昔日への思慕



20







 宇佐見が部屋を出て行った後、どちらかともなく大きな溜め息が零れた。
 「・・・・・海藤さんに似てましたね」
 「・・・・・ええ、さすがご兄弟ですね。どうも、厄介な方が本気になったようで・・・・・」
 「すみません・・・・・」
 「いえ、真琴さんのせいではありませんよ」
苦笑してそう言った倉橋だが、真面目な彼は先程の出来事を全て自分のせいにして、海藤に報告をするだろう。
それぐらいで海藤が倉橋を叱責するとは思わないが、真琴は念の為と倉橋に言った。
 「今の、内緒にしましょうよ」
 「真琴さん、それは・・・・・」
 「あ、じゃあ、来たことは伝えても、それ以上はなしで。宇佐見さんだって、勢いであんなこと言ったかもしれないし」
それが気休めにもならない言葉だとは感じていた。あれ程はっきりと言い切った宇佐見の決意が簡単にひるがえるとは思わない。
それでも、真琴はそうあって欲しいという思いを込めて、じっと倉橋を見つめて言った。
 「お願いします」
 「・・・・・分かりました」
いずれ伝えなければならないだろうが、今は真琴の思いに応えよう・・・・・そう思った倉橋は、苦笑しながら頷いた。
 「ありがとうございます」
 ほっと安心したように息を吐いた真琴は、チラッと部屋の時計を見上げた。
海藤達が出掛けて、そろそろ1時間が経とうとしている。
(大丈夫かな・・・・・海藤さん)



 「・・・・・」
 部屋の入口に立っていたボディーガード達が、海藤と綾辻の姿を見て深く頭を下げた。
 「変わったことは」
 「・・・・・」
ほんの僅か躊躇を見せた男は、直ぐに答えを返した。
 「宇佐見という男が来ました。倉橋幹部が部屋に招いて、10分もしない間にお帰りになりました」
 「・・・・・」
(・・・・・報告が行ったか)
 病院での襲撃の事を宇佐見が知ることは想定していたが、ここまでやって来るとは意外だった。
海藤はその意味を考えようとしたが、直ぐにその思いを振り払って部屋に入る。今はとにかく真琴の顔を見たかった。
 「お帰りなさい!!」
 既に時刻は深夜3時になろうとしていた。
しかし、真琴は寝巻きに着替えることもなく、海藤がドアを開けた瞬間にその身体に飛びついてきた。
 「起きていたのか?」
 「だって、ちゃんと顔を見てお帰りって言いたかったから・・・・・海藤さん」
 「・・・・・」
 一瞬言葉に詰まった真琴に、海藤は自分の身体に血の匂いが付いているのかと緊張した。早く真琴に会いたいからと、服も
汚れていなかったのでそのまま帰ってきたが、やはりどこかで着替えてきた方が良かったのだろうかと後悔する。
しかし・・・・・、
 「・・・・・よかったぁ・・・・・ちゃんと帰ってきてくれた・・・・・」
真琴の言葉が詰まったのは不信感からではなく、海藤の身を案じていたからだということに、その心から零れたという言葉の響き
で分かった海藤は、真琴を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
 「心配を掛けてすまなかった」
 「・・・・・」
真琴は首を横に振る。
 「真琴・・・・・」
温かく、優しい・・・・・確かに生きていると腕の中で確かめた海藤は、やっと心からの安堵の息を漏らす。
真琴に何かあったとしたら、海藤は真琴をこの地に連れてきたことを一生後悔しただろう。父親の命と引き換えに出来るほど、
真琴の命は軽くない。
 「海藤さん・・・・・?」
 「真琴」
 「海藤さん、疲れたんですか?」
海藤は答えることが出来ずに、ただその身体を抱きしめるしかなかった。



 一方、綾辻は頬に笑みを浮かべながら倉橋に歩み寄った。
 「ただいま。お留守番、ご苦労様」
 「・・・・・」
敏い倉橋は、真琴とは違って敏感に血の匂いを感じ取っているのだろう。白い面が青褪めていくのをみると、綾辻は海藤の目
の前でも構わずにその身体を抱きしめたくなってしまった。
もちろん、倉橋はけしてそれを許さないだろうが。
 「手間は掛かりましたか?」
 「ぜ〜んぜん。手ごたえがなくてつまらなかったわ」
 「どうしたんです?沈めたんですか?」
 真琴の手前、はっきりと『殺した』とは言えないのだろう。
遠回しにそう言う倉橋に、綾辻も遠回しに答えた。
 「船に乗せたわ。まあ、力は無いだろうけど、船員達の便所にはなるでしょう?何年も海に出てるから、デブの中年でもモテモ
テよ」
そこまで言って、綾辻は倉橋の耳元に唇を寄せた。
 「背中の彫りものも綺麗に剥ぎ取って、知り合いの大学教授にくれてやることにした。最近は大物の刺青が手に入らなかっ
たって大喜びしてたぞ」
 「・・・・・」
 その教授のことは倉橋も知っている。刺青の収集を趣味としていて、その入手ルートがどんなものでも構わないという変わり者
の男だ。
倉橋にも彫ってないのかとしつこく聞いてきたほどだ。
 「ご苦労様でした」
 「い〜え。克己、腕の方は?もう痛くないの?」
 「子供じゃないんですから・・・・・」
 眉を顰めて文句を言おうとした倉橋が、ふと言葉を止めてじっと綾辻を見つめた・・・・・いや、正確には綾辻の胸元を、だ。
 「克己」
 「・・・・・汚れてますね、それ」
 「ん?・・・・・あ」
(見落としてたのか)
綾辻の好きなオリーブ色のネクタイに、小さな染みが付いていた。黒っぽい・・・・・しかし、よく見れば赤黒いと分かるそれは、あ
の時殴った時の返り血だろう。
着ていたコートと革の手袋は始末してきたが、まさかこんなところについているとは思わなかった。
(気に入ってたのにな)
綾辻は口の中で舌打ちをし、真琴に気付かれる前に外そうと手を伸ばす。
 「・・・・・」
 「克己?」
 綾辻が手を伸ばすより一瞬早く、倉橋がそのネクタイを解き始めた。
綺麗な白く細い指が、まるで自分の首筋を愛撫するように滑らかに動くさまを、綾辻は何時しか息をのんで見つめていた。
 「克己・・・・・」
スルリとネクタイを解いた倉橋は、それを手にしたまま何時もと変わらない口調で言った。
 「代わりのものは私がプレゼントします」
 「・・・・・」
 「これと同じ色でいいですね?あなた、好きでしょう、この色」
 「・・・・・ああ」
 何時もと変わらない人形のような綺麗な顔。しかし、その仮面のような顔の中、華奢な体の最奥には、誰にも負けないほど
の熱い魂を持っているのだ。
 「サンキュー、克己」
綾辻の頬に、鮮やかな・・・・・本当に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
しかし、倉橋はそれには答えず、黙ったままそのネクタイを自分のスーツのポケットに押し込んだ。