。
中央に置かれたソファの上で、片手に半裸の女を抱いている中年の男・・・・・この男が郷洲組の現組長、菊池だ。
潜伏中という切羽詰った中でも女を抱いている能天気さに内心呆れた綾辻だったが、菊池の声で別の部屋から駆けつけてき
た組員達が現われると、そちらにちらっと視線を向けた。
 「どうやって入ってきた!」
 「・・・・・」
 「おい!」
 菊池は瞬間的には恐怖を感じたようだったが、相手がたった2人だということに気付き、いくらか余裕を取り戻したようだった。
海藤と綾辻の美貌にぼうっと見惚れる女を突き飛ばし、ソファのクッションの下に隠していた拳銃を取り出して構える。
しかし、こんな修羅場には慣れていないのか、手が震えて銃口がぶれているのに、綾辻は失笑を零した。
 「なっ、何を笑う!」
 その笑みにプライドを刺激されたのか、菊池が銃口を綾辻に向ける。
しかし、それより一瞬早く動いた綾辻が菊池の手を蹴り上げた。
 「うわっ!」
 「・・・・・」
綾辻の長い足はそのまま菊池の顔面を蹴る。たちまちくぐもった呻き声と鈍い音が響く・・・・・間違いなく、歯が折れただろう。
 「昔、少しだけキックボクシングもしてたんでね。少しは効いたか?」
その光景を見れば、少しどころではないというのは明白だったが。
 「・・・・・菊池」
 それまで黙っていた海藤が、倒れた菊池の側に歩み寄った。
見下ろすその視線は、その容姿が恐ろしいほど整っているだけに、背筋が凍るほどの冷たさになっていた。
 「自分が狙った獲物の顔ぐらい知っておくんだな」
 「・・・・・ま・・・・・まさか・・・・・」
 「開成会の海藤だ。初めましてと言うところだが、この先もう会うこともないしな」
 「!」
 菊池は海藤の顔を初めて見た。
噂だけは嫌というほどこの九州まで聞こえてきた。まだ30代の、恐ろしいほど頭の良い、血筋さえサラブレッドの長となるべくして
なった男。
元々関東にいた菊池が下っ端から組長まで・・・・・やっと九州という地で成り上がった自分とはまったく立場の違うその男に、殺
意にも等しい嫉妬を感じた。
だからこそ、この九州に元開成会の若頭でもあった海藤の父親が療養にやってきたことを知った時、チャンスだと思ったのだ。
父親が死のうが生きようが、それは関係が無かった。とにかくこの九州に海藤を呼び寄せ、なんとかしてそのタマ(命)を奪って名
を上げようと・・・・・関東に出て、菊池ありと言わせたかった。
 「お前の考えは幼稚で、本来なら歯牙にもかけないくらいだが・・・・・お前は一つ、重大なミスを犯した」
 「・・・・・っ」
 「病院で男を襲ったな?」
 「そ、それがどうした!お前、オカマだろう!男のケツにぶっこんで何が楽しいんだ!」
 菊池が考えたように九州までやってきた海藤の隣には、組員には見えない若い男がいたという報告を受けた。
直ぐに東京の知り合いに連絡を取ってみると、どうやらそれは最近海藤が囲い始めた愛人らしい。
ちょうどいいと思った。海藤の女を殺すか、傷でも負わせれば、それだけでも溜飲が下がる気がした。
送り込んだ鉄砲玉(捨て駒の刺客)は戻ってこなかったが、何らかの成果はあったという報告を受け、菊池は美味しい酒を飲
んでいたのだ・・・・・ついさっきまでは。



 「会長、それ、俺に下さい」
 まるで菓子か何かを貰うように軽い口調で言った綾辻が、何時の間にか側に立っていた。
その姿は先程までとは変わらないが、革の手袋が濡れている。
海藤が振り向くと、何時の間にか床には数人の男が倒れていた。
 「楽にしたのか?」
 「少し撫でただけですよ」
 見掛けによらず有段者の綾辻は、それでも滅多にその拳を振るうことはない。自分の身体が凶器だと十分分かっているから
だ。
しかし、今回は事情が違う。綾辻が最も大切にしている聖域を傷付けた相手に、容赦などする優しさはなかった。
指を折り、関節を外し、威力ある足蹴りで内臓を傷付ける。
顔面を殴った時に鼻と歯が折れたようで、噴き出した血で手袋が汚れてしまったが、それ以外は何時ものスマートな姿そのまま
だった。
 「師匠には人を傷付けるなと言われたんだが・・・・・愛する人間を傷付けられたら、そんなことクソくらえだよな?」
 「や、やめ・・・・・」
 「銃で仕留めるなんて優しいことはしないって」
 綾辻はポケットから光るものを取り出した。
それは通常のナイフではなく、もっと小さく、もっと切れ味の鋭い特殊な刃物・・・・・手術用のメスだ。
 「あいつが負った痛み以上のものを感じさせてやるよ」
ペロッとそのメスを舐めて笑った綾辻の顔は、菊池の目には狂気の笑みに映っていた。