昔日への思慕



19







 「な、なんだ、お前はっ、お前達はなんだ!」
 不意に、アンモニアの臭気がした。
綾辻が視線を落とすと、菊池の下半身が濡れていた。
 「なんだ、今からそんなことでどうする?最後に出すもんがなくなるだろう?」
 「ひ・・・・・っ」
 「10年前まで関東にいたんだよな?なら、聞いた事がないか?東條院の御落胤の話」
 「と、東條院・・・・・か、んとうの、フィクサー・・・・・?・・・・・お、お前・・・・・」
 「あの時は18だった」
 「東條・・・・・院・・・・・・・・・・・・・・・18・・・・・・・・・・!!」
呆けたように綾辻の顔を見つめていた菊池の目が、次の瞬間張り裂けそうに見開いた。
 「お、まえ、東條院の・・・・・羅刹(らせつ)かっ?!」
 綾辻は笑った。
綺麗な笑みを浮かべたまま、ツッとメスを菊池の首筋に走らせる。
 「!!」
赤い線が、見る間にプッツリと赤い血の粒になって浮き出てきた。
 「やっぱり、耳には入ってたか。東の羅刹直々に手をかけてもらう事を喜ぶんだな」
 「ま、待って、待ってくれ、あや、謝る・・・・・!」
 「言葉に何の価値がある?」
言葉というもののあやふやさと、反面の恐ろしさというものを、綾辻はまだ庇護される歳の頃から思い知っていた。
言葉など、本来は信じる方が可笑しいのだ。
(その俺が・・・・・無条件に信じる相手が出来るとはな)
 倉橋と出会ってから、何の補償も無しに誰かの言葉を信じるということを知った。
倉橋1人だったものが、倉橋の崇拝する海藤、その海藤が愛する真琴と、少しずつ信じる者が増えてくる喜びと気恥ずかしさを、
綾辻は日々感じているのだ。
それを、ほんの一筋でも傷付けた人間には、死んだ方がましなほどの思いをさせなければ溜飲が下がらない。
忘れかけた昔の名前をわざわざ出したのも、菊池がけして手を出してはならない相手に牙を向けたという愚かさを知らしめる為
だ。
 「正気がなくなるまで・・・・・遊んでやるよ」



 海藤は眉を顰めた。
綾辻がなぜこんな小者に昔背負った通称を教えたのか・・・・・多分、それは菊池に更なる恐怖と絶望を与える為だろうが、そこ
までするほど怒りを感じているのかと思うと、綾辻の倉橋に対する激しい思いを痛烈に肌に感じた。
(東條院の、羅刹か・・・・・)
 若干18歳、まだ高校3年生だった綾辻が、その当時関東でも3本の指に入っていた暴力団、稲和会(いなわかい)を1人で
壊滅に追い込んだのは、その世界では伝説になっているほど有名な出来事だった。
世間では内輪揉めだとされているが、実際は違う。
緻密に追い込み、一気に叩いた綾辻は、その当時羅刹と恐れられていた。
その後、プッツリと消息を絶ったのは、当時関東のヤクザ社会でも大きな力を持っていた開成会の元会長菱沼が、綾辻に惚れ
こんでほとぼりが冷めるまではと海外にやったからだ。
 海藤が初めて綾辻に会ったのは中学生の時だったが、その頃の綾辻は男の目から見ても妖しいくらい綺麗で、しかし、この世
に何も執着をしていないというように飄々としていた。
 歳を取るにつれて少しずつ綾辻も変わってきたが、明らかに変化したのは倉橋と出会った頃からだ。
(倉橋は、あいつをこちらに引き止めている唯一の存在だな)
 「・・・・・」
綾辻は菊池を殺すことはない。
殺してやるほどの情けをかけることはないだろう。



 真琴は一度何かを言い掛けて・・・・・思い直したかのように口を噤んだ。
何を聞くのも言うのも、自分が思った以上の意味を含んでいるような気がして、どうしていいのか分からなかった。
(どういう意味って・・・・・そう、なのかな・・・・・)
 初めて会った時、宇佐見は真琴に蔑みの視線を向けていた。男が男に抱かれるということを認められなかったのだろう。
その宇佐見が何時から自分の事を・・・・・そう思うと、真琴は宇佐見の気持ちがどれ程のものか疑いたくはなってしまう。
 「あいつとは別れろ。後の面倒は全て見る」
 「・・・・・そんなの、変です」
 「どこが?」
 「全部です。俺は別に脅されて海藤さんの傍にいるわけじゃないし・・・・・」
 「あいつは暴力団だ。普通の大学生であるお前が一緒にいてどうする」
 「それでもっ、それでも、一緒にいたいんです」
 理由など無い。
好きだから傍にいたい、真琴の願いはそれだけだ。
 「・・・・・」
 「宇佐見さん、俺は、海藤さんと宇佐見さんが仲良くなって欲しいって思ってます。色々複雑な関係もあるみたいだけど、兄
弟は仲良くして欲しいって・・・・・。でも、そのせいで、もし海藤さんが嫌な思いをするなら・・・・・もう、仲良くしなくてもいいです」
あくまでも、真琴の一番は海藤で、真琴にとっては宇佐見は海藤の兄弟という意識しかない。今更海藤以外の手を取ること
など、全く考えられなかった。
 俯いて、両手を前でギュッと握り締めている真琴の背中を優しく撫でた倉橋が、そっとその身体を自分の後ろに促し、自身が
宇佐見の前に立ちふさがった。
 「お聞きになりましたね?このままお引取り下さい」
 「倉橋」
 「本来なら、警察関係のあなたとこうして話すこともしたくはないのです。私が今何の策もなくあなたの前にいるのは、あなたが
会長のご兄弟だからですよ」
 暗に、それ以上の価値はないという意味を含めて言うと、さすがに宇佐見の頬は強張った。
 「お帰り下さい」
 「・・・・・」
 「倉橋」
 「はい」
それでも、宇佐見はただでは引き下がらなかった。
 「俺をあいつの兄弟だと思っていると・・・・・そう言ったな」
 「・・・・・ええ」
 「それなら、俺にもあいつと同じ血が流れているな」
 「・・・・・」
宇佐見が何を言おうとしているのか、倉橋は緊張してその唇を見つめた。
 「可能性がゼロでも、強引に100にしてみせる性格も一緒だな」
 「宇佐見さんっ」
 「悪いが、簡単には逃がさないぞ、真琴。ほんの僅かなチャンスでも、俺は逃すつもりはない」
 「・・・・・警察のキャリアに傷がつきますよ」
 「それがどうした。悪いがそんなものは俺を止める理由にはならないぞ」
 「・・・・・」
その言葉は嘘ではないだろう。
今目の前にいる宇佐見の雰囲気は、その顔以上に海藤に酷似していた。
 「倉橋、あいつに伝えてくれ。どんな手回しも無駄だと」
 「・・・・・」
 「また、会おう」
 「あっ!」
不意に腕を掴まれた真琴は、倉橋が止める寸前に宇佐見のキスを頬に受けてしまった。